第24話
ギョームの後を追ってマリアンヌは走った。が、女の足で追いつけるはずもなかった。手入れの行き届かぬ石畳に足を取られ、危うく転びそうになったところを、通りがかった若い男が腕を延べて救ってくれた。背の高い黒髪の青年に、ケガはないかと問いかけられたが、息が乱れマリアンヌは答えることができなかった。どこをぶつけた訳でもないのは、分っていたのだろう。青年は先を急いでいるのか、「お嬢さん、お気をつけて。」と心配そうに声を掛けると、サン・トノレ通りに向かって足早に去っていった。とぼとぼと戻る家路に、湿った風が吹き付けていた。
工房の入り口を開けると、薄いショールがくしゃくしゃになって床に落ちているのが目に入った。まるで自分のようではないか・・・。マリアンヌはショールを拾い上げ、力なく畳んで腕に掛けた。
「ギョームは、今日は帰るって・・・・。ちょっと、頭痛がするの。手伝えなくてごめんなさい。もう、休むわ・・・。」
外出から戻った娘は青い顔をしてそういうと、自分の部屋に閉じこもってしまった。なにかあったのかと思いながらも、セシールは夕食の支度を続けた。育ち盛りの徒弟達にも、やがて帰ってくる夫にも、夕食を食べさせないわけには行かないのだ。夕方から吹きはじめた湿り気を帯びた風は、いよいよ強くなっていく。夫婦と徒弟二人の夕食は、会話もなくそそくさと終えられた。セシールは、徒弟たちに後片付けを指示すると、娘の部屋を覗きに行った。
小さく部屋の戸を叩き、そっと覗くと部屋には明かりも灯されていなかった。手にした蝋燭をかざして部屋の様子を伺うと、鏡台の前の小椅子に腰を下ろした人影が、ぼんやりと浮かんで見えた。魂がぬけたように中空を見つめるその姿は、生気もなく濃い闇の中に半ば埋もれていた。セシールは、驚かせないように、静かに中に入ると後ろ手に扉を閉めた。
「マリアンヌ・・・・。」
小さな声で声をかけると、びくりとその肩が動き、彫像のようにも見えた人影はゆっくりと顔を上げた。一人娘は薄茶色の目を赤く泣き腫らし、今もなお新しい涙がとめどなく溢れていた。
「ああ、母さん・・・!!助けて・・・!!私はどうしたらいいの・・・・!」
すがりつく娘の背を、セシールは優しく撫でてやった。
「泣いていては分らないよ・・・。母さんに話してごらん・・・。」
セシールは、鏡台の上に燭台を置くと、娘の肩を抱いて寝台へと連れていった。娘らしく愛らしい刺し子の布団が掛けられた寝台に、母と娘は並んで腰を下ろした。グズグズと鼻をすする娘に、セシールはエプロンのポケットからハンカチを取り出して渡してやった。マリアンヌは、ハンカチで勢い良く鼻をかんだ。そうして、ふるりと頭を一振りすると、息を整え、決心したように話し出した。
「母さん、ごめんなさい・・・。私は大変な事をしてしまった・・・。ギョームはもう戻ってこないかも知れない・・・。余計な事を言わなければ良かったのよ!待っていれば良かったのよ。そうすれば・・・!」
マリアンヌはそういうと、強く唇を噛んだ。セシールは娘の言わんとすることが、良く分らなかった。
「ギョームが帰って来ないって、いったいお前、どんなことを言ったのだい?ギョームとお前は今まで仲良くやってきたじゃないか。だからこそ、父さんだって、彼を婿にとってお前とこの工房を継いでもらうことにしたんじゃないか。」
母親の問いかけに、マリアンヌは再び感極まったように激しくしゃくり上げ始めた。セシールは、困惑しながら、娘の背中を優しく撫で続けた。
「今日・・・・、マリーのところへ行ったの。」
「え?お前は、お友達と教会の奉仕活動に行ったのじゃあなかったのかい?」
セシールは、娘の嘘に僅かに語気を強めた。
「母さん、ごめんなさい・・・。私・・・、聞いてしまったの。父さんが私と結婚して工房をついで欲しいと、ギョームに言ったのを。そしたら、彼は、好きな人がいるって。その人が好きだから、私とは結婚できないって・・・、ギョームは言ったの・・・!! 」
マリアンヌはそう言うと、自分を落ちつかせようとするかのように、大きくゆっくりと深呼吸を二三度繰り返した。マリアンヌは鏡台の前に置かれた蝋燭の炎をじっと見つめ、思いつめた様子で話し出した。
「ギョームは初めて会ったときから、マリーのことが好きだったのよ。それくらい私にだってすぐわかったわ。マリーはきれいで、優しくて、私だって大好きよ・・・。私はちっともきれいじゃないし、ギョームにはいつもキツイ事を言ってきたわ。でもそれは、彼に早く一人前の職人になって欲しかったから・・・!彼の為にだったら、どんなことだってしてあげたい。私の夢だったの!父さんと母さんみたいに二人でこの工房を切り盛りして暮らしていけたら・・・と。ギョームのこと愛しているの・・・!!でも、マリーがパリにいる限り、ギョームは私を女として見てくれないわ!だから・・・・、だから・・・、私、マリーに会いに行ったの。パリから・・・出て行いって欲しいと・・・。」
マリアンヌは、母に背を向けると、ベットに突っ伏し激しく泣き出したのだった。
「おまえ、そんなことを、マリーに言ったのかい・・・・。マリーが承知するはずがないだろうに・・・・。」
セシールは、娘の行動を愚かなものだと思いながらも、責める気にはなれなかった。父親に似た娘は、自分にとってはかけがえのない可愛いわが子であっても、他人から見れば、ただのあまり器量の良くない娘に過ぎないだろう。そのことを自覚しながらも、娘は恵まれた容姿を持つマリーをひがむこともなく、実の姉のように素直に慕ってきた。ギョームへの愛とマリーへの友情との間で、娘の心もきっと揺れたに違いなかった。
「それで、マリーはなんて?」
自分と同じマリアンヌの豊かな黒髪を撫でながら、セシールは穏やかにたずねた。
「マリーはパリを出て行くつもりだって・・・。大切な人の傍にいたいから、いっしょにリヨンへ行くって、そうマリーは言ったの。今日のマリーは本当に美しかったわ。あんなマリーに愛を告げられたら、どんな男の人だって嫌だとは言わないわ。私はずるいと思ってしまったの。どうかしていたのよ。黙っていれば良かったのに。私は、どうしてギョームに言ってしまったんだろう。マリーが好きな人といっしょにパリを出て行くって・・・・。そんなことを言ったら、どうなるか、わかっていたはずなのに・・・。」
くぐもった娘の言葉が、セシールに若い日の思い出を呼び起こした。マリーの父ジョゼフに受け入れられなかった恋心と、思いがけず与えられたアレクサンドルの誠実な愛。いくつもの季節を積み重ね、気がつけば人生はもうおだやかな黄昏の時代に入っている。だが、目の前の娘は、青春の苦悩の只中に身を置いている。
「マリアンヌ、ギョームはきっと戻ってくるよ。マリーは、ジョゼフとニノンの娘だもの。自分の気持ちを同情で曲げたりなんかするものか。マリーには他に愛する人がいるのだから、ギョームは振られるだけじゃないか。戻ってくるよ!あの子は仕立ての仕事が大好きなんだもの。他の仕事なんてできるものか。帰ってきたら、何にも言わずに迎えてお上げ。大丈夫だよ。あの子だって馬鹿じゃない。お前のよさは良く分っているんだから。マリアンヌ、彼のことを愛しているなら、彼がお前の愛に気づくまで、信じて待つしかないんだよ。お父さんはね、愚かな母さんが父さんの素晴らしさに気づくまで、待ってくれたんだよ。」
「本当に?母さん、ギョームは、私のところに帰ってきてくれるかしら・・・・。」
マリアンヌは身を起し、母親の顔を真剣な眼差しで見つめた。
「いままで、話したこともなかったけれどね・・・・。父さんと母さんの恋の話をしてあげようか・・・。」
母は娘の肩をそっと抱き寄せ、少し気恥ずかしそうに微笑んだのだった。