第22話
マリーに見送られ、マリアンヌはジャック・ブルーノ商会の裏木戸から路地に出た。湿った風が路地を吹きぬけていった。建物に細く切り取られた空は青く晴れていたが、灰色の雲が流れていくのが見えた。そのうち雨がやってくるに違いない。
優しく美しいマリーは憧れの人だった。すらりと優美な体つきも白い滑らかな頬も、大きな栗色の瞳を優しく細め、形のいい指でくるりと巻いた後れ毛を直す仕草も、みんな、みんな大好きだった。でも、いつも微笑んでいたマリーと私の間には見えない壁があった。貴族の屋敷での恵まれた生活を捨て、パリで一人生きてきたマリーは、本当は苦しかったんじゃないだろうか、寂しかったんじゃないだろうか。私は、何も知らなかった。ギョームだって知らないだろう。彼女は心の内を誰にも見せなかったのだから・・・・。
「マリアンヌ、私はパリを出て行くわ。誤解しないでね。あなたに言われたからじゃないのよ。とても大切な人がいるの。私は、その人のそばで暮らしたい。私は何も持っていない。後ろ盾となる人も、財産も何もない。私が持っているのは、この体と心だけ。それでもいいと彼が言ってくれるなら・・・、いいえ・・・、彼が例え受け入れてくれなくても、私の心はもう彼のものなの。他の人など愛せない!だから、私はパリを出て、リヨンに行くわ。マリアンヌ、人は愛を知ると勇気をもてるようになるのね。私はもう何も怖くないわ。可愛いマリアンヌ、さあ立って!帰ってギョームにちゃんと言うのよ。私といっしょに生きて欲しいって。」
優しく抱き取られた胸は、ほのかにスミレの香りがした。白い手に頬を優しく包まれ、額に口付けが落とされる。
「私はギョームにもあなたにも幸せになって欲しいわ。私の可愛い弟と妹ですもの・・・。」
マリーがあんなに激しい女だと、いったい誰が知っているだろう。きらきらと輝く暖かな栗色の瞳が真っ直ぐに見つめてくれた。年若い自分に真摯に愛を語ってくれた。同じ女として、マリーは自分を認めてくれたのだ。マリアンヌはきゅっと唇をかみ締めると、薄いショールを胸にかき合わせ、通いなれた家路を急いだ。
チリンとベルを鳴らして、マリアンヌは入り口の扉を開けた。ギョームと徒弟のセブランが奥の作業台で後じまいをしていた。マリアンヌは肩に掛けていたショールを肩からするりとはずすと、手際よく畳み、左腕にかけた。
「ギョーム、雨が降りそうだから、今日は泊まっていったらどうかしら?父さんも話がしたいようなことを言っていたし・・・。」
マリアンヌがさりげない風を装ってかけた言葉に、ギョームは答えなかった。
「セブラン、そこの糸箱をしまってきな。ここは俺がやるから、お前は台所に行っておかみさんの御用をしな。」
ギョームはマリアンヌの方をちらりとも見ずに言いつけた。
まだ少年の徒弟は、訝しげに交互にマリアンヌとギョームの顔を見て肩をすくめると、糸箱を小脇に抱えて奥に入っていった。風が更に強くなったのだろう。時折カタカタとガラス窓が鳴った。
「今日は、家に帰らなきゃならない。親父に呼ばれているんだ。大事な話があるんだそうだ・・・・。」
その声は、自嘲とも皮肉ともつかぬ色を帯びていた。黙ったまま革鞄に鋏やヘラなどを詰めていく男をマリアンヌはやはり黙って見つめていた。やがて、思い切ったように、マリアンヌは男の傍に歩み寄っていった。
「父は正式にあなたのお父様に、私達の結婚を申し込んだわ。ギョーム、お願い、この話を受けてちょうだい。父ももう年だわ。この工房を継ぐ人間が必要なの。あなたにとっても悪い話じゃないはずよ。あなただって、一生職人のままで終わりたくないでしょう?それに、それに・・・私は・・・・あなたのことが、本当に・・・」
俯き頬をほんのりと赤らめたマリアンヌが、思い切ってその言葉を口にしようとした瞬間、バンッと鈍い大きな音が工房に響いた。
「馬鹿にしないでくれ!俺は、親方株の為になんか結婚しない!一生職人のどこが悪い!」
雀斑の浮いた顔は赤く紅潮し、はしばみ色の瞳がぎらぎらと光ってマリアンヌを睨みつけていた。
「ギョーム!違う、誤解しないで!」
マリアンヌは全身の血が引いていくのを感じた。
「マリアンヌ、お前はそれでいいのか?工房を継ぐだけの目的で結婚できるのか?俺はお前のことは妹のように思ってる。でも、女として愛しちゃいない。そんな俺と結婚して、お前は幸せになれるのか?」
うなり声のような低い声がマリアンヌに問いかける。
「ギョーム、どんなに待ってもマリーはあなたを愛したりしないわ。マリーは別の男を愛してる。あきらめて、お願い!」
マリアンヌの口をついて出た言葉を聞いた男は、引きつった笑みを片頬に浮かべた。
「マリーは貴族のお屋敷の若様が忘れられないんだ。どんなに愛したって身分違いだ!結婚できやしない。だったら、いつか俺の気持ちをわかってくれるかも知れないじゃないか!」
「ギョーム、違うわ!マリーが愛しているのは、貴族の若様なんかじゃない。私達と同じ平民の男よ!マリーはその人といっしょにパリを出て行くわ。あなたの思いは通じないのよ。お願い、あきらめて私と結婚して!私はあなたを愛してるの!愛してるのよ、ギョーム!お願い、私を見て!」
マリアンヌは男の胸に抱きつき叫んだ。
「うそだ!俺は信じない。今までマリーは誰も愛さなかったじゃないか!パリを出て行く?そんなことありえるもんか!」
ギョームは、胸にすがりつく女を邪険に引き剥がした。
「本当よ!パリをでて、リヨンに行くって言ったわ。その人を愛してるって言ったわ!」
マリアンヌの悲痛なつぶやきに、男の顔は醜く歪んだ。両の手指が麦わら色の素直な髪をかきむしった。
「なんだって・・・?リ・・ヨン?・・・ああ!!くっそう・・・!!あいつだ!」
男は作業台の上の革鞄を乱暴につかむと、黙ったままマリアンヌの肩を押しのけた。
マリアンヌの腕から、ショールがすべりおちた。男は床に広がった薄い布を踏んで外に飛び出していった。
「ギョーム!どこに行くの!お願い、戻って!嵐が来るわ!」
男を追って通りへ飛び出した女の髪を強い風が巻き上げ吹き抜けていった。夕闇迫る空は、灰色の雲に埋め尽くされようとしていた。