第28話
昨夜の嵐が嘘のような、穏やかで静かな朝だった。たっぷりと湿気を含んだ空気は、明け方の冷え込みに乳白色の靄を作り、まだ明けきれぬ街を包んでいる。澄んだ教会の鐘の音が、初夏の美しい一日の訪れを告げていた。
アナトールはいつもの朝のように大きく伸びをして、ゆっくりと目を開けた。ぐっすりと眠った体は、隅々まで力に満たされ軽かった。白んだ天井にはちらちらと淡い光の影が躍っている。まだ残るまどろみの気配のなか、楽しげに踊る影を目で追ううちに、アナトールはその天井が見慣れぬものであることに気がついた。リヨンの自室でもない、まして、パリの安ホテルの一室でもない。男はゆっくりと目を転じた。寝台の脇に立てられた衝立に無造作に掛けられた鶸色のガウンが目に留まった。とたんに、昨夜の出来事が、一気に男の脳裏を駆け抜けた。男は、がばりと寝台から身を起こし、慌てて掛け布団をめくり上げた。一糸纏わぬ自身の体を認め、敷布に残された、昨夜の出来事が決して夢や幻ではなかったという証拠を認め、アナトールは、途方にくれた。
きょろきょろと見回しても、室内にマリーの姿も気配も見つけることができなかった。愛しい女に導かれ、許されて命の根源にある喜びを分かち合ったはずなのに、今、一人取り残されているのは、いったいどういうことなのだろう。もしや、彼女が全てを受け入れてくれたというのは、自分の思い過ごしに過ぎなかったのだろうか?自制を失い、激情に駆られ、めくるめく陶酔の大波に飲み込まれ、情熱のままに突き進んでしまった。どこもかしこも柔らかく、暖かなマリーに包まれて、ただ嬉しくて、子供のように自分の欲望を曝け出してしまった。ただ、求めるのに夢中で、ろくに愛の言葉も口にしていない。
いつかこんな日が来たならば、思いつく限りの賛美と愛の言葉を贈ろうと密かに考えていたはずなのに・・・。
「最低だ・・・・。アナトール!お前、いったい・・・、順番が違うじゃないか・・・。」
男は、寝乱れた黒い巻き毛をわしわしと掻き毟った。
もしかしたら、早く目覚めた彼女は、ごみでも捨てに出たのかもしれない。だとすれば、すぐに戻ってくるだろう。いくらなんでも、朝の光の中で女の目に自分の裸体を曝すのは恥ずかしい。ほうっと、溜息をついて、男は頭を切り替えた。寝台から降りて、衝立に掛けられたガウンを羽織って、服を探すことにした。が、探すまでもなく服は箪笥の上にきちんと畳まれて置かれていた。ぐっしょりと濡れていた服は乾かされ、丁寧にブラシがけされて、ついていただろう泥跳ねの跡はみな落とされていた。さすがに、泥まみれの靴下はどうにもならなかったのだろうが、それでも精一杯汚れを落とそうとしてくれたことはわかった。既にくたびれ始めていた革靴も、磨かれて見違えるようになっていた。
いったいマリーは何時に起きたのだろう?体は辛くなかっただろうか?腕の中にしっかりと抱きしめて眠りに落ちたはずだった。それなのに、腕の中から彼女がいなくなったことも気付かないほど、熟睡してしまった己の間抜けぶりを、男は呪った。半ば開けられた東向きの細い窓から、朝日が差しこみ小さな部屋を照らしていた。すっきりと片付いた部屋でありながら、寛いだ空気が漂うのは、女主人の人となりのためだろうか。とにかくも、シャツとキュロットを身につけ、男はやれやれと部屋を見渡した。
洗面台には、洗顔の準備が不足なく整えられ、テーブルの上には茶器のセットが用意されている。ストーブの天板の端に薬缶が置かれ、白い湯気がふわふわと上がっていた。部屋にはマリーの気遣いが溢れている。それなのに、マリーの姿がないことが、酷く男を悲しくさせた。いったいマリーはどこへ行ってしまったのだろう。ふと伏せた目が、トレーの端に挟まっている一枚の紙を捉えた。手にとって広げると、柔らかなマリーの字で、大事な用があるので先に出る旨と、火の始末と戸締りを頼む旨とが、簡潔に書かれていた。机の上をもう一度見ると、真鍮の鍵がぽつねんと光っていた。昨夜の今朝にしては、あまりに現実的な手紙に過ぎないだろうか・・・・。こんなに朝早く出なければならないほど、大事な用とはなんなのか、アナトールには見当もつかなかった。
ホテルに立ち寄って、着替えを済ませ、アナトールはいつもの時間になんとか見本市会場に滑り込んだ。会場は昨夜の嵐の話題で持ちきりだった。幸いたいした被害は出ていないようだったが、それでも外れてしまった看板や破れてしまったポスターなどの修理が必要だった。会期も残すところ一週間足らずである。大口の商談はあらかた終わっているので応急処置で対処することとなった。つまりは、わざわざ業者など入れずに、自前で何とかすると言うことだ。おかげで午前中は嵐の後始末と今までに成立した商談の商品手配で終わってしまった。アナトールにとって、それは至極幸いなことといえた。忙しく立ち働いている間は、何も考えずに済んだからだ。
もとから生真面目な男だったが、今日の彼はいつも以上に熱心に立ち働いていた。休むことを恐れているかのような仕事ぶりは、やはりどこか不自然だった。パリを離れる日は近い。年に似合わぬ初心な男は、はじめての恋の行方に心を悩ませているに違いなかった。ここはひとつ、人生の先輩が喝を入れてやらねばなるまい。午前の仕事が一段落したところで、工場長エルネスト・グリュエは、アナトールを昼食に誘った。
見本市会場の傍のカフェで軽食を取りながら、工場長は男の様子を注意深く観察した。男はカフェとサンドウィッチを頼んだものの、心ここにあらずといった風で、ちぎったパンを手にしたまま、口にするでもなくぼんやりと物思いにふけっている。憂い顔の青年は、男の目からみても女心をそそるに充分な魅力を持っていると思われた。今までことごとく男の誘惑を跳ねつけてきたマリー・モンクールですら、この男に心を許し始めているではないか。問題は、この男の優しさと自制心なのだ!せっかくの恋の花も、盛りの内に摘み取らなければ、やがては枯れ萎んでしまう。なんとかこの男の背を押してやりたいと、エルネスト・グリュエは思った。物思いに沈む男を会話に引き込もうと、何の気なしに言ったはずだった。
「昨日はちゃんとホテルに帰れたのかい?酷い降りだったからね。」
鎌をかけるつもりで言ったわけではなかったのだ。しかし、男の反応はあまりに正直だった。
「どっ・・・どうして、そっ、そんなことを、お聞きになるのです?」
耳まで赤く染めた男が、言葉を詰まらせる様を見て、工場長は得心した。なんのことはない、事は既になっていたということなのだ。
「野暮なことを言う気はないよ。私は告解僧じゃないからね。君たちは真剣に愛し合っているのだろう?だけど、結婚を申し込むなら、急がなけりゃいけない。いくら君だって、私の言う意味はわかるだろう?もう、今日の君の仕事は終わりだ。ちゃんとプロポーズして来なけりゃ、明日からの仕事はないと思え!さあ、今すぐ行くんだ!」
若者は弾かれたように席を立ち、愛する女を目指して駆けて行く。彼の靴にはヘルメスの翼がついているに違いない。やっとめぐり合った運命の恋なのだ。何者にも縛られない純粋な愛の成就。
エルネスト・グリュエは、遠ざかる男の後姿を、眩しく見送ったのだった。