第7話
「マリー、お前はお父さんにそっくりだね。背が高くて、ハンサムで、優しい父さんだったんだよ。お前が私に似ずに本当に良かった。」
幼い頃から何度も母にそう言われた。鏡に映る自分の顔は、確かに母に似たところは少しも無かった。私の顔を男にしたら父の顔になるというのなら、父は確かにハンサムだったのだろう。形のいい眉、大きな栗色の目、筋の通った鼻、丸みのある唇、そして、ゆるく巻いた艶やかな栗色の髪。12の時には母の背を追い越し、14の時には手足だけがひょろひょろと伸びて、長い手足をもてあましていた。そして、16になった頃には、デスタン家の侍女の中で一番背が高かった。母はと言えば、お世辞にも器量が良いとはいえなかった。小柄で少しずんぐりした体、丸い顔に、小さな丸い目、丸い鼻、少し大きめの口。麦藁色の髪に薄茶の目。いつでもくるくると動き回り、てきぱきと仕事をこなしていく。しっかり者なのに涙もろく、情に厚い、そんな母は、主人一家からも、使用人仲間からも一目置かれる存在だった。母は何を置いてもレオン様大事で生きており、レオン様は本当の母親のように、母を大事に思ってくれていた。私はといえば、体は大きくなっても母からは半人前扱いで、どうにも自信が持てずにいた。一生懸命働いて、決して他の侍女に比して劣っているとも思われないのに、母の要求は、自分にだけとても厳しいものに思えてならなかった。本当に私は母の子供なのだろうか?他人の子供を助ける為に、私たちを残して死んでしまった父に似すぎている為、母は、本当は私のことを恨んでいるのではないか?ありえないと思いながらも、考えてしまうことがある。父に似ている容姿を褒められても、あまり嬉しいと思えなかった。いっそ、母にそっくりであったなら、どれほど良かったことだろう。そうしたら、母は私に優しくしてくれるのだろうか。私は、誰に褒められるより、母に認めてもらいたかった。
厨房の片付けも終わり、粗末な木のテーブルにちびた蝋燭を2本ばかり灯した燭台を置いて、母と娘は二人だけで夜なべ仕事の繕い物をしていた。時折風が入ってくるのか、壁に映った二人の影がかすかに揺らぐ。長く空き家になっていたあの家に、庭師の一家が住むことになった。明日は掃除をするようにと執事のパスカルさんから言いつけられた。今は、もうあの庭で泣くことも無くなったけれど、他の人が住むと聞いて、マリーはひどく寂しい気がした。マリーは、長年心の中にしまっていた疑問を母にたずねることにした。
「ヴィルジニー小母さんは、なぜ、あの家に一人で住んでいたのかしら?」
「どうしてそんなことを聞くんだい?」
ニノンは顔も上げずに聞き返した。
「だって、独り者の小母さんがあんな家に一人で住んでいたのですもの、不思議に思うでしょ。それにね、小母さんが亡くなった後、訪ねて来た人がいたわ。貴族の男の人。小母さんぐらいの年で・・・。」
「マリー、お前、そのことを誰かに話したかい?」
ニノンはマリーの話を遮って、低い声で言った。
「いいえ、母さん。今まで誰にも話したことはないわ。」
マリーは、母が不安げな顔で自分を見ていることに戸惑った。
「そう、それならよいのだけれど。マリー、この事は誰にも話してはいけないよ。お屋敷での出来事を、むやみに他人に話して、旦那様方にご迷惑をかけてはいけないからね。」
母は私の言葉を聞いて、少し安堵したような顔をした。
「母さん、わかっているわ。私、他の人に話したりなんかしない。ただね、母さん、私は小母さんの事を知りたいの。ヴィルジニー小母さんは私を本当の娘のようにかわいがってくれた。もっと長く生きていたら、色々と聞くことができたのかも知れないけれど、小母さんは亡くなってしまってもう聞けないわ。もし、母さんが知っているなら、話して欲しいの。」
私は母に懇願した。
「マリー、お前も今年で17だ。話しておいたほうがいいのかも知れないねえ。」
母はしばらく考えた後、静かに話し出した。
「お前が不思議に思うように、私もヴィルジニーにはなにか事情があるんだろうなあって、思っていたんだよ。でも、そんなことをすぐに聞けるもんじゃない。ヴィルジニーは私の母親みたいな年だったし、聞いたところで、答えちゃくれそうにも無かったからね。私がこの話を聞いたのは、亡くなるほんの10日ほど前だった。私からたずねたんじゃなくて、ヴィルジニーの方から話してくれたんだ。何か予感がしていたのかも知れないね。それに、お前のことを本当に可愛がってくれていたから、いつかお前に話してもらいたかったのかも知れない。多分、今じゃ私の他に彼女の昔を知っている人なんて、いないのだろうねえ。あの人は本当にきれいで優しい人だった。分別だって持った人だったのに、まったく、恋は盲目というけれど、身分違いの恋なんかしなけりゃ、いらぬ苦労をしなくてすんだのに・・・。」
母は、眉を顰めて忌々しげに言った。
「いいかい、人には神様から与えられた分というものがある。それに逆らっちゃいけないよ。若い時はみんな夢を見るものさ。でも、夢は夢だからいいのさ。」
ニノンは止まっていた繕い物をする手を、また動かしだした。そして、思い出すようにゆっくりと話はじめた。
「ヴィルジニー・クロエはパリの薬屋の娘だった。16歳の時、2年の約束で行儀見習いの為に、デスタン家に奉公にやってきた。もともと、小金がある家の娘できちんと躾けられていたし、器量も気立ても良かったので、先代夫妻にすぐに気に入られ可愛がられたそうだよ。何事もなければ、約束の2年が終わったら、実家に戻って、大きな薬問屋に嫁入りするはずだった。ところが、その前に、先代の部下の近衛隊士と恋仲になってしまったんだ。浮気な恋だったらまだ良かったのかも知れない。ところが、相手もまだ若くて、二人は真剣に愛し合うようになってしまったんだ。相手の男も貴族とはいえ次男坊で、爵位を継ぐわけじゃなかったし、領地にいる親の目も届かないしで、甘い考えだったんだろうね。約束の2年が過ぎて、デスタン家を辞めたヴィルジニーとパリで一緒に暮らし始めてしまったんだよ。身分が違うから正式な結婚はできなくとも、二人が納得ずくならかまわないとでも思ったんだろうね。ヴィルジニーも若かったから、何よりもその男と一緒にいたくて、親が何度帰るようにいっても、戻らなかったんだよ。ところが、ヴィルジニーを嫁に貰うはずだった薬問屋が、顔をつぶされたと言って怒ってね、実家に圧力をかけたのさ。大きな薬問屋ににらまれて、実家の商売も傾いてしまって、ヴィルジニーはもう親兄弟に会わす顔が無くて、家に帰ることもできなくなってしまった。それでも、愛し合った二人でずっと暮らせれば、幸せだったのだろうけれどね。」
ニノンは、手を止めて繕い物を膝に乗せたまま深くため息をついた。
「ヴィルジニー小母さんは捨てられてしまったの?」
私は、昔あの美しい小さな庭で、私を抱きしめて泣いていた紳士を思い出していた。大人の男の人が泣くのを見たのは、あれが初めてだった。私を抱く手は大きくて、とても暖かかったのに、押し殺した泣き声が寂しくて、寂しくて、頬にこぼれて落ちてきた涙を、私は冬の雨のように冷たく感じた。
「いっそ、きっぱりと愛想を尽かしたと、言われていたら、ヴィルジニーも別の人生を歩けたんだろう。優柔不断に未練を残すほうが、残酷なこともあると私は思うね。」
ニノンは乱暴に立ち上がり、仕上がった繕い物を畳んで籠の中に入れた。そして、指をつばで濡らすと、蝋燭の芯をひとつ摘んで火を消した。とたんに先ほどまで壁に濃く映っていた影が、暗闇に溶けてぼやけていった。