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第20話

「それじゃあまるで巡礼者みたいだわ。行ったのは本屋と公園とシテ島の教会だけだなんて。せっかく二人で出かけたというのに!」


メラニーは手にした毛ハタキをせわしなく振って、置時計の凝った彫刻を撫でながら、心底あきれたように言った。


「教会のステンドグラスを見たがったのは彼なのよ。私はガイド役ですもの、望まれた場所へお連れしただけ。楽しかったわよ。デ・フォセ・サンジェルマン通りのカフェ・ド・プロコープでアイスクリームを食べたし、それから、マルゴの店でいっしょに夕食も食べたわ。」


巻が乱れた生地を手際よく直しながら、マリーはすまし顔で言った。


「あなたみたいな美人を連れてるのに、教会のステンドグラスを見たいだなんて、よっぽど変った人なのね。パリに来てまで本屋に行きたい、公園を歩きたいなんていう男がいるなんて信じられないわ。カフェ・ド・プロコープ!あそこはいいわ。あの店の甘いものは絶品だもの。マリーもマリーだわよ。せっかくハンサムな彼と食事をするのに、マルゴの店になぜ行くの?あそこじゃ保護者同伴と何の変わりもないじゃない。せっかくいいムードになっても、手でも握ろうものなら、マルゴが飛んできてあの大きなお尻で割り込んでくるに決まってる!」


メラニーは赤く塗られた唇を不満そうにつんと尖らせた。


柔らかく微笑むと、マリーは年下の同僚の探るような緑の目にくるりと背を向けた。そして、軽い足取りで店内を一周し、ガラスケースやドレスを着せ付けた人形に掛けられた白い布を、つぎつぎとはずしていった。


「マルゴは私の姉のような人よ。それに、アナトールと私はあなたが期待するような関係じゃないわ。」


マリーは布を戸棚にしまいこみながら、メラニーに言った。


「まあ、嘘おっしゃいな!私にはお見通しよ。今朝あなたの顔を見てすぐに分ったわ!アモールの矢がついにあなたの凍った心蔵につきささり、たちまちのうちに熱い愛の鼓動を脈打たせ始めたんだってね。」


メラニーは、手に持ったハタキをくるりと回し、細い柄をマリーの形良く膨らんだ左胸に押し当てた。


「マリー・モンクール、なぜ自分の心に正直にならないの?リヨンからきたあの黒髪の機械技師が好きなんでしょう?!あなたは今、彼のことをアナトールって名前で呼んだわ。今までただのお客をそんな風に呼んだことなんて一度もないわ!彼だって、初めてあったときから、あなたの虜なのよ!」


メアリーは、燃えたたんばかりの緑色の瞳でマリーを見つめた。そして、ふっと瞳を逸らした。


「あなたには、自分の心以外あなたを縛るものなんて何もない。うらやましいわ・・・。」


少し垂れた緑の瞳は哀しげな光を帯びていた。


「メラニー、なにかあったの?」


マリーの問いに、同僚は視線を逸らしたまま金色の小さな頭を振った。


「あなたらしくないわ。私で力になれることはあるかしら?」


マリーは程よく肉のついた丸い肩をそっと抱き寄せた。背の高いマリーの肩に預けられた金色の髪の影から、小さなため息が漏れ聞こえた。


「父さんが、手紙をよこしたの。家にもどってこいって。」


「ご家族になにかあったの?」


マリーの問いに、肩に押し付けられた頭が、強く擦り付けられた。


「ううん、みんな元気よ。そうじゃないの、父さんはきっと私を結婚させる気なの。ごうつくばりの父さんのことだから、小金持ちの年寄りを私の相手に選んでるに決まっている。マリー、私、帰りたくない。親が望む結婚をすれば、生活は楽かも知れない。でも、まだこんなに若くてきれいな私が、なんのときめきも、愛情も持てない、年寄りと毎日顔をつき合わせて暮らしていかなくちゃなんて耐えられないわ!父さんは、人間は金がなきゃ生きていけないって言うの。確かに、私だってお金のない惨めな暮らしは嫌!でも、心はどうなるの?私は愛したいし、愛されたいの。身も心も幸せになりたいの。でも、父さんはそんな考えは破廉恥だって、私のとんでもないわがままだって・・・・。」


小さく震えるメラニーの背中をマリーは優しく抱いてやるしかなかった。口では蓮っ葉なことを言いながら、意外なほど身持ちの固いこの同僚が、家族に大切に守られ育てられた娘であることを、マリーは知っていた。熱烈な恋に落ちることを望みながら、その実この娘は、安寧な生活以外は想像もしていない。後先を見ない恋心は、柔らかな心と体を持つ女には危険なものでしかないだろう。情熱的な恋がやがて破綻し、男に捨てられパリの街の闇に消えていった娘をマリーはいくらでも数え上げることができた。


まともな家の娘にとって、父親の決める結婚に逆らうことは許されることではない。それは貴族であっても、庶民であっても変わりないのだ。結婚はただ当事者の問題ではなく、家族全体の問題で、良い結婚は家族に繁栄をもたらし、悪い結婚は家族に不幸をもたらすのだと、誰もが信じている。持てるものはより豊かになるために、持たざるものは、少しでも安定した生活を求めて結婚という大きなチャンスを最大限に有効に利用しようとする。そのことを誰が責められようか?現実を見れば、意に染まぬまま結婚しても、共に生活するうちに平穏に添い遂げる夫婦も多い。日々の穏やかな暮らしは、人を憩わせるものなのだから。何の後ろ盾も持たず、自らの暮らしを立て続けることは、将来への不安と常に向き合わなければならない。その不安と引き換えるかのように与えられた自由を、価値あるものと断言できる者がどれほどいるのだろうか。人はそんなに強いものではないと、マリーは思う。一方で、不安を抱えながらでも、自らの心にしか従えない自分は、頑迷な人間なのだとマリーは思うのだ。


「メラニー、お父様はあなたの幸せを考えて下さっているのよ。あなたは、年をとった男性には心がないと思うの?年月は人の心に寛容さと忍耐を育んでくれるわ。年上の男性は、あなたのことを大切にしてくれるだろうし、あなたを大切に育て、幸せを願ってくれる家族のことを忘れてはいけない。私には何かあっても戻る家はないわ。母はいるけれど・・・。ヴェルサイユのお屋敷は、家じゃないもの。あなたのいうとおり、私には自分の心にしか寄る辺がないのよ・・・・。さあ、もう店を開ける時間だわ。あなたは表の鍵を開けてきてね。」


 マリーは、同僚の肩を優しく引き離し、背中を押してやった。


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