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第8話

ちびた蝋燭に小さな炎が頼りなげに揺れていた。部屋隅はすっかり闇に溶け、マリーとニノンの周りだけが明るく照らされていた。粗末な椅子に座りなおして、ニノンは再び話し始めた。


「ヴィルジニーには子供がいたんだよ。彼女に良く似た栗色の髪の男の子だったって。せめてその子が彼女の側にいてくれたら、どんなにか彼女に慰めになっただろうて。」


ニノンは深い溜息をついた。


「子供は死んでしまったの?」


「生きているよ。侯爵様の跡取りとして。」


「え?小母さんの産んだ子なのでしょう、なぜ?」


「ヴィルジニーの恋人は、侯爵様の次男だったんだ。ところが、ご嫡男が跡継ぎをもうけないうちに、亡くなってしまったんだよ。それで、彼が爵位を継ぐ事になってしまったんだ。そうなったらもう勝手なことをしているわけにはいかない。領地に呼び戻されて、親の決めた相手と結婚させられてしまったんだよ。」


「それじゃ、小母さんと子供はどうしたの?」


「しばらくは、お手当てを貰ってパリで暮らしていたのさ。要するに囲い者と言うわけだよ。親、兄弟との縁を捨ててまで、一緒に居たかった相手なのに、相手の男は、結局、同じ身分の女と結婚してしまった。」


「そんな・・・。」


マリーは言葉を失った。


「不幸せというのは、悪い友達のようさ。つぎつぎとつるんでやってくる。自分がしっかりしなけりゃ、流されていってしまうのさ。」


ニノンは、吐き捨てるように言った。


「でも、どうして小母さんはこのデスタン家にいたのかしら?」


マリーは腑に落ちなかった。


ニノンはマリーの問いに、困ったような顔をした。しばらく思案気にしていたが、やがてまた、ゆっくりと話し始めた。


「ヴィルジニーの子供を取り上げる為さ。彼が結婚した女は、子供が産めない体だったんだ。結婚してからそれがわかったんだよ。それで、ヴィルジニーが産んだ子供を、彼が欲しがったんだ。」


「それと小母さんがあの家に住んでいたことと、どう関係するの?」


マリーには理解ができなかった。


「ヴィルジニーが産んだ子供は本来侯爵家の跡取りになんかになれはしない。でも、奥方は子供が産めないのだし、ヴィルジニーの子が彼の子供なのは間違いないのだからね。裏で手を回して、嫌がるヴィルジニーから無理に取り上げていって奥方が産んだ子供だという事にしたのさ。酷いものさ。彼としたら、愛した女が産んだ子供だもの、可愛くないはずが無い。だけど、奥方にしたら、どんなにか癇に障るだろう。ヴィルジニーの子供を引き取る条件として、彼に二度とヴィルジニーと会わないと約束させたんだ。奥方はたいそうな家柄の出だったそうだから、侯爵家も手を打たないわけに行かなかったんだよ。とにかく、侯爵様はデスタン家の先代と懇意な方だったし、ヴィルジニーはデスタン家の侍女だったわけだから、使用人の不始末の償いを求められたのだろうね。それで、彼女はデスタン家で暮らすことになったのさ。でも、人目につくから侍女として働かせるわけにもいかない。仕方なく、屋敷裏のあの家に住まわせておいたのさ。ヴィルジニーは、二十年以上もこの屋敷から外に出たことは無かったんだよ。デスタン家の使用人の子供の面倒を見て、小さな庭を手入れして・・・、この屋敷の中だけで生きていたのさ。後先考えずに、身分違いの恋なんぞに溺れたヴィルジニーも悪かったんだよ。それでも、可愛い盛りの子供を取り上げられて、この屋敷に閉じ込められるように暮らしていたんだ。十分に苦しんだんだよ。子供を取り上げられるのが、どんなに母親にとってむごいことか・・・。」


ニノンは大きなため息をついた。


「マリー、お前もそろそろ年頃だから言っておくよ。人には相応の分と言うものがあるんだよ。お前は父さんに似て、私の子にしちゃもったいないほど器量もいいし、気立てもいいとみんなが褒めてくれる。でもね、自分の分を超えるような恋をしちゃいけない。私はお前にヴィルジニーのような辛い思いをして欲しくないからね。」


ニノンは、向かい合って座るマリーの顔をじっと見ながら言った。


「いやあね、母さん。そんな心配は要らないわ・・・。」


マリーは、俯いたまま力なく答えた。


ちびた蝋燭は、もう溶けて燭台にへばりつくように残っているだけだった。かろうじて残った僅かな芯に、小さな炎が不安げにゆれていた。


 秋の風が小さな庭に吹いていた。赤や黄色に色づき始めた木々の梢が、青く澄んだ空に揺れていた。垣根を這う薔薇のつるには、びっしりと赤い小さな実がついている。このちいさな庭で小母さんは、何を思っていたのだろう。幼くして別れ別れになってしまった息子のことだろうか。それとも、自分を捨てた男のことだろうか・・・。石積みの階段を上り、少し錆のついた扉の鍵を開けた。長く閉め切ったままだった家特有の、重く湿った匂いがした。私は、窓をひとつひとつ開いていく。開け放った窓から、風が吹き抜けていった。


 私は、埃が積もった床を掃き、ブラシを掛け、曇ってしまった窓ガラスを拭いた。家の中にはほとんど家具も無く、掃除はさほど面倒なことは無かった。全ての部屋の掃除が終わる頃には、午後の日差しが西向きの窓から長く部屋の中に差し込み始めていた。明日になれば、旦那様が新しく雇い入れた庭師の一家が、この家にやってくる。長く空き家だったこの家も、新しい住人を迎え、思い出の家と違った空気を満たすようになるのだろう。ひとつひとつ窓を閉めながら、ゆっくりと家の中を歩いていく。小母さんが寝室にしていた小部屋の壁に、ブロンズのレリーフが掛かっていた。愛らしいイエス様を胸に抱くマリア様。ちょうど、小母さんのベッドが置かれていた位置の、枕辺にあたる場所だった。風に吹かれた所為だろうか、僅かに斜めに傾いていた。私は、掛け直そうと、歩みよってレリーフに手をやった。何か白いものが床に落ちて、ぱさりと乾いた音を立てた。



注)18世紀フランスでは正式な婚姻に寄らず出生した子供に相続権はありませんでした。

ですから、本来であればヴィルジニー・クロエが産んだ子供が侯爵を継ぐことは出来ないのです。正式な妻が子供を産めなかった為、裏工作をして嫡子と引き取ったのです。その秘密を守るため、ヴィルジニーは死ぬまでデスタン伯爵家に軟禁状態に置かれていました。

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