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第32話

「女はお前が思っているよりずっとしたたかで強い生き物なんだぞ。」


今になってわかったことだが、それはきっと同僚自身の実感に基づいた言葉だったに違いない。男というものは、自分達こそこの世を回しているのだと思い込んでいるが、実際は女の手の内で転がされているだけなのかもしれない。女達は呆れながらも、男はやんちゃな子供と同じなのだから仕方ない、とでも思っているに違いない。ともあれ、マリーは出発までの一週間の間に、驚くべき速さで行動した。いったいマリーのどこに、これほどまでの意志と行動力が秘められていたのか!美しく慎ましやかな外見からは、誰も想像すらしないだろう。


はじめての夜を過ごした翌朝に、寝台に一人取り残されて酷く悲しい思いをしたが、マリーはその朝教会に行って、リヨンへの転居に必要な書類を手に入れていた。翌日には、彼女が手配した古道具屋が、部屋にある家具や家財道具のほとんどを引き取っていった。リヨンに運べるだけの身の回りの品を残し、マリーは処分できるものは可能な限り処分して、現金に換えた。売っても二束三文にしかならないようなものは、マダム・ヴァレスに譲ったり、教会を通じて困窮する者達の手に渡るようにした。マリーが7年間暮らしたシノン館の小さな部屋は、あっという間に蛻のからとなった。マリーは【小さな真珠邸】のマルゴの家に身を寄せて、パリでの生活の最後の数日間を過ごしたのだった。


黄昏の影が忍び寄る部屋で抱き合い、熱烈なくちづけを交わす二人に出くわしてしまった、ジャック・ブリューノ商会の店主・クリスチャン・ブリューノは、二人の婚約を我が事のように祝福してくれたが、一方で有能な店員を失うことを盛大に嘆きもした。マリーは7年間世話になった店主の為に、今まで蓄積した顧客情報のうち、本当にマリーの心にしまっておくべきもの以外は全て書き残していくことを請け負った。これにより、パリで甘美な婚約時代を過ごすなどということは、全くの夢となってしまった。しかし、それがマリーにとって必要なことであるならば、アナトールは自分が口を挟むべきではないと思った。仕事が生活の糧を得るだけでなく、彼女自身の心の支えであったことは分っていた。そうでなければ、あれほど熱心に仕事と向き合うはずがないだろう。その仕事を捨て、自分といっしょにリヨンに行ってくれるというマリーに、我儘を言うことなどどうしてできるだろう。マリーは、店が閉まった後も、顧客名簿の整理に多くの時間を費やした。


【小さな真珠邸】で過ごす遅い夕食のひと時が、二人にとっての甘い語らいの時間となるのはずなのに、マルゴはもうすぐ遠い街に去ってしまうマリーとのおしゃべりを精一杯楽しもうとした。そうなれば、結局、マルゴにマリーを独占されて、二人だけの時間など取れるはずがなかった。別れ際に思わず不満げな顔を見せてしまうと、マリーはもうじき嫌というほどいっしょにいられるのだからと言って、いたずらな笑みを浮かべ、まるで子供に与えるようなくちづけを頬にしてくれた。確かにマリーの言う通りなのだ。リヨンには彼女を知るものは誰もいない。何もないところからの出発を選び取ってくれた彼女の為に、パリでの数日の寂しさを我慢することは当然なのだとも思う。


マリーの退職が店にとって大きな痛手であることは明らかだった。店主はメラニーの父親に、娘を今しばらく店で働かせてくれるようにと頼み込まなければならなかった。もちろん、何の見返りもなく父親が承諾するとは思われなかった。商人というのは抜け目ないものだ。マリーの代わりに親族の娘を新しく店員に雇い入れるという条件を提示し、1年の猶予を取り付けた。まだ結婚をする気のないメラニーが、大いに喜んだのは言うまでもない。

 

父親がわりを自認するアレクサンドル・ロジェにとって、マリーの婚約報告は大きな驚きと喜びをもたらした。が、それは娘を嫁がせるような寂しさをも伴うものだった。親友の忘れ形見が伴侶に選んだ男を見て、ロジェ親方は人の縁の不思議を思わずにいられなかった。父親の記憶など一片もないはずなのに、マリーが選んだ男は驚くほど親友ジョセフに似た雰囲気を持っている。天才的な仕立ての腕を持ちながら、世俗の欲に頓着しないおおらかな親友の面影が、マリーに寄り添う黒髪の男に重なった。


婚約について、ニノンに承諾を受けたのかと親方が尋ねた時、マリーの顔に困惑の笑みが浮かんだ。ヴェルサイユに立ち寄ってからリヨンに向かうべきか否か、マリーはずっと決めかねていたのだ。万事手際よく準備を進める彼女が、その一点だけを酷く迷っていた。実の母親に会うことに、なぜそれほどまで逡巡しなければならないのか、アナトールは不思議でならなかった。まだ自分が知らないマリーの心の襞があるのだ。


「私はもう27よ。自分の意志で結婚を決めることができる年だわ。それに、私もアナトールもこの身一つですもの、結婚契約なんて結ぶ必要もない。それは母さんと父さんだって同じ事だったのだから、反対できるわけもないでしょう?」


姿形こそマリーは親友に瓜二つだが、その気性は母親のニノンに似ているのかもしれない。似たものどうしの親子は時に激しくぶつかりあうこともある。パリに出てきてからのマリーとニノンの関係が、酷く疎遠なものになっているのを、アレクサンドルは心密かに憂いていた。


「発つ前にちゃんとニノンに顔を見せていかなければいけないよ。マリー、おまえさんが選んだ人を母さんに見せたくはないのかい?この立派な花婿をちゃんと紹介しなけりゃな。リヨンは遠い、パリよりもずっとずっとだよ。そうそう戻ってくることもできんだろう?ニノンはあの気性だからね、おまえさんにもいろいろ言い分はあるのだろうけど、それだって再婚もせず、女手一つでおまえさんを育て上げた苦労は分ってやらなきゃな。マリー、自分が一人前だと思うのなら、なおさら今、母さんとちゃんと会っておかねばいけないよ。」


ロジェ親方の暖かな忠告に、マリーは問うように傍らに立つアナトールの顔を見上げた。


「マリー、僕の父さんが今も生きていてくれたなら、マリーを僕の愛する人ですって胸を張って紹介したよ。僕はマリーのお母さんに会いたい、会ってお礼を言いたいんだ。マリーを生んでくれてありがとうとね・・・・。」


 アナトールの言葉にマリーは驚いたように目を見張り、そして、小さく頷いたのだった。


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