第30話
ホテルの西向きの窓に日が差し始めた。アナトールは何度かの失敗の後、ようやく納得のいくマリーの肖像を描き上げた。絵を習ったことなどなかったが、生来の器用さが幸いしたのか、はたまた日ごろ機械部品のスケッチなどをするうちに鍛えられたものなのか、見たものを絵に写すことにさほど苦労したことはなかった。描き上げた肖像は、拙い己の技量からすれば、奇跡的に美しくその姿を写し描けたと思う一方で、本物のマリーの美しさのほんの欠片すら写し取れていないようにも思えた。それでも、心にはっきりと女の優しい微笑みが刻み込まれていることを伝えることはできるだろう。アナトールは、ゆっくりと心を込めて誓いの言葉を書き添えた。
〜永遠に君を愛す〜
アナトール・グランデ
ありきたりの言葉なのはわかっていた。古の昔から何度となく男は女に、女は男に向かって己の熱い心を伝える為に使われてきた言葉だろう。だが、言葉に託されるのは、それぞれの人間の思いであり、その思いを受け取るのも、またそれぞれの人間なのだ。同じ言葉であっても、その言葉が伝える心は、唯一無比のもの。己がこの言葉を捧げるのは、生涯マリー・モンクールただ一人であることを男は知っていた。男はインクが乾くのを待って、丁寧に紙を畳み封筒に納めた。
花屋の店先で、アナトールは考えあぐねていた。目抜き通りの数軒の花屋を回ったのだが、目当ての花が見つからない。思えばもう季節は移り、店先にははしりの夏花が並べられ、とりどりの美しさを競っている。だが、己の思いを託すべき花は、既に盛りを過ぎてしまったのか、どの店にも置かれていなかった。店の者に頼めば、いくらでも美しい花束を整えてくれるだろう。だが、何かが違うのだ。男は必死になって考えた。そして、はたと思いつき、踵を返して駆け出した。ダメでもともとだ。だが、万一ということもある。確かめずに後悔するよりも、男は行動して納得したかった。
初夏の日はまだ高い位置にあったが、既に時刻は5時近くになっている。ポン・ヌフのたもとは行きかう人や馬車でごったがえしていた。少しでも帰りの荷を軽くしようと、露天商たちは路行く人々に一層精をだして声をかけ、その隣では、守備よく今日の稼ぎを得た芸人達が、家路につく準備をしていた。アナトールは雑踏を縫うように歩きながら、花売り娘の姿を探した。橋の中ほどに行くまでに、数人の花売り娘とすれ違ったが、彼女達が腕に下げた花かごの中に、男が探す花は入っていなかった。もうじき、いつもの時刻がやってくる。マリーを迎えに行く時刻が迫っている。【小さな真珠亭】のマルゴに持っていく花は、どんなものだっていい。彼女は喜んで受け取ってくれるだろう。だが、マリーに捧げる花は違う。自分の心を託す花は、ただひとつしか思い浮かばなかった。男は、走りすぎる馬車の間をすり抜けるように橋を横切り、反対側の歩道を祈るような気持ちで歩いていった。
半分ほど戻ったところの半円の張り出しで、何かもめ事が起こっているようだった。取り巻く人垣の奥から少女と男が言い争う声が聞こえていた。野次馬達はそれぞれの肩を持ち、好き勝手な野次を飛ばしている。先を急ぐ男は他人のもめ事にかまうつもりはさらさらなかった。だが、通りすがりにひょいと覗くと、見覚えのある少女の姿があったのだ。男は人垣を掻き分け、前に出た。
「あたいが子供だからって言って、小狡いまねするんじゃないよ。花の代金はきっちり払ってもらうよ。」
詰め寄る少女に男が意地悪く言い返す。
「こんなしおれかけた花束に、その値段は出せないと言っているだろう。」
当世風のすかした衣装に身を包みながら、男はたいした吝嗇家にちがいない。
「何言ってるんだい!昨晩は嵐だったから、午前中は土がぬかるんでいて摘みにいけなかったんだからね。この花は午後に摘んだばかりの新鮮なものなんだよ。気に入らないなら、置いていっておくれ!あんたに買ってもらわなくたって買い手はいくらでもいるんだよ!」
少女は男の手から花束を奪おうとするが、男は意地悪く花束を高く持ち上げ、少女の手が届かぬようにして振っている。男の手に握られたその花を見て、アナトールは思わず叫んだ。
「籠の花を、君の言い値で全部買おう!」
その場にいた者たちの視線が、一斉にアナトールに集まった。
「その花が欲しいんだ。探していたんだよ!いったいいくらなんだい?時間がないんだ。さあ早く言っておくれ!」
アナトールの言葉に、取り巻いていた野次馬達が一斉にやんやの喝采を浴びせかけた。
「よっ!お兄さん太っ腹だねえ!」
「身なりはたいしたことないけど、たいそう気風がいいじゃないか!男はこうじゃなくっちゃねえ!」
「見ればあんた、たいしたいい男じゃあないのさ。恋人への贈り物かい?あんたみたいな男に花を贈られるのはどんな女なんだろうねえ?!うらやましいねえ〜。」
次々に掛けられる言葉に目を白黒させているアナトールを指差して、花売り少女は叫んだ。
「この紳士が全部言い値で買ってくれるというからね。そいつはあんたにくれてやるよ!さっさと失せな!どうせあんたじゃどんな花束を持っていったって女に振られるに決まっているさ!」
花売り娘の辛辣な言葉に、どっと笑いが巻き起こった。男はきまり悪そうに舌打ちをすると、そそくさとその場から逃げ去っていった。
「お兄さんのおかげで助かったから、籠はおまけしてあげるよ。午後に摘んだのは本当だよ、信じておくれね。ほら、いい香りがするでしょう?プロポーズ、きっと上手くいくよ。忘れちゃだめだよ。恋人に渡すときは、『私の心はこの花のようにいつまでも貴女に誠実です。』って言わなくちゃダメだよ。」
花売り娘は、アナトールに籠を手渡すと、嬉しそうに笑ってポン・ヌフの雑踏の中に消えていった。
この日最後の客を見送って、メアリーは閉店の準備に取り掛かった。得意先に出かけていった店主は、まだ帰ってこないが、最後の戸締りはマリーがすれば問題ないだろう。カウンターに広げられた布や、デザイン帳を手際よく片づけていった。店と事務所を何度もいったりきたりしながら、マリーは一日を過ごしていた。店ではいつもと変らず明るく接客をこなしていたが、事務所に戻る時には気が緩むのか、後ろ姿にどことなく体をかばうようなそぶりが見えた。今日は晴天で良い陽気だというのに、マリーは飾り襟のある繰りの浅い服を着ていた。かがんだ拍子にちらりと襟の奥に見えた赤い跡や、ふと浮かぶ艶な表情を考えあわせれば、昨夜、彼女の身に何があったのか見当がつかぬほど自分も子供ではない。気安い友であれば、含みのある笑みをわざと作って、鎌をかけることもできるだろう。だが、そうしたところで、マリーが自分に何か打ち明けてくれることはないことはわかっていた。
この店に勤めて2年経つ。年上の同僚はいつも優しく親切で、まだ世慣れぬ自分に丁寧に仕事を教えてくれた。時に厳しいことも言われたけれど、なるほどそれは道理の通ったことと、その場の腹立ちが収まれば納得できた。周囲に細やかに気配りを見せながら、彼女がその心の内を見せてくれることはほとんどなかったかもしれない。閉店準備を終えて、置時計に目をやった。時刻は既に6時を回っている。そろそろ、あの黒髪の男がやってくるに違いない。メラニーは、あのマリーの心を開いた男が、少しだけうらやましかった。