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第25話

空は、黒い歪な塊を幾重にも重ねたような雷雲に、覆われていた。断続的に稲妻があたりを真昼のように照らしだし、建物の壁に反響した雷鳴は、からがらと鳴り渡った。アナトールは足早にホテルへ向かおうとしていた。しかし、足取りは杳として前に進もうとしない。それは強風に阻まれているからだけではなかった。闇の中、一瞬の閃光に浮かび上がった彼女の目は、熱く潤んではいなかったか?差し伸べられた指先は、嵐の恐怖に一人耐えねばならない心細さに震えてはいなかったか・・・?先ほどまで腕の中にあったあのぬくもりを、なぜ、今すぐにでも引き返し、再び抱きしめてはいけないのだろう?引き寄せられるように一瞬触れ合った唇の柔らかさを、なぜ、もう一度求めてはいけないのだろう?胸の奥底から湧き上がる熱い衝動に、アナトールはもはや抗うことはできなかった。男は人気の絶えた通りで、足を止め振り返った。重く湿気を含んだ風が、アナトールの黒髪をあざ笑うかのように巻き上げる。



「アナトール!アナトール!アナトール!」



逆巻く風の中に、確かに聞いたのだ。マリーが呼んでいる!不吉な胸騒ぎがアナトールの心臓を締め上げる。



凶暴な風に逆らい、アナトールは走った。ついに大粒の雨が地面を叩き始める。雨粒は容赦なく男の肌を叩いた。水はけの悪い細い通りは見る間に水が溢れ、川のようになっていく。男は激しい雨にひるむことなく、水しぶきを上げて走り続けた。


「ギョーム、馬鹿な真似はやめて!あなた、自分が何をしているのか分っているの?」


稲妻が光るたびに、痩せた男の姿がじりじりと近づいてくる。激しい雨が男の体に容赦なく降り注いでいた。濡れた髪は顔に乱れたままべったりと張り付き、その姿は、弟とも思い親しんだ若者の姿とは似ても似つかないものだった。入り口の庇の下で、マリーは迫り来る男から逃れようと、後退さった。


「マリー・・・、マリー・・・!初めてあった時から好きだったんだ。俺はまだ子供だったけれど、でも、いつか一人前になったら、言おうと思っていた。好きなんだ。愛してるんだよ・・・。貴族の若様が忘れられなくてもいいんだ。マリーが俺の傍にいてくれれば・・・、そうすれば、俺は・・・・。なんだってできる気がするんだ・・・!」


男はついに入り口の低い石段に足をかけた。


「近づかないで!あなたは私を愛しているのではないわ。あなたは自分を理解し、認めてくれる女を求めているだけ。私である必要なんてないのよ。あなたは本当の私を知らない。知ろうともしない。気付いて!お願い!」


マリーは後退りながら、必死に呼びかけた。


「マリー、解って・・・よ、俺には・・・、マリーが必要なんだ・・・!」


男の声は震えていた。男は凍りついたような眼差しで、マリーを凝視した。石段を男の体から滴り落ちる水が濡らしていく。水は流れ、扉にぴったりと背をつけて立つマリーの足元をも濡らした。男の手に握られた鋏がゆっくりと、胸の前に翳される。


「マリー、愛してるんだ・・・・よ。」


「違う!あなたが愛しているのは私じゃない!私はあなたを愛していない。」


「どうして・・・?どうしてそんなことを言うの?俺のマリーは、優しい女のはずなのに・・・・」


男の歪んだ顔が、息がかかるほどに近づいた。はしばみ色の瞳は見開かれていたが、正気を逸した者のように、もはやマリーを正しく映してはいなかった。


「お願いだ・・・よ。マリー、俺を愛しているって・・・言って・・・くれ・・・!」


マリーは沈黙したまま、ギョームの瞳を真っ直ぐに見つめた。男は、閃光に浮かび上がった女の栗色の瞳に、恐怖と拒絶しか見つけることができなかった。絶望は行き場のない怒りを生んだ。男の手に握られた鋏が高く振り上げられた。一瞬、青白い閃光にあたりは包まれた。瞬間、地響きを立てて鳴り渡る雷鳴に、男の絶叫が重なった。


「リヨンになんか、行かせない!誰にも、渡さない・・・!」



雨は既にぐっしょりとアナトールの全身を濡らしていた。息を切らせたどりついたシノン館の門扉は、開かれたままだった。髪を伝い滴る水が、目に入り視界を歪ませた。アナトールは顔に張り付いた髪を掻き揚げ、掌で顔をぬぐった。開け放たれたままの門扉を訝しく思いながら中に足を踏みいれたその刹那、稲光が照らしだしたのは、異様な光景だった。


入り口の前に誰かがいる。ただならぬ緊張をみなぎらせ、背を向けて立つ男の足の間に見えたのは、マリーの服の裾ではなかったか?マリーの身が危険に曝されている!一瞬で怒りに全身が総毛立ち、血が煮えた。アナトールは重なり合う人影をめがけ、駆け寄った。


ガシャンと硬い音を立てて鋏がマリーの足元に落ちた。それは一瞬のはずであった。が、マリーの目は時間が長く引き伸ばされたようにゆっくりと、自分の目の前から歪んだ男の顔が離れていくのを見た。男の顔は怒りから、驚愕に、そして恐怖へと変わっていく。そして、バシャン!という水音と共に、暗い闇に消えた。闇の中で肉を打つ鈍い音と争いあう男の荒い息使いが激しい雨音に混じり聞こえた。マリーは、何が起きているのか分らず、ただ呆然と闇を見詰めた。誰かがこの危機を救ってくれたのだ。だが、いったい誰が?


マリーが次の閃光の中見たものは、絡み合う二人の男の姿だった。


「アナトール!」


マリーは、叫んだ。その声に、アナトールは、羽交い絞めにしていた腕の力を一瞬緩めてしまった。腕の中の男は、その機会を逃さなかった。締め上げられていた腕を振り解き、闇の中に走り去っていった。後にはただ篠つく雨音だけが聞こえていた。



雷雲は風に乗りその中心を移動させていった。雨はまだ降り続いているが、稲光は間遠になり、雷鳴も弱いものとなっていく。肩で荒い息をつきながら、アナトールは雨の中立ち尽くしていた。先ほどまでの昂ぶりを、頬を叩く雨が洗い流していく。次第に落ち着きを取り戻していったアナトールは、手の甲に鈍い痛みを感じた。ちかちかと光る青白い光に手をかざすと右手の甲の皮膚が破れ、血がにじんでいた。争った男のバックルにでも引っ掛けたのだろう。雨に流された血が足元の水溜りに薄いマーブル模様を描いていた。雨の中走り去った男は、ジャック・ブリューノ商会の裏口で、マリーに愛を請うていたあの青年に違いなかった。若さゆえに一途に思いつめる男の情熱を、愚かだと断じることを誰ができようか。自分とて、愛する女にただひと目会いという、その一心で嵐のなかを走ってきたのだ。


今まで人に手を上げたことは一度もなかった。打つよりも、打たれる側を選びたいとさえ思っていた。それなのに、あの時、怒りに我を忘れていたのだ。拳は腹にめり込み、服越しにさえ指は鋭く腕の肉に食い込んだ。自分の中にこんな凶暴な力が潜んでいたことが信じられなかった。もし、あの時、マリーが名を呼んでくれなければ、我を失った自分は相手の命を奪ってしまっていたかも知れない・・・・。アナトールはぶるりと身を震わせた。自分の身に潜んでいた激情が急に恐ろしくなった。


「アナトール・・・!」


震える女の声が、男の名を呼んだ。振り返ると、庇の柱にすがりつくように立つ女の姿が、青白い光に浮かんで消えた。


「マリー!!」


男は、走り寄り崩れ落ちる女の体を腕に抱き止めた。




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