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第27話

嵐の気配はようよう去っていく。緩んだ樋から溢れ出る雨水が立てる騒がしい音も、徐々に静まっていった。部屋に静寂が戻っても、マリアンヌは眠りにつくことができなかった。いったいギョームはあの嵐のなか、どこへ向かったというのだろう。辻馬車を拾って郊外の実家に戻ったのだろうか・・・。それとも、酒場で酌婦相手に酔っ払い、憂さ晴らしでもしたのだろうか・・・。それとも・・・・。


早世した兄と同じ年のギョームは優しかった。さらさらの髪をした雀斑顔の口下手な少年は、遊び相手をねだると困ったような顔をしながらも、相手をしてくれた。小賢しさが目立った年長の徒弟が、父親譲りの小さな目や横に広く張った鼻を、親の目の届かぬところでからかっても、ギョームは決してその言葉に同調したりせず、かばってくれた。抜きん出た才はなくとも、真面目にコツコツと仕事に取り込む姿が好ましかった。積み重ねていく努力以外に才を持たぬ彼は、容姿に恵まれない自分とどこか似ていると思った。生まれ持ったものの不足を嘆くより、自分で変えられるところを変えていくしかないことを、自分達は知っている。同じ気持ちを分かち合える人間だと密かに心を寄せてきた。恋というのは、どうしてこんなにままならぬものなのだろう。いっそ、心などなければ、こんなに苦しい思いをしなくても良いものを・・・。


はじめて聞いた父と母の物語は、深い感慨をマリアンヌの胸に残した。既に老年に差しかかろうとする二人にも瑞々しい青春時代があったのだ。自分よりはるかに容姿に恵まれた母がなぜ、父と結婚したのかと不思議に思っていた。父がその容姿も才能も絶賛する親友が、母よりもずっと容姿も劣り、なんの後ろ盾のない女を選んだのはなぜなのか・・・。今ならわかる気がした。これから自分は何ができるのだろう・・・?いくら考えてもはっきりとした答えは出るはずもなかった。心は捉えどころのないものなのだ。マリアンヌは、寝返りを打ち、枕に頬を押し付けて瞼を閉じた。そのとき、ガタン!と階下で何かが倒れる音がした。まさか・・・!!マリアンヌは急いで薄いショールを羽織ると、蝋燭に火を灯し暗い階段を下りていった。


工房の作業部屋の扉の隙間から、光が漏れていた。扉越しに耳を澄ますと、かすかに棚を開けたてする音が聞こえた。身を硬くしてそっと隙間から覗くと、蝋燭の光に縁取られた男の影が見えた。それは、慣れ親しんだシルエットだった。マリアンヌは、叫びそうになる口を、手で慌てて覆った。音を立てないように慎重に扉を開け、扉脇の小机に燭台を置くと、足音を忍ばせて影に近づいていった。


髪は乱れたまま肩を覆っていた。泥にまみれた上着はだらしなく肌蹴られ、ズボンは濡れて張り付き、痩せた脚の形がそのまま露になっていた。作業台の上に無造作に置かれた手帳や道具を、男は手にした荒い麻地の袋に詰めていた。男の肩は疲れたようにがっくりと落ち、深い溜息に揺れた。


男はこの工房を去ろうとしている。親方の許可証も持たず工房を離れた職人を、まともな工房が雇うはずがない。止めなければ!どうして愛する男に日陰の人生を歩ませることができるだろう。


「ギョーム、工房を去るつもりなら、私もあなたといっしょに行く。」


マリアンヌは、男の背中に取りすがった。女の腕の中で、男の体が震えていた。


「私もいっしょに行くわ。やっと職人になれたんじゃない。私にはわかっている。あなたから仕立ての仕事を取ったらいったい何が残ると言うの?今更、他の仕事ができるの?だから、お願い・・・!私を連れて行って!結婚してくれなんて言わない。私が父さんに掛け合って工房を離れる許可証を書いてもらう。許可証があればあなたは自由よ!だから・・・だから・・・、お願いだから・・・私を連れて行って・・・。」


男の濡れた服が女の薄い夜着を濡らしたが、女はためらうことなく更に強く男の体を抱きしめた。男は黙ったまま、立ち尽くしていた。



濡れた布越しに押し付けられた女の柔らかい体の熱が、じんわりと肌に伝わる。非力な女の腕など、簡単に振りほどけるはずなのだ。それなのに、柔らかい腕に囲まれて動くことができなかった。女の必死さが男の心を抉った。技を授けてもらい、まるで実の子供のように慈しまれた日々が、男の脳裏を走馬灯のように走り抜ける。修行の日々の風景には、いつも女の姿があった。恵まれない容姿にいじけるでもなく、親方の娘という立場を鼻にかけるでもなく、傍らで明るく笑っていた健気な女が、背中にすがりつき声を殺して泣いていた。


「マリアンヌ・・・!俺はどうしょうもない馬鹿な男なんだよ・・・・。お前に好いてもらえるような男じゃない・・・。」


男は、そっと女の腕をはずし、背中にすがりついていた女と向き合い肩に手を置いた。女は、男の顔を濡れた瞳で見上げた。唇の端が切れ、男の頬は赤黒く腫れていた。女は驚いたように目を見張り、腫れた頬にそっと指先を当てた。


「私は、馬鹿でもあなたが好きだわ。あなたに幸せでいて欲しいと思うの。マリーを忘れてなんて言えない。あなたの心は、あなたのものだから。でもね、仕事を捨てて欲しくないの。どうしても、この工房を離れたいのなら、ちゃんと父さんから許可証を貰ってからにして。大丈夫よ、工房のことは、父さんがなんとか考えるだろうし・・・、親方株を売って、郊外に引っ込んでも・・・、生きてはいけるわ・・・。」


女は男の目を真っ直ぐに見つめて微笑んだ。潔く澄んだ瞳に映った自分の顔は、叱られた子供のようだと男は思った。仕事一筋に打ち込んできたロジェ親方が、工房をたたむことをやすやすと受け入れられるわけがないのは男にもわかっていた。自分が去れば、親方株目当ての男がこの工房に入り込むのだろうか・・・?心優しい娘は、きっと、親の望みをかなえる為に、どんな男であろうと受け入れるだろう。工房の存続の為に、誠心誠意、夫に尽くしていくだろう。でも、はたしてその男は、この女のことをわかってやれるのだろうか・・・?傷つきながらも、明るく振舞まってきた健気な心根を愛してくれるだろうか・・・。 


「マリアンヌ・・・。お前は、本当にいい女だよ・・・。俺なんて、足元にも及ばない。こんな俺でもいいと言ってくれるのか・・・?」


「ギョーム、私はずっと待っているわ。あなたが納得できるまで。」


女の腕が男の体にまわされた。男はそっと女の抱擁に応えた。女の温もりに包まれて男は静かに涙を流し続けた。穏やかで確かな情愛が男の心を満たしていった。


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