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第6話

 私は、デスタン家で育った。他にもここで生まれ、ここで育った使用人の子は何人かいたが、たいていはそれなりの年頃になると、この屋敷を出て行った。家族ごと出て行くこともあったし、子供だけ出て行くこともあった。温厚な主人の下、他の貴族の屋敷に比べれば、デスタン家は長く勤める使用人が多かったが、それでも少しずつ入れ替わりはあった。私が侍女見習いとして扱われるようになった頃には、母ニノン・モンクールはこの屋敷でも古株となっていた。そして、次期当主の乳母として仕えた母は、レオン坊ちゃまから絶大信頼を受けていた。普通、乳母は乳が必要でなくなれば、暇を出されるのが普通なのだ。しかし、母は献身的愛情を次期当主となるべき赤ん坊に注ぎつくし、現当主夫妻の信頼を勝ち得た。レオン坊ちゃまが乳離れしても、母はデスタン家に必要とされ、この屋敷に留まった。私は母とは別に三階の東向きの個室を与えられ、執事から読み書きの手ほどきを受けた。レオン様の乳姉弟として、私もこの屋敷で使用人の小娘としては破格の待遇を与えられていた。


 ヴィルジニー小母さんがなくなってから、母は私を自分の傍におき、屋敷の仕事を覚えさせていった。母は仕事に厳しかった。


「私たちは、身分不相応なご恩をお受けしているのだよ。お前がしっかりしなければ、せっかくお前をかわいがって下さる旦那様方にご迷惑をかけてしまうのだよ。」


そう言って、母は人並み以上に働くことを、自分にも、そして私にも課していた。まだ幼い私は、母の要求に応えきれずに、失敗してばかりだった。私は失敗をして母から叱責を受けると、この庭に泣きにやってきた。

 小母さんが亡くなったあと、しばらくその家は誰も住むことを許されず、空き家のままになっていた。ただ、その庭だけは、当主の指示で小母さんの生前と変わらぬように、庭師によって手入れされていた。つる薔薇の這う垣根に囲まれた小さな庭は、屋敷の他の建物から少し離れていたため、ほとんど訪れる人もなかった。

 母や他の大人の前で私は涙を見せたくなかった。だから、この庭にやってきて泣いた。ヴィルジニー小母さんが生きていれば、私はもっと長く子供らしく甘えていられたかもしれないと思った。彼女と過ごした日々が、私の押しつぶされそうな心を癒してくれた。小さな赤いつる薔薇の花がたわわに咲き誇る垣根の隅に、私は太い薪を置き、そこに腰掛けて気が済むまで泣いた。この庭では私の泣声を咎めるものもなく、ただとりどりの季節の花だけが、甘い香りを放ち、風に揺れていた。

 ある日、私はランプの掃除をしていてつい手を滑らせ、その火屋を割ってしまった。運悪く、そのランプは奥様のお部屋のもので、美しい模様が刻まれた高価なものであった。母は私のとんでもない失敗をひどくなじった。いたたまれずに、私は勝手口から飛び出した。裏庭をまっすぐ駆け抜け、ヴィルジニー小母さんの庭に飛び込んだ。私は、庭の短い小道を駆け抜け、石を積んで階段になっている家の入り口に、突っ伏して泣いた。幼い私は毎朝ここでヴィルジニー小母さんに抱かれて母を見送った。


「マリー、あなたのお母さんはあなたの為に、一生懸命お仕事をしているのよ。あなたを守りたいからなの。だから、マリーは私と一緒に待ちましょうね。」


ヴィルジニー小母さんは私の髪を優しく撫でてくれた。やさしく頬ずりしてくれた。なぜ、母は私に辛く当たるのだろう。私の目から涙が溢れ、白く積もった土埃に点々と黒い斑点をつけた。湿った土の匂いが立ち上った。


「マリー、どうしたのだ?」


突然声をかけられて、私は驚いて涙も拭わず振り返った。そこには金色の騎士が立っていた。


「レオン様!」


私は小さな声で叫んだ。


「いったいどうしたのだ、マリー。こんなところで、なぜ泣いている?」


逆光に金色の髪が透けて光っていた。切れ長の青い目が不思議そうに私を見つめていた。私は濡れた頬をエプロンの端でぬぐい、体を起こして石の階段に腰掛けた。レオン様は、私の隣に並んで腰を下ろした。


「僕とお前はニノンの同じ乳を飲んで育ったのだから、姉弟と同じだよ。」


レオン様はいつもそういって、私に優しくしてくれる。もっと小さくて、私がまだ、身分というものも良くわからない頃は、私たちはこの庭でよく遊んだ。ヴィルジニー小母さんの庭はレオン様のお気に入りの場所でもあった。いたずらをして「うばや」にしかられると、この庭に逃げ込んできた。


「こんなところで使用人の子と遊んではいけません。」


そう言う母にすぐ連れもどされてしまうのだけれど、それまでの一時を、私たちは仲良く遊んで過ごした。お互いに大きくなって、レオン様は士官学校に通われるようになり、私は、母と一緒に使用人としての仕事をするようになった。私たちはもうこの庭で会うことも久しくなかった。


「ニノンにしかられたのか?」


まだ、ぐすぐすと鼻を鳴らしている私の顔をうかがうようにして、レオン様がいった。


「奥様のランプの火屋を割ってしまったの。」


私は、正直に言った。レオン様は私が隠し事をするのを嫌がったから。


「花の模様がついた?」


私はこくんとうなずいた。


「あれは大きくて重たいから、マリーには無理だ。ニノンがやれといったのだろう。」


私は黙ってうつむいていた。


「どうしてニノンはお前に無理なことばかり言うのだろう。ほら、お前の手はまだこんなに小さいのに。」


レオン様が私の手を取って、自分の手の平に合わせておいた。私は、驚いて顔を上げた。


「僕が、ニノンに言ってやる。マリーが悪いんじゃないって。無理なことを言いつけるニノンが悪いって。もう泣くな。」


レオン様はそう言うと、にこっと笑った。金色の髪が風に揺れていた。空の青より青い瞳。私の胸の鼓動が早くなった。


注)当時貴婦人は母乳育児をするということはほとんどありませんでした。乳母を雇うか、子供を乳母の下に預けるのが普通でした。乳母の人格が子供に影響するとも考えられていた為、

充分な乳が出ていて乳母の子供といっしょに乳を飲ませることは好まれませんでした。自分の子供と他人の子供では、どうしても愛情が分散してしまうと考えられたせいでしょう。デスタン家は当時としてはかなり風変わりな家風を持っていたという設定になっています。

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