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第23話

【小さな真珠亭】の店内はいつになく閑散としていた。普段ならばこの時間にはほとんどの席が埋まっているというのに、今日の客はアナトールとマリーをいれても、ほんの数人と言うところだった。その客達も、ゆっくりと食事を味わい楽しむつもりはないらしい。簡単な料理を注文し、外の様子を気にしながら黙々と手と口を動かしている。


「今日は雲行きが怪しいから、商売上がったりだよ。まあ、晴れる日もあれば雨の降る日もあるってのが、この世の道理だからね。天気に文句言ったってどうにもなるもんじゃありゃしない。二人とも、残念だけれど、今晩は早く帰った方がいいようだね。今にも降り出しそうだよ。雨降りのパリの街ほどどうしょうもないところはないよ。大通りを外れれば、道はすぐに泥沼だからねえ。」


外の様子を見て戻ってきたマルゴ・ブーヴェは、むっちりと肉のついた腕を組みながら残念そうに言った。


「明日も必ず来ておくれよ。私もジルも、毎晩あんた達二人が来てくれるのが楽しみなんだよ。アナトール、いっそのことパリに引っ越して来ておしまいよ。パリにだってあんたの働ける工場ぐらいあるさ。なけりゃ、私のこの店で働けばいいじゃないか。」


帰り支度を整えた二人を、扉のところまで見送りながら、マルゴは思い切り真面目な顔を作っていった。


「まあ、マルゴ、それは無理よ。アナトールは機械いじりができなくなったらきっと生きていけないわ。ジルに聞いて御覧なさいな。料理ができなくなるんだったら生きている甲斐がないときっと言うに決まっているわ。男の人は仕事のことになると、なにもかも忘れてしまうものみたいよ。」


マリーは、マルゴの太い首に腕を回し、くすくすと笑いながらその頬にキスをした。マルゴはとろけるような笑顔でマリーの抱擁に応えた。


「アナトール、頼んだよ。私の可愛いマリーをしっかり下宿まで送り届けておくれ。」

戸棚から引っ張り出してきた古びた外套をアナトールに渡すと、マルゴは男の広い背中をぱんぱんと掌で叩いた。その力強さに、アナトールは思わずよろめいた。拍子にギャルソンのポールと目があうと、少年は、お気の毒にとでも言いた気に小さく肩をすぼめてみせた。


「ええ、もちろんですとも。」


アナトールはきれいに並んだ白い歯を見せて子供のように笑った。ドアを開くと、湿った重い風がどっと店内に流れこんできた。いつもならまだばら色の残照を映しているべきはずの空は、灰色と黒のまだらで埋め尽くされていた。吹き抜ける風は、嵐がすぐそこまで迫っていることを告げていた。アナトールは渡された外套でマリーの体を包むと細い肩をしっかりと抱いた。


「さあ、急ごう。雨が来る。」


二人は、ぴったりと寄り添い風に向かって歩き出した。まるで大きな獣が荒い息を向きかけてようだとマリーは思った。しっかりとアナトールが抱きとめていてくれなければ、あおられて壁に叩きつけられてしまいそうなほどに、風は激しく吹きつけていた。見上げる空はいよいよ不気味に雲が垂れ込め、その一部が時折青白く光はじめていた。稲妻を追うように、ドロドロと太鼓の擦り打ちのような雷鳴が聞こえてくる。通りの街灯もこの風にあらかたは吹き消されてしまっていた。家路を急ぐ者たちは、残った僅かな街灯の光と、建物から漏れる光だけを頼りに進むしかない。この道を一人で歩いていたならば、どれほど心細く、恐ろしいことだろう。だが今、たくましい腕に抱かれ、大きな体を盾にして自分を守り包んでくれる者がいる。彼と共にあれば、何も怖くはなかった。このまま永遠にこの吹きすさぶ風の中を彷徨うことさえ、自分は厭わないだろうとマリーは思った。


アナトールもまた、この時が永遠に続くことを願っていた。外套を隔てても伝わるマリーのぬくもりと柔らかな女体の感触に酔い痴れていた。腕の中にすっぽりと納まったこの愛しい存在を手放したくなかった。しかし、やがて道はヴィクトワール広場に差し掛かり、残された距離はあとわずかとなってしまった。強い風に背中を押され、急かされるように二人は進み、ついにシノン館の門の前に二人は立ち止まった。


「ああ、着いてしまった・・・。」


どちらともなく口をついたのは同じ言葉だった。風が外套の裾をいたぶるようにはためかせている。自然と向いあった二人は、言葉もなく見詰め合った。互いの胸の内をあらわすかのように、髪は風に乱されていた。マリーの腕に添えられた手がほんの少し力を増した。アナトールを見上げたマリーの白い喉が、ほんの少し反らされた。それは二人だけが読み解ける暗号だったのかもしれない。一秒が千秒にも引き伸ばされたかのように、ゆっくりと瞼を落とし、二人はそっと唇を重ね合わせた。



ただ唇が触れるだけのくちづけは、突然の雷鳴によって引き離された。


「ああ、アナトール、急いで、雨が来るわ。気をつけて!また明日・・・!」


「マリー、早く中にお入り!また、明日・・・!」


名残を惜しむ二人に追い討ちをかけるように、空に閃光が走り、雷鳴がとどろいた。

アナトールは、マリーの体を一度強く抱きしめると、何度も振り返りながら遠ざかっていった。男の後ろ姿が闇の中に消えていくのを見送ったマリーは、唐草をあしらった門扉を推して入った。



小さな庭の草木が強風に揺さぶられ、激しくその枝葉を鳴らしていた。シノン館の入り口に続く低い石段に足をかけたとき、マリーは背後に人の気配を感じた。

恐る恐る振り返ったマリーの目に映ったのは、一瞬の閃光に照らしだされた、青ざめた若い男の姿だった。


解けた長い癖のない髪が、激しい風になぶられて、まるで幽鬼のように男の背後で乱れ舞っていた。赤く充血したはしばみ色の瞳が、ぎらぎらと闇のなかで光っている。


「ギョーム?! ギョームなの?あなた、いったいどうしたの!」


 マリーは驚きを隠すことができなかった。こんな嵐の夜に、いったいいつからここで待っていたのだろうか。


「マリー!パリを出て行くっていうのは・・・本当なのか・・・?!」


亡霊のように闇に浮かぶ白い顔が、低く地を這う様な声でマリーに問いかけた。


「マリアンヌに聞いたのね・・・。ええ、本当よ。」


マリーは、闇に埋もれた男に応えた。


「リヨンに行くっていうのも、本当なんだな。」


「ええ。」


「男を追っていくのか?」


男の声が徐々に苛立ちを強めていく。しかしマリーはひるむことなく真実だけを告げた。


「ええ、そう。私は彼についていくわ。」


「マリー、あんたは騙されているんだよ。その男が本当はどんな奴だか分らないじゃないか!会ったばかりの男をなぜ信じる?俺はずっとマリーのことを見てきたんだ。マリーだって俺のことを良く知ってる。なぜ奴を愛して、俺を愛してくれないんだ!マリーお願いだ!パリを出て行きたいなら、俺もついていく。俺はあんたが傍にいてくれれば何もいらない。お願いだよ、マリー!俺を愛してくれ!」


男はその体をよじり、狂気すら感じさせる懇願をマリーに向けた。


「ごめんなさい、ギョーム。私はあなたを愛せない。私は私の心に嘘はつけない。私が愛しているのは、アナトール・グランデ、ただ一人よ。あなたは勘違いしている。私はあなたが思っているような女じゃないわ。あなたが必要とする女でもない。お帰りなさい。あなたを待っている人がいるわ。あなたを愛している女がいるわ。あなたの幸せはそこにあるのよ!」



ついに湿気を含み膨れあがった闇色の雲は耐え切れずに大粒の雨を落とし始めた。ばらばらと地面を叩く音が闇に広がっていく。


「やめろ!やめてくれ・・・!どうしてわかってくれないんだ!どうして分ってくれないんだ!・・・渡さないぞ・・・誰にも渡すもんか、俺のものになってくれないなら・・・、いっそ・・・!」


閃光に浮かびあがった男の右手には、鈍く光る鋏が握られていた。激しく叩きつけられる雨音に、女の悲鳴はかき消されていった。


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