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第31話

果たして男はやって来た。店まで急ぎ足で来たのだろうか、うっすらと鼻の頭に汗をかき、息を弾ませている。


「マリーはいますか?」


胸の前に両手で花かごを捧げ持った長身の男は、まるで少年のように顔を赤らめて、メラニーに尋ねた。


「ええ、いるわよ。事務所でまだ書き物をしていると思うわ。呼んで来ましょうか?」


メラニーは、自身の帰り支度をしながら、そっけなく男に言った。手にした籠をしきりと気にしながら、男は言うべき言葉を探しあぐねている。こんなとき、世慣れた男ならさっさと自分にマリーを呼びに行かせるなり、自分から奥に声を掛けるなりするだろうに、この男ときたら気後れして動けずにいる。


「まあ、それにしても、いい香り!その花は、マリーの為?彼女が好きな花だわね。」


メラニーの言葉に、男の顔がぱっと明るく輝いた。


「花はすばらしいけれど、その籠はあまりに粗末ね。せっかくの贈り物なら、もう少しマシな籠を選べばよかったのに!」


批判めいた言葉をかけると、男の顔は見る間に不安気に曇った。人の出会いとはなんと不思議なものなのだろう。引く手あまたでありながら、これまで決して男に心を動かさなかったマリーが、あっという間に恋に落ちたのは、おかしなぐらい初心で真面目なこの男なのだ。なんの衒いも気負いもなく、男はそのつやつやと澄んだ黒い瞳で、真っ直ぐにマリーを見つめたに違いない。だからこそ、マリーの心を捉える事ができたのだろうか・・・。メラニーは、ガラスのショーケースから金のラインが入った赤い朱子織のリボンを取り出すと、男が捧げ持つ籠の持ち手に結びつけた。とたんに粗末な籠は華やいだものに変った。


「これでいいわ!マリーの名になんてふさわしい色合かしら。青と緑、赤と金。まさに聖母の色。大切な話をしにいらしたのでしょう?右手奥の事務所にマリーはいます。さあ、行って!」


メアリーの言葉に男は満面の笑みを返し、足早に事務所へと向かっていった。


事務所の扉は換気のためなのか、それとも、店番の同僚が呼ぶ声が聞こえるようにとの配慮なのか、半分開かれたままだった。アナトールは扉のところから部屋の中をうかがった。中庭に面した部屋はまだ明るかったが、部屋の隅にはもう夕暮れの影が溜り始めていた。マリーは壁際の机に向かい、一心にペンを走らせている。ペン先が紙の上でリズミカルにたてるかすれた音が、静かな部屋に響いていた。傾げられた白い首筋の後れ毛が、ペンの動きにあわせてかすかに揺れる様に、アナトールの目は釘付けになった。あの白い項は昨夜自身の掌の中にあったのだ。滑らかな肌に唇をはわせた感触を思い出し、男は体が熱く燃えるのを押さえることができなかった。一度知ってしまったら、欲望というのはこんなに簡単に自分を支配してしまうのだろうか。男は戸惑い、胸元に持った花かごに目を伏せた。


それは、本当に突然だった。甘い花の香りが一瞬で女を包んだのだ。香りは恋となんとよく似ていることだろう。目にも見えず、手に取ることもできない。それなのに、他の何ものよりも優しく強く心を揺さぶるのだ。マリーはゆっくりと振り向いた。そして、そこに自分の幸せの姿を見つけた。


 半ば開かれた扉の前に、恥ずかしさと緊張に顔を朱に染めた男が、リボンで飾られた花かごを両手で捧げ持ち立っていた。唇は物言いたげに震え、瞳はその心に納め切れない熱い思いに揺れていた。籠の花が放つ甘い香りは、夕暮れの小さな部屋を静かに濃く満たしていく。マリーは、まるで足が床に張り付いてしまったように動けずにいる男に、静かに歩み寄った。男が胸に捧げ持つ金に縁取られた赤いリボンに飾られた籠には、ハート型の緑の葉に囲まれた青い可憐な花の束が一杯に詰まっていた。そして、その中に顔を覗かせている白い封筒があった。マリーはそっと籠を持つ男の手に白い手を重ねた。


「とてもよい香りだわ。」


つやつやと濡れて煌く黒曜石の瞳のなかに、幸せに輝く女の顔が映っている。その瞳は雄弁に愛を語ってくれているのに、肝心の言葉は、震える唇にせき止められたまま、一向に出てくる気配はない。わかっている。この男はそういう男なのだ。だからこそ、自分はこの人を愛さずにはいられない。


マリーは、籠の中の白い封筒をそっと手に取った。男の顔に安堵と期待と不安がない交ぜになったような笑顔が浮かぶ。マリーは、封筒に納められた白い紙を静かに抜き出し、息をこらしゆっくりと広げた。

 


白い紙に描かれた肖像のように、生きて行きたい!


〜永遠に君を愛す〜 


この誓いを真実と確信できる自分は、なんと幸せな女だろう。飾り立てた幾千万の誓いの言葉より、唯ひとつのこの真実の愛の誓いが、自分は欲しかったのだ!この男こそ、わが命。この愛が、私を生かしてくれる。全てを捧げ尽くして悔いはない。この思いを伝えたい!私たちは共にあってこそ生きられるのだと!


壁際の机に走りより、マリーはペンを取った。黒いインクが白い紙に、女の誓いを記していく。


〜あなたは私の命そのもの〜


女の手に握られたペンが誓いの言葉を記すのを、男は食い入るように見つめた。柔らかな文字が、女の愛を男に伝える。アナトールは椅子に座るマリーの脇に跪いた。喜びが胸に溢れ、ただ涙となって互いの頬を濡らす。


男は、花かごから一輪の青い花を抜き出すと、器用に花のつけ根に裂け目を入れて茎を曲げて通し、小さな輪を作った。そして、胸に手を置き、静かにマリーの目を見つめた。


「マリー、僕はただの機械技師で、地位も財産も、本当になにもない。けれど、僕の誠実と愛の全てを、生涯あなたに捧げます。どうか、僕の妻になってください。」


「私は、あなたといっしょに生きていきたい。いっしょにリヨンに参ります。」


零れ落ちる涙に濡れた女の白い左手を、男は優しく手にとった。薬指に通されたのは青いスミレの花の指輪。愛と誠実の花の真実は、その指に刻みつけられ、たとえその形が失われても、女が生きる限り色褪せることはない。


部屋は甘い花の香りに満たされている。女のしなやか腕は男の首に巻きつき、男は女のたおやかな腰を強く引き寄せた。柔らかな黄昏の光に二人の影はひとつとなる。重ねられた唇は互いを深く求め、いつまでも離れることはなかった。




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