第5話
ほんの小さな頃、私は自分の母に昼間のうちに会うことはめったになかった。おかしな話だが、『レオン様のうばや』が本当に自分の母親だと知ったのは、私がずいぶん大きくなってからのことだった。その事実を知ったとき、ひどく不思議に思ったのを今も覚えている。
私が生まれて三ヶ月も経つか経たないかのとき、父・ジョゼフが事故で死んでしまった。母は父の勤め先の主人の紹介で、やっと授かった跡取り息子の乳母を捜していた伯爵家に、私を連れて奉公にやってきた。豊かな貴族の屋敷に子連れで奉公できるなど、めったにない幸運だったのだと、母はいつも口癖のようにいう。乳飲み子を抱え、身よりもなく、器量もさしてよくない、気がいいだけの若い女が、パリでまともに暮らしていけたかを考えると、確かに私たち親子は、とてつもなく運が良かったのかもしれない。
温厚で慈悲深い女主人に衷心から仕え、すばらしく可愛らしい跡取り息子のレオン様に乳を与え、心を込めて世話をする。そうすることが、自分と自分の娘を守るのだと、母は頑なに信じていた。母は確かに私を愛してくれていたのだと思う。でも、私は、彼女を心から愛することが出来たのだろうか。
屋敷での仕事の手伝いが出来るようになるまで、私はほとんどの時間を、屋敷の裏手にある小さな家で過ごした。田舎風の小さな石積みの家の前には、やはり小さな庭があって、季節の花が絶えず咲いていた。
この家で、私は他の使用人の子供と一緒に、ヴィルジニー小母さんと過ごした。朝、目覚め、身づくろいをすると、母に手を引かれ、どの子供よりも早くこの小さな家にやってくる。まだ、眠そうに目をこする私は、ヴィルジニー小母さんに抱き上げられて、早足で屋敷に向かう母の背中を見送った。小母さんといっしょに食べる朝食が終わる頃、他の子供たちが、やはり屋敷に勤める母親に連れられてやってくる。母親との離れるのを嫌がり、むずかる私より大きな子たちを見て、いつも不思議に思った。私は母との別れを惜しんだことなどなかった。夕方、仕事を終えた母親たちが、子供を迎えにやってくる。日暮れ時、人恋しくなって、ぐずり泣きをしていた子供も、自分の母親の姿を庭先に見つけると、飛ぶように駆け寄って、母親に飛びつき、首にぶら下がるようにしてキスをせがむ。
母親がやれやれとちょっと困ったような、それでいてうれしそうな顔をして、ヴィルジニー小母さんに「また、明日!」と言って、子供といっしょに帰っていく。私はいつも最後までこの家に残された。レオン様がご病気になって、母が付き添わなければならないときなどは、私はそのまま数日間も母に会うことなく、ヴィルジニー小母さんと過ごした。幼い私は、長いことヴィルジニー小母さんこそが自分の母親で、『レオン様のうばや』は何かの理由で、夜の間だけ、私と一緒に過ごすのだと思っていた。ヴィルジニー小母さんは私をとても可愛がってくれたし、私と少しも似たところのない母よりも、同じ栗色の髪と瞳を持つ小母さんとの方が、よほど親子に見えるほどだった。もっとも、小母さんは当時すでに女ざかりをとうにすぎ、栗色の髪に白髪が混じっていたから、私は娘と言うよりは孫と言ったところだっただろう。
ヴィルジニー小母さんは、子供の目にも美しいと思える人だった。色白で、はっきりとした目鼻立ちをしていた。どことなく上品で、やさしい中にも凛とした気配を漂わせていた。子供たちがたわいのないことで喧嘩を始めても、彼女は無理に止めることもなく、仲裁が必要なときだけ出ていって、いつも鮮やかに解決してしまう。穏やかな日差しの午後には、家の脇に積まれた薪に腰を下ろし、歌を歌い、おとぎ噺を話してくれた。私たちは、頭を寄せ合い、彼女と一緒に歌を歌い、たくさんのおとぎ話を、時に面白く、時に物悲しく、彼女の自在に変化する声音に魅せられながら、聞き入った。
デスタン家の裏庭には、夫婦で働く使用人のための別棟と、独身の男たちが住む寮が並んで建っていた。ヴィルジニー小母さんの家だけが、それらから離れてぽつんと建っていた。なぜ、彼女だけが、一人で小さいとはいえ庭のついたこの家を、主人から与えられ住んでいたのか、私はついに彼女の口から聞くことが出来なかった。
私がようやっと半日ほど屋敷の仕事の手伝いが出来るようになった頃、彼女は突然亡くなってしまった。いつものように日も暮れて、私がもう、我慢できずに小母さんの居間のソファーで転寝をし始めるころ、母が迎えにやってきた。母と小母さんは、小さな白木のテーブルを挟んで座り、いつものように屋敷の出来事などを話しながらお茶を一杯だけ飲む。いつものように、眠そうな私の頬を少し皺よった白い手で挟み、ヴィルジニー小母さんは、額におやすみのキスをしてくれた。翌日の朝、小母さんはいつものように私をこの家の庭で迎えてくれるはずだった。しかし、彼女は二度と私を小さな美しい彼女の庭で迎えてくれることはなかった。
ヴィルジニー小母さんには誰も身寄りがいないようだった。葬式に並んだのは、この屋敷で親しくしていた使用人仲間だけだった。彼女が残したもので、少し価値のありそうなものは、ごく親しかった者に分け与えられ、残りは全て教会に寄付された。あらかたの荷物が運び出され、がらんとしてしまった小さな家を、私は言いつけられて掃除をしていた。ふと、窓の外を見たとき、初老の紳士が庭の入り口に立っているのが見えた。
彼はつる薔薇が這う垣根の外から、彼女が丹精していた庭を、悲しげに見つめていた。服装から、彼が貴族なのだと言うことが、幼い私にでもすぐにわかった。
「なにか、御用でしょうか?旦那様」
私はできるだけ丁寧な言葉で、その紳士に声をかけた。
「庭を見ているのだよ。おまえはこの家の子かい?」
紳士は優しげにたずねた。
「いいえ、ヴィルジニー小母さんは一人でこの家に住んでいました。旦那様は小母さんをご存知ですか?」
私はなぜだかわからないが、彼がヴィルジニー小母さんを訪ねてきたのだと思った。
「ああ、よく知っていたよ。亡くなったと聞いてね、庭を見に来たのだよ。」
「庭を?」
「約束したのだよ。昔ね。ヴィルジニーは、自分が住む家の庭には必ずつる薔薇を植えて、季節の花を絶やさないと言ったのだよ。」
「じゃあ、小母さんは約束を守っていたわ。だって、この庭にはつる薔薇が咲いているし、お花だっていつも咲いていた。小母さんはお花が大好きだったの。それはそれは、大切に育てていたわ。」
私は紳士を見上げて答えた。
「そう。そうだね、ヴィルジニーは、いつだって約束を守ってくれた。私は・・・・。」
紳士の顔が急に苦しげにゆがみ、白い手袋に包まれた手が顔を覆った。
「ヴィルジニー、ヴィルジニー、おまえはこんな私との約束を守ってくれたのか・・・・」
紳士の体が大きくかしぎ、今にも倒れそうだった。私はあわてて駆け寄り、その体を支えようとした。彼の手が私の肩をつかみ、崩れ折れるように膝をついた。私を抱くように抱えながら、初老の紳士は声を殺すように泣いていた。私は身じろぎをすることさえできずに、ただじっと立ちすくんでいた。どれくらい時間が経ったのだろう。紳士はやがて立ち上がり、ゆっくりとした足取りで小さな庭を一回りした。
「すまなかったね。ゆるしておくれ。お嬢さん。」
そういって、彼は慈しむように私の栗色の髪を優しくなでた。
「お嬢さん、お願いがあるんだ。一言私を許すと言っておくれ。あの人の代わりに・・・」
紳士の灰色がかった緑の目が懇願していた。
「あなたを許します。」
私は小さな声でいった。紳士はもう一度私の髪を惜しむように撫でて、小さな庭を去っていった。