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第26話

マダム・ヴァレスは雷鳴におびえ、部屋の奥の粗末な寝台の上で毛布を被って横になっていた。激しい雨が降るなか、下宿人が戻ってくるなどとは思えなかった。やがて激しく鳴り響いていた雷鳴は、だんだん遠ざかっていく。老女はいつの間にかとろとろと浅い眠りに落ちていた。その眠りを邪魔するように、リンリンとせわしなく呼び鈴が鳴らされた。この雨の中、いったい誰が戻ってきたのだろうと訝しく思いながら、マダム・ヴァレスはちびた蝋燭に火を移して部屋を出た。


扉を開くと、そこに背の高い男が立っていた。隣には男に抱き支えられたマリーの姿があった。さほど濡れてもいないマリーと、ずぶ濡れの男の取り合わせが、門番女の目には酷く奇妙に思われた。いつもであれば、気安く詮索をしたに違いない。が、蝋燭のほのかな明かりに浮かぶマリーの顔は酷く疲れた様子で、たずねる事すらはばかられた。老女は仕方なくいつものようにちびた蝋燭をマリーに差し出した。マリーは口の端に僅かに笑みを浮かべたが、無言のまま蝋燭を受け取ると、ずぶ濡れの男に支えられながら、暗い階段を上っていった。マダム・ヴァレスは呆けたように、二人の後ろ姿を階段の下から見送った。


「いったいあの男は何者だろう。はじめてじゃないか?マリーが男を部屋に入れるなんて。それにしても、なかなかのいい男!あの男なら、お似合いだねえ。」


マダム・ヴァレスは足元に擦り寄る愛猫を抱き上げて、訳知り顔で話しかけた。でっぷりと太った雉猫は、主人の興味には我関せず、とばかりにあふりと大きなあくびをしたのだった。


髪からも服からも、ぼたぼたと水が垂れ落ちていた。マリーはアナトールを部屋に招き入れると、ぐっしょりと重く水を吸った上着を脱がせ、戸棚から乾いたリネンをとりだすとアナトールに渡した。


「濡れたままでは風邪を引いてしまいますわ。ストーブで乾かしますから、あちらで服を脱いでください。お嫌でしょうけれど、他に着ていただけるものがないのです。これで我慢してくださいね。」


マリーは鶸色のガウンを衝立に掛け、アナトールを衝立の後ろに押しやった。先ほどまで足元も頼りなげな様子だったが、自分の部屋に戻り少し元気をとりもどしたのだろうか、マリーは手際よく部屋に明かりを灯し、ストーブに火を熾し始めた。それでも、時折聞こえてくる小さなため息に、マリーの心が揺れていることをアナトールは感じた。女性の部屋で裸になることに、アナトールは少なからぬ抵抗を感じた。が、べったりと肌に張り付く濡れた服はいかにも気持ちが悪く、脱いで体を乾かすしかないのだと、観念するより他なかった。アナトールは濡れた服を脱ぎ、乾いたリネンで濡れた髪と体を拭った。異国風にゆったりと仕立てられたガウンは、何とか男の体を覆うことはできた。それでもやはり、袖も丈も男の体には寸足らずで、にょきりと突きでた腕や脛が、妙に滑稽なものに思われて、衝立の陰で男は一人頬を赤らめたのだった。


「やっぱり、小さいさかったわ。・・・」


まだ雫を垂らす濡れた服を捧げ持った男の姿を見て、マリーは小さな声でつぶやいた。女としては背の高い自分の体をゆったりと包むガウンさえ、充分に男の体を包みきれていないことに、マリーは新鮮な驚きを感じた。ガウンの打ち合わせから覗くたくましい胸の隆起やむき出しの骨ばった脛や足首の太さに、思わず目が引き寄せられてしまう自分にマリーは戸惑い目を伏せた。


「お茶を入れますわね。服をかしてくださいな。乾かしますから。」


促されて、アナトールは遠慮勝ちに服を差し出した。


「・・・・・!」


マリーの目が、血の滲む右手の甲に向けられた。驚きと深い悲しみが栗色の瞳に影を差した。アナトールは慌てて手を引き、左手で傷を覆い隠すと、女に背を向けた。マリーは濡れた服を持ったまま、男の背中を見つめた。広い肩が後悔に打ち萎れている。血気に逸る男であれば、相手を打ち負かしたことをこれ見よがしに誇るだろうに、心優しく穏やかなこの人は、自分を守る為であれ、暴力を振った己を恥じている。マリーはやるせない思いに唇を噛んだ。


濡れた亜麻のシャツを搾り、ストーブの前に運んだ椅子の背に掛けた。ストーブの上では小さな薬缶がちりちりと音を立て、白い湯気を吹き上げ始めた。肘掛椅子に腰を下ろしたアナトールは、部屋の中を眺め渡した。若い女の部屋には、華やいだ何かがあるものだろうと想像したこともあった。だが、この小さな部屋は潔いほどにすっきりと片付いている。壁際に置かれた小さな鏡台だけが不思議な艶かしさを感じさせるだけだった。鏡台の上に並べられた小さなガラス瓶や陶器のケースは女の密やかな楽しみを隠しているかのように、蝋燭の光を受けて輝いている。この小さな部屋で、マリーは一人何を思って暮らしてきたのだろう。アナトールは、乱れた髪を気にしながら、濡れた服や靴を手際よく始末する女の後姿を見つめた。


こぽこぽと湯を注ぐ音がして、香ばしいお茶の香りが部屋に広がった。男の前に、華奢な花模様のカップと小さな焼き菓子が載った銀色の皿が並べられた。女は微笑み、冷めぬうちにと、男を促した。暗い窓の外にはまだ雨の気配があった。男は熱いお茶をゆっくりとすすり、小さな菓子をつまんだ。ほろほろと舌の上で崩れる菓子の甘さが、わけもなく哀しいとアナトールは思った。


「傷の手当てをしなければ、いけないと思うの・・・・。」


マリーの栗色の瞳がアナトールの瞳を静かに捉えた。


「もう、血も止まったし、大丈夫ですよ・・・。」


アナトールは目を伏せて答えた。


「いいえ、手当てをさせてください。お願いだから・・・。」


アナトールはこの懇願にも似た申し出を、断る理由を見つけられなかった。


マリーはアナトールの手を取ると、部屋の隅の洗面台の前にいざなった。琺瑯の洗面器を台の上に据えると水差しに入れたぬるま湯を薄くはった。小さな皿の上に置かれた薄紫色の石鹸を手に取って、マリーは手の中でゆっくりと泡立てた。ほのかにスミレの香りが立ち上る。


「傷は洗ったほうがいいんです。」


マリーはアナトール手をとり、慎重に傷を洗った。水差しから静かに注がれる湯が、男の手を包んだ白い泡を洗い流していった。


「助けて下さってありがとうございます・・・。私が、あの子を追い詰めてしまった・・・。姉のように慕ってくれているとばかり思っていたのです。私は、あの子の思いに応えてやることはできない・・・。あの子は、深く傷ついたでしょう・・・。あなたが来て下さらなかったら、あの子に罪を犯させてしまったに違いないのです。自分の心を偽れません・・・。私は、強情な女・・・で・・・す・・・・。」


白く柔らかなリネンが男の手を拭った。小さな容器から薬草の香りのする軟膏が細い指先に掬い取られ、傷の上に薄く伸ばされた。白く華奢な両手が男の右手をそっと包んだ。


「ごめんなさい・・・。私の為に、あなたの心も傷つけてしまいました。私は・・・、私は・・・・」


伏せた睫毛が震えていた。こぼれかかった栗色の髪が、影を落とす白い頬にほろほろと涙が伝い落ちた。


「泣かないで・・・マリー・・・。」


スミレと軟膏の香りがする指先が、涙を拭った。大きな掌が頬を包み、額に熱を帯びた柔らかな唇が押し当てられた。


「僕らは、似たもの同士だよ・・・・。自分の心にしか、従えない・・・。」


男はそっと女の体を抱きしめた。女の腕が男の背中にまわされ、優しく力が込められた。女が求めるように、潤む瞳で男の顔を見上げた。


「アナトール・・・・!」


女はもはや言葉を紡ぐことができなかった。重ねられた熱い唇が、それを許さなかった。




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