第一章
この八月、猛暑が人々の体力を確実に奪っていた。
熱中症による救急車の搬送者数が、過去最高を毎日のように更新し続けていた。
玄関のドアフォンから、初めて聞く声が「ただいま」と言った。
僕は、玄関ドアを開けて、微笑を浮かべた。今回は、慣れてきたのか、自然と笑みが出た。
「おかえり」
彼女は居間に入ると、鞄を置いて僕を見た。
「今日からは、この体よ」
彼女はそう言って、微笑を湛えた。
僕の好みでは、前の体の方が良かった。しかし、彼女は前の体の太ももが少し太いことと、目が一重であることを気にしていた。
「夕食は何にする?」
僕は鞄を運びながら聞いた。
彼女が体に慣れるまでは、負担をかけないようにするのが、二人の暗黙の了解だった。
「そうね。カレーが食べたいわ」
僕は頷いて、冷蔵庫から食材を取り出し、彼女は楽な服装に着替えた。
僕はキッチンでニンジンの皮をむきながら、ソファに座ってファッション紙を見ている彼女に質問をした。
「何歳なの?」
彼女は白いバッグを覗き込んで、運転免許証を取り出した。
「八月二十八日生まれの二十五歳よ。もうすぐ誕生日ね」
彼女の明るい声に、僕は自分の手の甲を見た。
僕はもうすぐ四十歳になる。彼女の本当の年齢は知らないが、他人から見れば、歳の離れたカップルに見えるだろう。
翌朝、僕の方が先に目が覚めた。
隣に眠っている見慣れぬ女性の顔を、横になったまま眺めていた。少し青みがかったように見える黒髪が、顔の半分を隠している。唇は薄く、眉も細い。鼻筋は通っていて、顎は細い。
瞼が開いて、黒い瞳が現れた。
「おはよう」
僕は挨拶を返す代わりに、別の言葉を出す。
「夢を見たよ」
彼女は、軽く目を擦った。
「どんな夢?」
「二十三年前の夏の夢だよ」
「懐かしいわね。あなたが高校一年生の時ね」
「君と初めて会った時のことだ」
「あの時のカキ氷の味は、覚えているわ」
僕は微笑を彼女に向けて、体を起こした。
「朝食を作るよ」
ここ何年かは、一年に一度、同じような会話を同じような時期にしていた。
朝食を済ますと、僕はパソコンに向った。世界経済の状態をチェックするのが、毎朝の日課になっている。
三年前に仕事を辞めてからは、投資家として暮らしている。一千万ほどあった父親の遺産を、株やFXなどで増やすことに成功し、それを元手に比較的安定的な収入が得られる運用をして暮らしている。多くはないが、贅沢をしなければ、大人二人が暮らすだけの収入はある。
三年前までは、小さな食品会社で、事務の仕事をしていた。
彼女はその時、三十二歳の美容師であった。
その年も、彼女は姿を消した。十日が過ぎ、彼女が戻ってくるのを待っていたが、なかなか彼女は戻ってこなかった。
彼女よりも先に、壮年の男性が現れた。
「娘に何をした?」
男の顔には、はっきりとした敵対心が現れていた。
僕はすぐには状況が飲み込めず、間抜けな表情を浮かべていたのだろう。それが男の神経を、さらに逆撫でしたようであった。
「変な薬でも飲ませて、操っていたのか?娘は、この一年の記憶がないと言っている。娘に何をしたのか、言うんだ!」
男は、娘とは何年も音信不通だったらしい、三ヶ月前に母親が亡くなったことを伝えようと、探偵を雇って調べさせたが、家を開けたまま、半年以上も帰っていないことが分かった。しかし、家賃は払い込まれていることから、戻ってくることを期待して、月に何度か探偵業者に様子を確認するように依頼していた。一週間前に娘が戻ってきたことを知り、すぐに娘のところに行ったが、この一年の記憶がなかった。
男は探偵に、この一年の娘の生活状況について調べさせた。娘が持っていたレシートを手掛かりに、探偵は娘が一年前から暮らしていた場所を探し出した。
その情報で、男は僕のところに現れたのである。
僕は真実を説明することもできず、「薬などは使っていません」とだけ言って、黙ってしまった。
当然ながら、それでは納得できるはずもなく、憤慨したまま男は帰っていった。
それから三日間は何事もなく過ぎていったが、男は突然に僕の勤めていた会社に現れた。
「この会社は、犯罪者を雇っているのか!あいつは娘を一年間も拉致しておくような奴だぞ!」
男は会社の社長に向って、言い放った。
さらに、男は探偵社の報告書を見せて、僕が男の娘の腕を引っ張るようにして、マンションの中に連れて入っている写真を見せた。それは、酔い潰れそうになっていた彼女を支えるようにして、マンションに入ろうとしていた時のものだったが・・・。
男は警察にも行ったが、娘自身が被害を受けた記憶や外傷がなく、被害届を出す意思がないことから、相手にしてもらえなかったようであった。
男は何度も会社に来て、僕に対する誹謗中傷を言い捨てた。
同僚の一人は、僕に警察へ被害届を出すようにアドバイスをしてくれたが、それを実行することはなかった。
結局、僕は会社へ退職願を出し、会社は形式的に引き止めただけで、退職金を出した。
彼女は、それから一週間ほどして、別の姿で戻ってきた。
朝九時からパソコンの画面に向かい、株価や為替などを一通りチェックし、注文の設定を終えると、僕は居間のソファに座った。
彼女は、録画していたドラマが映し出されているテレビから、一瞬だけ視線を外して僕の方を見た。
僕は彼女にいつもの言葉を投げる。
「コーヒーを飲むかい?」
彼女はテレビ画面に視線を向けたまま頷いた。
「ミルクを多めにしてね」
立ち上がるときに、ソファのスプリングが軋む音が、耳の中に侵入してきた。
湯が沸くのを待つ間、僕はソファの背もたれ越しに見える彼女の首筋を見ていた。細い首が折れそうなほど前に傾き、ゆっくりと揺れている。
カフェオレを前に置くと、彼女は居眠りから目覚めた。カップの縁に唇を付けて、離す。
「この子のことが気になるでしょう?」
彼女は自分の顔を指差した。
僕は曖昧に頷いた。確かに気になる。しかし、知りたくないという思いもある。
彼女はカフェオレをもう一口飲み、話し始めた。
「この子は、半年前に父親を亡くしたわ。母親は、三年前に乳癌で亡くなっていて、兄弟はいなかったから、父親が唯一の肉親だったのね。それで、かなり落ち込んだらしいわ。その頃は、恋人もいて支えてくれたらしいけど、この子は立ち直れなかった。次第に、恋人も距離を置くようになって、遂には別れたようね」
僕は、ゆっくりと頷いた。
「君が、この子に会ったのは、いつ?」
彼女は視線を宙に投げた。
「…先月の十九日ね。梅雨が明けたはずなのに、あの日は、じめじめとした雨が降っていたわ」
彼女は言葉を机の上に落すように、話し始めた、
彼女がこの子、田神成美に会ったのはコーヒーショップだった。
田神成美は窓際の席で、ぼんやりと外を眺めていた。他の客たちが、スマートフォンを操作したり、本を読んだり、書類に目を通したりして、何かで時間を埋めようとしているのとは対照的に、田神成美は自分の時間を止めていた。
彼女は、田神成美の姿を本を読む合間に、見ていた。
ゆっくりと田神成美は立ち上がり、店の出口に向った。
彼女も、本を鞄に入れて立ち上がった。
田神成美の歩みは、淡々としていた。行先は、決まっているようである。手には、大きめの紙袋が提げられている。
まだ、夕暮れには早い時間であるが、厚い雲のせいで、かなり薄暗い。
大きな公園が見えてきた。城跡を利用して造った公園のようで、図書館も一角にある。奥に入っていくと、犬の散歩をしている人の姿もなく、閑散としている。
彼女は無造作に後を歩いていたが、田神成美は気付く様子もなかった。
田神成美は、足を止めて視線を上げた。そこには、大きな桜の木があった。春には多くの花を咲かせると思われる、勢いのある樹であった。
彼女は少し離れた樹の陰から、静かな視線を向けていた。
田神成美は、周りに人がいないのをおざなりな視線を投げて確認してから、紙袋を無造作に逆さにした。
紙袋から、落ちてきたものが、草の上に広がった。
田神成美は、そこから折りたたみ式の踏み台を持ち上げて、桜の木の下に置いた。続いて持ち上げたのは、白いロープだった。
ロープの端を結んで重り代わりにして、投げ上げると、ロープは一番太い枝にかかった。ロープの両端を強く引いて、枝が折れないことを確認すると、おもむろに結びだした。
数分後には、首吊り自殺の舞台が整った。
田神成美は踏み台の上に立ち、ロープを自分の首に近づけた。
「用意周到ね」
彼女は田神成美の背後から、急に声をかけた。
田神成美は小さく悲鳴を上げ、振り返った。
「誰?」
「提案があるのだけれど、首を桜の枝にぶら下げるのを少しだけ待ってもらえる?」
彼女は微笑を浮かべていた。
田神成美は首に近づけたロープを見てから、小さく溜息を吐き、ロープを外し、踏み台と共に紙袋に入れた。そして、無言で紙袋を左手に提げると、歩き出した。
「待ってよ。どうせ死ぬつもりなのでしょう?それなら、少しの時間を私にくれても、構わないでしょう?」
田神成美は、自分の行く手を塞ぐように顔を突き出した彼女に、冷淡な一瞥を与えた。
「私の時間は、私のものなの。あなたに、あげるつもりはないわ」
田神成美の声には、何の覇気も感じられなかった。
「口を開く余力は残っているみたいね」
彼女の皮肉に、田神成美は微かに眉間に皺を寄せたが、何も言わずに歩き始めた。
彼女は田神成美の後ろを追った。今度は、十歩ほど離れているだけである。
田神成美が信号などで立ち止まっても、彼女は近づかない。
駅に入り、電車に乗っても、彼女は田神成美から目を離さなかった。
電車を降り、駅を出て、しばらく歩いたところで、田神成美は足を止めて振り返った。下を向いたまま、彼女を手招きした。
彼女は近づいていったが、三メートル手前で立ち止まった。
「私の提案を受け入れる気になったの?」
田神成美はだるそうに首を振った。
「放っておいて…目の前から消えないと、警察に行くわよ」
彼女は微笑を浮かべた。
「それは名案ね。首を吊ろうとしているところを見られた女に、付きまとわれています、とでも警官に言うつもりなの?余計に面倒なことになるだけよ」
田神成美は、反論しようと口を開きかけたが、何も言わずに、再び歩き始めた。
彼女は再び、少し離れて、後を追った。
陽が完全に落ちて、夕闇が街を覆ったが、代わりに街灯や店の照明が光を提供していた。
田神成美は、歩道の端に立ち止まった。薄暗い街頭の下である。
「今日は、もう自殺しないわ。だから、放っておいて」
彼女は田神成美に顔を寄せた。
「でも、明日になれば首を吊るの?」
「明日も自殺はしないわ」
「自殺は止めるの?」
「…止めるわ」
「嘘ね」
彼女の冷静な声に、田神成美は反発を覚えたようであった。
「止めても無駄よ!半年以上も考えて、死ぬことにしたのだから…」
彼女は安心させるように、微笑を浮かべた。
「自殺を止めるつもりはないのよ。どうせ死ぬのなら、私にあなたの肉体を貸して欲しいと思っているの。一年だけでいいから、貸してくれない?」
田神成美は彼女の言葉に怪訝な表情を浮かべた。
「どういうこと?どこかで過酷な労働でもさせるつもり?」
彼女は真剣な視線を向けた。
大型のトラックが車道を通り、騒音を撒き散らした。
その音が遠ざかってから、彼女は口を開く。
「そのままの意味よ。あなたの体を私が借りて、一年後に、あなたに返してあげるわ」
田神成美は彼女から、少し体を遠ざけた。
「意味が分からないわ。あなたは何者なの?」
「説明は難しいわね。あなたは死ぬつもりなのよね。それなら、私の提案を受けてくれても、良くない?一年後に、どうしても死にたければ、その時に死ぬこともできるわ」
田神成美の顔には、嘲りの色が見えた。
「あなたは、正気なの?何を言っているのか、さっぱり分からないわ。人の体は、服じゃないのよ。貸し借りなんて、できないわ」
彼女は、その言葉を聞いて、微笑を浮かべた。
「できるとしたら、私の提案を受けてくれるの?」
田神成美は乾いた声を出した。
「すぐにできるなら、受けてもいいわ。でもすぐにお願い、待っている気にはなれないの」
田神成美の口の端に、はっきりと嘲笑が浮かんだ。しかし、すぐに顔色を曇らせた。
彼女の顔には、自信に満ちた穏やかな微笑が浮かんでいたままなのである。
「あなたの口から、了承の言葉が出たわ。あなたの体は、私のものになるわ」
彼女の言葉が、田神成美の耳に入り込んだ。
…これは四日前の出来事だった。
彼女は話し終わると、飲み終えたカフェオレが入っていたカップをキッチンのシンクに置いて、洗面所へ向った。
僕は立ち上がって、財布をポケットに入れた。そろそろ食料を買出しに行く時だった。冷蔵庫の中の食材が、空になりかけている。
窓から見える空には、薄い雨雲が浮かび、強い日差しを和らげていた。
その空の下には、二人の部屋に視線を投げる人影が一つ…。
視線の先に玄関ドアを開けた僕を捕えてから、その人影はゆっくりと歩き始めた。