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第21話


 パリの見本市でのリュミエール社の商談実績は順調に伸びている。新しい機械選定の下見の為に同行させたアナトール・グランデは、仕事熱心な青年だった。が、ややもすると典型的な機械馬鹿とも言えた。生産する織物が人の手に渡り、どのように消費されていくのかについての感心が希薄なのである。なかなかの容姿に恵まれ、人好きのする明るい青年にも関らず、どこか他人との深い付き合いを避けているようなところがあった。聞けば、15の年に父親を亡くし、優秀な成績を修めていながら学業の道を断念し、技師長オーギュスト・レザンの助手として工場で働きだしたのだという。彼の身の上が特別に哀れなものであるとは思わない。むしろ、工場に職を得られたことのほうが幸運だったといえるだろう。エルネスト・グリュエにとっての不満は、望みさえすれば、人生の喜びをいくらでも手にすることができるのに、彼が、まるで自分にはそれが許されないものであるかのように、あえて近づこうとしないことだった。穏やかで忍耐を知るこの青年が、女を愛し、人生の喜びの何たるかを知ったならば、どれほど魅力的な男になるだろう。

 それはひとつの予感だったかもしれない。パリへの同行者に彼を選び、華やかな街の空気に触れさせることで、彼の目を開いてやりたかった。人の出会いというものが、人生の意味を大きく変えていくものなのだ。今、エルネスト・グリュエはしみじみと感じていた。アナトール・グランデは、ついに恋に落ちたのだ!美しきパリジェンヌ、マリー・モンクールに!それなのに、パリ滞在の残り期間はあと一週間しか残っていない。


「今日は、もう上がっていいよ。明日もまた同じ時間に出てくれればいい。待ち人がいるんじゃないか?」


受注書の整理をしているアナトールにグリュエは声をかけた。


「あと少しですから、やってしまいます。彼女の仕事が終わるにはまだ時間がありますから。」


狭い簡易机に長身を押し込めるように向かった男は、振り返り頬を赤らめながら言った。


「毎日いっしょに夕食をとっているのだろう?どんな話をするのだい?」


グリュエは少し思わせぶりに男の背中に問いかけた。


「いろいろな話をしますよ。仕事の話や、子供の頃の話、読んだ小説の話や・・・・。彼女はとても聞き上手だから、つい話しすぎてしまいます。自分がこんなにおしゃべりだなんて知りませんでした。」


嬉しそうにこたえながら、男の手は休まることなく紙束を仕分け続けている。


「マリーに、告白したのかい?」


グリュエの問いかけに、ぴたりと男の動きが止まった。ゆっくりと振り返った男の顔は、まるで初めての恋に戸惑う少年のようだった。手に持っていた紙束を机に置くと、ゆっくりと立ち上がり、グリュエに向かい合った。頭半分ほども背の高い青年は、まるで祭壇に向かい合うように、大きな手を前に組み頭を垂れてしばし沈黙した。会場の閉門を予告する門番の声が遠くに聞こえていた。



やがて、アナトールは決心したように顔を上げた。


「グリュエさん、僕の心は既に決まっています。彼女以外の女性を愛することなんでできません。例え彼女が僕の愛を受け入れてくれなかったとしても、僕の心は永遠に彼女のものです。」


大きな黒い瞳が、強い意思の光を宿していた。


どの恋も、それが唯一真実のものなのだと人は思うものだろう。ところが、恋はなんどでも訪れるものだ。多くの若者にとっての恋は、一時の熱病のようなものかも知れない。恋が結婚に結びつくことは、幸運な場合に過ぎない。しかし、やがては周囲と折り合いのつく相手と結婚し、穏やかな暮らしの中に幸福を得ることができるものなのだ。グリュエ自身もそうして結婚し、平穏で充実した人生を送っている。


「僕の心は決まっているけれど、彼女にこの気持ちを伝えて受け入れられなかったら・・・、僕は、怖いのです。グリュエさん、僕はリヨンに帰りたくありません。このまま、彼女のそばにいたい・・・のです。」


「人生にただひとつの恋」と他の男が言ったのならば、ただの戯言と一笑に付しただろう。グリュエは自分の前で身を硬くしじっと答えを待つ青年を見やった。アナトール・グランデにとって、この恋は真実唯一のものであると、当たり前のように信じられる自分が、グリュエは不思議だった。


「私は、マリー・モンクールを以前から知っているよ。君とマリーは良く似ている。だから惹かれあうのかもしれないな。断言していい。彼女は今まで、どんな男とも君とのように打ち解けた事はないんだよ。自信をもっていいんじゃないのかな?あと、一週間あるのだから、チャンスはあるよ。ちゃんと自分の思いを伝えるべきだ。彼女が承知してくれたら、リヨンに呼び寄せればいい。応援するよ。さあ、早くしないと門が閉められてしまう。急ぎなさい。」


グリュエは、アナトールの肩を優しく叩いてやった。



「マリー、あなたにお客様よ。ロジェ親方のとこのお嬢さん。大事な話があるそうよ。なんだか思いつめた顔をしてるから、事務室に通しておいたわ。」


裏の倉庫に在庫を取りにいったメラニーが、戻ってきて小さな声で耳打ちをした。


「マリアンヌが?親方のお使いかしら?」


マリーは訝しく思いながら、メラニーに店番を任せて、裏の事務室へと向かった。



「ああ!マリー、お願い、私たちからギョームを取り上げないで!!私にも、父にも、ギョームが必要なの。このとおり、このとおり、お願いします。」


 事務室の扉をノックし、部屋に入ると質素な木の椅子に腰を下ろしていたマリアンヌが弾かれたように立ち上がり、駆け寄ってきていきなりマリーの前に跪いたのだった。


「マリアンヌ!いったいどうしたって言うの?ほら、立ってちょうだい。私にはさっぱりあなたの言っていることが分らないわ。」


マリアンヌを立ち上がらせようとした腕に添えられたマリーの手を、振り払うようにマリアンヌは跪いたまま後ろに下がった。青ざめた頬には涙に濡れ、父親譲りの小さな薄茶色の瞳は深い苦悩の色を帯びていた。


「お願い、マリー、このパリから出てどこか遠くの街に行ってください。あなたがいる限り、ギョームは私を見てくれない。こんなことをお願いできるはずがないのは分っています。でも、マリー、あなたにお願いするより仕方ないの。お願い!私達親子を助けると思って!!お願い・・・・!!!」


マリアンヌはそのまま木の床に泣き伏した。マリーは、突然の出来事に驚くしかなかった。僅かな言葉からなぜマリアンヌが自分を訪ねてきたのかをすばやく考えた。そして、ひとつの結論に達したのだ。マリーは床に膝をつき、マリアンヌの背中にそっと手を置いた。


「心配は要らないわ。私はもう、決心しているから。マリアンヌ、あなたは何も心配しなくていいのよ。」


泣きじゃくるマリアンヌの背中を、ゆっくりさすりながら、マリーは静かに話し掛けた。


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