第4話
アナトールは意を決して、店の扉を押した。店には二組の客がおり、それぞれに店の者が応対していた。店主の姿を探したが、フロアには見当たらなかった。そして、もう一人の姿も探したが、やはり今は店にいないようだった。
「いないのか・・・。」
自嘲気味にアナトールはつぶやいた。彼女がいるとばかり思って、店の前で散々逡巡していた自分が可笑しかった。客というわけではないので、アナトールは先客の応対が済むまで待つことにした。急ぐわけでもない。先客はどうやらこれから嫁ぐ娘の為にドレスの注文をしに来た母子連れと、主人の注文品を受取にきた使用人のようだった。母子連れは、店員を相手に熱心に生地選びをしている。見本棚からいくつもの生地を出させては広げ、デザイン帖を見ながら熱心にあれこれと相談している。主人の注文品を受取にきた使用人は店員となじみなのだろう、冗談を言いながら注文の品の確認をしている。まだ、しばらくかかりそうだった。アナトールは、二階に通じる螺旋階段の側に展示されたドレスに歩み寄った。若草色の地に花が散らされたドレスの袖を、そっと手にとってみた。袖口は白く繊細なレースに飾られ、光沢のあるピンク色のリボンが縫い付けられていた。重ねられたレースの袖飾りは、白く細い女の腕をより一層美しく見せるだろう。そうだ、ここで彼女に会ったんだ。彼女は形のいい指先でドレスの襞を整えていた。何の飾りもない袖口からすんなりと伸びた彼女の手首の細さを思い出し、アナトールは頬が熱くなるのを感じた。
「お気に召しましたか?恋人へのプレゼントにいかがですか?」
声を掛けられて、アナトールはあわてて周りを見回したが、誰もいなかった。
「胸元の形を変えると、若いお嬢様にもぴったりのデザインになりますわ。」
声は頭上から聞こえてくるようだった。見上げると、螺旋階段の中ほどに彼女が立っていた。悪戯っぽい微笑みを浮かべながら軽い足取りで、マリー・モンクールはアナトールの側に降りてきた。
出会った瞬間に恋に落ちるなんて、芝居や小説の中だけのだと思っていた。この時までは。彼女の瞳が自分の瞳を真直ぐに見つめた時、世界の全てが消えてしまった。彼女の姿だけが光を受けて、この世界の唯一の存在になる。息をする事さえ忘れ、その姿に釘付けになってしまう。
出会えたのだ。彼女こそは『運命の女』、永遠の恋人。
「いらっしゃいませ、グランデさん。今日はドレスのご注文ですか?」
マリーは、アナトールを見上げ微笑んだ。
「グランデさん?」
マリーの視線を真直ぐに捕らえながら、アナトールは黙ったままだった。大きな澄んだ黒い瞳に、戸惑いながら微笑んでいる自分の顔が映っていた。優しく暖かい瞳。いつだったろう?誰だったろう?こんな瞳を自分は知っている。
「グランデさん?」
マリーはもう一度、アナトールの名を呼んだ。
「あっ・・・、すいません。何か、おっしゃいましたか?」
アナトールは、赤い顔をして驚いたように答えた。
「今日は、どんなご用でしょう?」
マリーは、すっかり大人なはずなのに、少年のようなアナトールの様子が可笑しくて、ついくすりと笑ってしまった。
「今日は、グリュエさんから、ブリューノさんへの手紙を届けに来たのです。必ず直接渡すようにと言われているのですが、いらっしゃらないようだし、店の方はお客さんの応対をされていて・・・。」
アナトールはばつが悪そうに答えた。
「ブリューノさんは二階で商談をしています。少し待っていただくようですわ。お茶をご用意しますから、こちらにどうぞ。」
アナトールを窓際にしつらえられた席に案内すると、マリーは店の奥に入っていった。
「マリー、あなたが話していた男の人は誰なの?注文に来たお客様には見えないけど。」
マリーがお茶の仕度をしていると、接客を終えたメラニーが声をかけて来た。
「リヨンの織物工場の技師さんよ。ブリューノさんに手紙を届けにいらしたの。」
「ふうん、ちょっと素敵ね。背が高くて、ハンサムじゃない?これ、一ついい?」
メラニーは角砂糖を一つシュガーポットからつまむと、口に放り込んだ。
「彼、多分あなたに気があるわよ。熱い目で見てたもの。あなただってもう若くないのよ。少しは将来を考えたら?一生一人で生きていくの?この店で売り子をして?いくら美人でも30過ぎたらもう姥桜よ。再婚の口ぐらいしか来なくなるわよ。」
年下の同僚のあけすけな忠告はいつものことだった。
「私のことより、メラニーは彼と上手くいっているの?この間、デートしたのでしょう?」
マリーはいつものように、話をメラニー自身の事に振った。
「え?どの彼のこと?」
二つ目の角砂糖をつまみ上げながらメラニーは聞き返してきた。
「赤毛でがっちりした感じの?」
「ああ、あの人ね。駄目よ〜。だって、ぜんぜん気が利かないんだもの。つまらないわ。」
豊かな金髪と豊満な胸が自慢のメラニーは、悪びれずに言い放った。言葉の端から、若い娘の驕りを感じさせるが、少し垂れた緑の目が、子供のようで憎めないとマリーはいつも思うのだ。
「そうだ、ギョームが来てるわよ。ポールさんと打ち合わせみたい。気をつけて、最近ちょっと・・・でしょ?」
メラニーは眉を顰めて奥の部屋を指差した。
「そうね。」
マリーはそっけなく答えるとティーセットを盆に載せて、給湯室を出て行った。
クリスチャン・ブリューノが商談を終え、客と共に螺旋階段を下りてきた。それに気づいたメラニーは、店主と共に客を送り出し、リヨンの織物工場の技師が、手紙を届けに来て待っていることを告げた。
「窓際の席で、待っていただいています。ちょっといい眺めですわ。」
メラニーは含み笑いを浮かべながら、自分の持ち場へと戻っていった。
クリスチャン・ブリューノは、窓辺の席へと向かった。通りに面して広く取られた窓は、午後の日差しに柔らかく照らされていた。窓辺に活けられた花が、静かに甘い香りを放っている。窓の下には小さなテーブルを挟んで、小振りのソファーが並べられていた。
「こりゃ確かにいい眺めだな。」
クリスチャン・ブリューノは小さく口笛を吹いた。窓辺のソファーにいささか窮屈そうに腰掛けた黒髪の長身の男と、すんなりとした体をたおやかにしならせたマリーが、テーブルの上に広げられたデザイン帖に、頭を寄せるようにして見いっていた。時折顔を見合わせ、微笑み合って言葉を交わしている。この窓辺の一角だけが特別に穏やかで、静かな空気に包まれているようだった。
「グランデさん、お待たせしましたね。」
少し離れたところからわざと大きな声でクリスチャン・ブリューノは声を掛けた。
「こんにちは、ブリューノさん。お忙しいところ、お邪魔して申し訳ありません。」
声を掛けられて、アナトールは慌てて立ち上がり、差し出されたブリューノ氏の手を握った。マリーは、黙って小さなテーブルの上を片付け、小さく会釈をすると、店の奥へ下がっていた。ブリューノはアナトールに着席を促し、先ほどまでマリーが座っていたソファーに腰を下ろした。
「商談が長引いてしまいましてね。随分とお待ちになったでしょう。」
ブリューノ氏は、くだけた様子でアナトールに言った。
「いいえ、お待ちしている間にマリーさんがデザイン帖を見せて下さって、デザインと生地の相性や流行について、いろいろ教えていただきました。恥ずかしながら、今まで自分が作っている製品が、実際どのように仕立てられているかなど知らなくて、とても勉強になりました。」
エルネスト・グリュエの評どおり、真面目な好青年だとブリューノは思った。
「グリュエさんの手紙を届けに来てくださったそうですね。」
「はい、直接お渡しするようにと言付かって参りました。」
アナトールは、カフェで預かった手紙を手渡した。ブリューノ氏は、ソファーの背に体を持たせかけ、受け取った手紙を広げ、読み始めた。
「カフェをどうぞ」
青い花模様のついた繊細なカップを、花びらのような小さな皿に載せて、マリーが静かにテーブルの上に置いた。
「ああ、ありがとう。」
ブリューノ氏は片手に手紙を持ったまま、カップに手を伸ばし、口に運んだ。
「グランデさんもどうぞ。」
「ちょっと、そこで待っていておくれ。」
マリーが下がろうとしたとき、ブリューノ氏はマリーを呼び止めた。
彼女は銀の盆を持ったまま、ブリューノ氏の傍らに戻った。
ブリューノ氏はしばらく、手紙を読みながら、何か考えているようだった。
「グランデさん、グリュエさんに、お伝えください。ご依頼の件については承知しましたと、そうおっしゃっていただければ、お分かりになります。」
そういって、ブリューノ氏は手紙を畳み胸のポケットにしまった。
「それは、急いでお伝えした方がよろしいのでしょうか。今日は用事があるといってどちらかへ出かけられたようですし、明日は自由にするようにといわれております。もし、お急ぎであれば、これからグリュエさんが泊まられているお宅に伺って、伝言を頼みますが・・・。」
この青年の性格なのだろうか、とても生真面目な物言いだとブルーノ氏は感じた。
「いや、急ぎではありません。明後日に会われた時にお伝えくだされば結構ですよ。冷めないうちにカフェをどうぞ。マリーのいれたカフェは美味いですよ。」
ブリューノ氏に勧められ、アナトールもカップを手に取った。僅かに赤みを帯びた黒い液体を口に含みと、ふくよかな香りが鼻腔の奥いっぱいに広がった。
「ああ、本当に美味しいですね。」
アナトールは静かに店主の側に立つマリーの顔を見上げながら微笑みかけた。マリーもそれに答えるように目だけで微笑んだ。
「グランデさんは、パリは始めてですか?明日は、お休みと言うことですが、どうなさるおつもりです?」
「せっかくですから、少しパリの街を歩いてみようと思います。それから、本を探そうと思っています。パリでしたら、新しい本も手に入ると思いまして、本当に楽しみにしてきたのです。」
アナトールは明日の予定をたずねられ、自分の心積もりを答えた。
「明日はどなたかお約束しているお客様はいるのかね。」
ブリューノ氏は傍らに待たせていたマリーにたずねた。
「朝、サンタンヌ通りのグラシエ様にお品物を届けに参ります。その他は特にお約束をいただいているお客様はございませんわ。」
マリーは、簡潔に答えた。いつもながら、必要なことを必要なだけ答えてくる。
「マリーもここのところ忙しかったろう。朝届け物を済ませたら、店は休んでいいから、パリの街をグランデさんに案内して差し上げたらどうだろう。たまには、ゆっくり街を歩くのも悪くないと思うよ。」
アナトール・グランデはわざわざ休みをつぶしてまで案内してもらうのは申し訳ないと固辞したが、結局ブリューノ氏の強い勧めに甘えることになった。
「道々、明日の相談でもしながら帰ればいいよ。」
店主は言い、マリーはアナトールと一緒に店を出ることとなった。
裏口からまわりますからと言われ、店の前でアナトールはマリーを待っていた。初夏の空は7時を回ってもまだ明るい。通りの往来は昼に比べれば少なくなっていたが、それでも行きかう人が途切れることはない。
マリーはなかなかやって来なかった。すぐにでもやってくるような口ぶりだった。なにかあったのだろうかとアナトールは心配になり、裏に回ってみる事にした。建物と建物の間の狭い路地を入り、従業員が出入りする裏口を探した。
「ギョーム、あなたは誤解しているわ!」
低く抑えられているが、確かにマリーの声だった。