第9話
壁に掛かったレリーフが微かに揺れていた。腰をかがめ、床に落ちた物を拾った。封筒だった。元は真っ白な上質の封筒だったのだろう。うっすらと紙魚が浮いてはいたが、しっかりとした張りを保っていた。力強く端整な文字で「ヴィルジニー・クロエへ」と宛名が書かれていた。裏には差し出し人の名前も、封蝋も無かった。これは、ヴィルジニー小母さんの恋人からの手紙なのだ。マリーは、両手で持ったまま、じっと封筒を見つめた。
ヴィルジニー小母さんが亡くなってから、もう何年も経っている。この封筒は、ずっと誰にも見つけられずに母子像のレリーフの裏にあった。まるで、約束でもしていたかのように、今、自分の手の中にある。マリーは、そっと封を開いた。便箋は封筒に守られていた為か、まだほとんど昨日書かれたもののように白かった。インクの色もくっきりと鮮やかだった。
愛しいヴィルジニー
君はさぞ、私を恨んでいることだろう。あれほどまでに共に生きようと誓った私が、今は、唯々諾々と親の勧めに従い、愛の無い結婚を受け入れている。全てを捨てて、私を愛してくれた君に、私はなんと心無い仕打ちをしていることだろう。
心が体を離れて存在できるのであれば、私の心はすぐにでも君のところへ飛んでいく。私の体は、私のものでありながら、すでに私の自由にすることができないのだ。そして、心もこの体から抜け出すことができずにいる。たとえ抜け出せたとしても、この体なくして、どうして君を幸せにしてやることができるだろう。
兄がもし、死なずにいてくれたら、せめて嫡男を儲けていてくれたら、私達は、今もパリで幸せに暮らせていただろう。今更こんなことを言う私を、女々しいと君は笑うだろうか。
テオフィルは、ますます君に似てきている。栗色の髪も、瞳も、君に生き写しだ。とても賢く、愛らしく、皆に愛されているよ。毎日元気に過ごしている。
あの日、君が私にテオフィルを託してくれたことを、本当に感謝している。テオフィルは、君が私に与えてくれたかけがえのない嫡男だ。いずれ、私の爵位を彼が継ぐだろう。これだけは信じて欲しい。君が与えてくれた息子を、テオフィルを、私が必ず幸せにする。
ヴィルジニー、私の永遠の恋人よ。君一人すら守る事の出来なかった、無力な私をどうか許しておくれ。家門を守るという私に課せられた義務を、私は果さねばならないのだ。
君がどれほどの犠牲を払ってくれたか、私は決して忘れない。君と過ごした時間こそが、私の真の人生だった。私は君の庭を忘れない。赤いつる薔薇とあふれる季節の花々と、そこに立つ君の姿を決して忘れない。
ヴィルジニー、愛している! 君に大いなる神のご加護が在らんことを!
ユーグ・フレデリック
丁寧に便箋を畳み、封筒に戻した。私はお仕着せのエプロンのポケットに、そっとその封筒をしまった。窓をすっかり閉めて庭に出ると、西の空はもう茜色に染まっていた。色づいた林の梢が、風に揺れ、はらはらと葉を散らしている。
私はドアに鍵を掛けた。「カチリ」と思いがけず大きな音が鳴った。家が、私に別れを告げたような気がした。もう、この家の鍵をこの手で開けることはないだろう。幼い日の思い出は、皆ここに在った。
私は石積みの階段を降り、庭に立った。そして、ポケットから手紙を取り出した。あの日、この庭で出会った紳士が、この手紙を書いたのだ。幼く小さな私の体に、すがるようにして肩を震わせ泣いていた、初老の紳士。彼はこの短い手紙の言葉の間に、彼とヴィルジニー小母さんの二人だけに通じる思いを閉じ込めたのだ。枕辺の聖母子像の裏に、ヴィルジニー小母さんはどんな思いで、この手紙を隠し置いたのだろう。「テオフィル=神に愛されし者」と名づけられた子供は、母親のことをいつか父親から知らされたのだろうか。
庭の隅の赤い小さな実をつけたつる薔薇の根元を、私は手で掘った。よく手入れのされた土は柔らかく、温かだった。私は、封筒と便箋をちぎった。細かく細かく、雪のように舞うほどに、私はちぎった。手紙は白い柔らかな塊となり、私の手のひらからこぼれ落ちる土の中に、埋もれていった。手紙はこれでもう誰にも読まれることは無い。私は立ち上がり庭を後にした。
裏庭にマリーの影が長く伸びていた。つんのめるように足早に屋敷に向かう彼女の耳に、馬のいななく声が聞こえた。立ち止まり、マリーは馬場の方を見た。ばら色の夕日の中で、金色の髪が明るく輝いていた。白馬に跨り軽やかに操る、金髪の貴公子の姿がそこにあった。美しい光景は、彼女の胸を深く刺した。叶うはずのない恋なのだ。決して思いを告げる事はない。二人の人生が重なることなど、絶対にありえないのだ。
季節の花が咲き誇る、つる薔薇の垣根に囲まれたあの小さな庭で、ヴィルジニー小母さんは、凛として頭を上げて、生きていた。彼女の胸の中には、あの手紙があったのだ。
「ヴィルジニー、愛している!」
その一言だけを信じて、彼女は生きていたのだ。マリーの栗色の目から涙が溢れ出た。身分の差に引き裂かれながらも、愛を信じたヴィルジニー・クロエはなんと幸せな女だったのだろう。マリーは滴る涙を拭いもせずに、林の向こうにゆっくりと沈む、ばら色の夕日をいつまでも見つめていた。
薄暗い路地の奥に、親しいような、よそよそしいような、そんな微妙な距離で、二つの人影が並んでいた。アナトールは、声を掛けることもできず、路地の曲がり角で立ち尽くしていた。石造りの建物にはさまれた狭い路地は、話し声をいやおうなくアナトールの耳元に運んでくる。
「マリー、俺の気持ちを知っているんだろ?なんで、無視をする?俺はしがない仕立て職人だけれど、だからって、無視する事はないんじゃないか?俺がどんなにマリーのことを・・・」
苦悩を帯びた若い男の声だった。
「ギョーム、無視なんてしていないわ。あなたのことは弟のように思っているの。何度も言ったように、私はあなたの気持ちに答えることはできない。あなたはまだ若いし、私よりも相応しい可愛いいお嬢さんが他にいくらでもいるわ。わかってちょうだい。」
小さな子供に諭すような落ちついた低い声だった。
「俺はマリーを姉さんだなんて思ったことなど一度もない。マリー、愛しているんだ。それをどうしてわかってくれない!ねえ、マリー、お願いだよ。どうか俺を愛していると言ってくれ・・・。」
男は搾り出すような声で女に愛を乞うた。
「私はあなたを愛していない。大切に思っているけれど、それは愛じゃない。私は自分の気持ちに嘘をつけないの。だから、もう二度と、言わないで。愛は乞うて与えられるものじゃないわ。」
女の声は低く柔らかかったが、男の望む答えではなかった。薄暗い路地はいたたまれないような沈黙に覆われていた。
「さあ、ギョーム、もうお帰りなさい。お客さまを待たせているから、私は行くわ。」
マリーの足音が聞こえた。
足音に追いすがるように、男は悲しげに叫んだ。
「マリー、俺は知ってるんだ。あんたは今でもお屋敷の貴族の若様が忘れられないんだろ?どうして?どうして俺じゃ駄目なんだ!いつになれば、そいつを忘れるんだ!」
男の影が路地の壁にもたれかかり、そして崩れるように沈んでいった。
「ギョーム、あなたでは私の気持ちはわからない。それでいいの。わからないほうが幸せなのだから。」
マリーは振り向きもせず、歩き出した。