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第2話

「工場長のお供でパリに行くんだって?」


レイモン・ターブルは事務所で書類整理をしているアナトールに声をかけた。


「ああ、1ヶ月ほど行って来る。工場長は見本市の現場監督と市場調査。俺は最新式の織機の見本市の視察と、それから本漁りだな。近頃はイギリスの技術革新が目覚しい。新しい本もパリなら手に入るだろう。楽しみだよ。」


「おい、花の都パリだぞ、恋の都パリなんだぞ!花香る五月に、人生の春真っ盛りの若い男が本漁りだなんて、情けなさ過ぎる!」


屈託無い笑顔を向けてくるアナトールに、レイモンは呆れたように言った。


「はいはい、まったくレイモン、お前って奴は・・・。まるで小姑だな。こういえば気が済むか?パリで俺は運命の女と出会い、恋に落ち、そして花嫁を連れて帰ってくる!」


「よし、約束だぞ、絶対にだ!もしお前が戻ったときに色気の無い本しか持って帰らなかったら、樽一杯ワインを飲ませてやる!」


「それは勘弁してほしいな、この間は二日酔いで本当に死ぬほど辛かったんだぞ。」


「嫌なら皆が驚くようなパリジェンヌを連れて帰ってこい!」



 工場長のエルネスト・グリュエはパリ生まれのやり手の男だった。工場のオーナー、リュミエール氏のお気に入りで、工場の運営に関し、かなりの権限を与えられていた。まだ40代も初めだが、世事に長け、モードに対するセンスも抜群で、リュミエール社の製品は彼が工場長になってから順調に売り上げを伸ばしている。エルネスト・グリュエは快活な男であったが、久しぶりにパリに戻れる事で、いつもより更にはしゃいだ様子だった。グリュエが今回のパリ行きの同行者に、アナトール・グランデを選んだのには訳があった。


 もちろん、一つには彼の技術者としての腕を高く評価して、今後導入する予定の機械選定の下見をさせる為であった。そして、もう一つは、あまりにも禁欲的に生きている彼を、人生の喜びに目覚めさせてやりたいという、年長者の多少おせっかいな気分からであった。リヨンにも、それ相応の歓楽街が無いわけでは無い。しかし、この真面目でシャイな青年が、地元のそんな場所に足を踏み入れようなどとは決して思うまい。


「アナトール・グランデ、君は仕事以外に興味があることは無いのかね。君のように若くてハンサムな男が、毎日、機械、機械、機械!仕事に熱心なのは良いことだが、人生は君が思うほど長いものじゃない。美しい青春時代を無駄にすることは無いぞ。女工達が嘆いていたぞ。アナトール・グランデはちっともなびかない、とな。少しは彼女達と遊んでやったらいいのに。」


馬車の中で向かい合わせに座るアナトールに、グリュエは笑いながら話しかけた。


「どうも、このところ皆に同じようなことばかり言われています。もういい加減結婚しろって。男が一人でいるのは、そんなにいけないことなんでしょうか?」


「いや、君がそれなりに誰かと付き合ったり、まあ、問題にならない程度にあれこれあるなら、誰も何も言いはしないさ。恋は人生を豊かにしてくれる。君が大そう魅力的な男なのに、何も無いから言われてしまうのさ。アナトール、パリの女はいいぞ。人生の楽しみを教えてくれる。」


真面目な顔つきで自分に聞いてくるアナトールにグリュエは半ばあきれながら答えた。本当に、なんとまあ初心な男なのだろう。パリに着いて工場長は友人の家に泊まる事になり、アナトールはその近くの安ホテルを宿にする事にした。着いて数日は、見本市の会場設置やら何やらで忙しかったが、そちらの準備が整うと、工場長はパリの街の高級洋品店を回り始めた。


「いいか、ファッションには流行がある。そして、流行は気まぐれだ。これからどんな商品が流行るか、それを正確に早く見極めたものが勝者になる。まあ、君は機械専門で興味も無いだろうがね。それでも、知っておいて損はない。新しい織物が流行になれば、新しい機械も必要なのだから。それに、機械によっても織の具合いが違う。そういうものの違いにも、見る眼を持たなければならないぞ。そして、実際に商品を扱っている顧客に商品の評判を聞くのが重要なんだ。店の販売状況が流行のバロメーターだ。客と接している店員にじかに話をするのがいちばんいいな。生の声が聞ける。」


 確かにエルネスト・グリュエの言うことは尤もであった。彼は、何軒もの高級洋品店を回り、自社の商品を売り込み、そして、パリの流行についての情報を熱心に集めていく。アナトールは、自分の仕事の新たな広がりを感じることとなった。



 その日、何件目かの店に向かっているときだった。


「次は、ジャック・ブリューノ商会だ。ここはいいぞ。パリでも人気の店だ。なんたってセンスがいい店員をそろえている。まだあの娘はいるかな。なかなかの美人で、頭もいい。」


エルネスト・グリュエが、やけに浮き浮きとしているのをアナトールは感じた。ジャック・ブリューノ商会は、サン・トノレ通りに面した白い石造りの明るく瀟洒な構えの店であった。店内に入ると、上品な応接セットが置かれ、鮮やかな生花が生けられて、貴族の邸宅のサロンのような雰囲気が漂っていた。エルネスト・グリュエは何度かこの店に来たことがあるらしく、店に入ると慣れた様子で、応対に出て来た店主と話し込み始めた。アナトールは華やかな店の中で、身の置き所が無かった。見回すと中央には二階に通じる螺旋階段があり、その登り口のそばには美しいドレスが人形ひとがたに掛けられ展示されていた。柔らかな曲線を描く足を持った小卓に、レースやリボンで飾られた帽子や手袋といった小物がディスプレイされている。部屋の奥の壁には色とりどりの生地の見本が並べられ妍を競っていた。飴色のマホガニーで作られたチェストの、赤いビロードに内張りされた浅い引き出しは、階段のように引き出され、並べられた金細工や七宝焼きのボタンやカフス、ブローチなどが華やかな輝きを放っていた。アナトールは長いこと煌びやかな絹を織り出す機械を扱いながら、織り出された布の行き先に興味を持ったことがなかった。水の力を伝え動く歯車、力強く上下する綜絖そうこう、横糸を打ち込むおさ。自分を魅了する機械の世界が自分にとっての全てだった。

人形に掛けられた一着のドレスの生地に見覚えがあった。若草色の地に春の可憐な草花が織り出されたもの。数ヶ月前にアナトールが調整した機械で織っていた生地だった。製品として織り出された布が、こうして女性の身を包む華やかなドレスに仕立てられている事に、アナトールは新鮮な感動を覚えていた。


「お気に召しましたか?奥様へのプレゼントにいかがですか?」


声を掛けられて振り向くと、清楚な白いレースの襟のついた、深い緑色のドレスを着たほっそりとした女が立っていた。艶やかな栗色の髪をゆったりと結い上げ、細い首筋に、いく筋か柔らかく巻いた後れ毛がこぼれている。


「こちらのスタイルは、若い奥様方に人気がございますのよ。こちらの生地は柄行も素敵ですけれど、肌触りもとても柔らかくて、きっと喜ばれますわ。」


柔らかな微笑が自分に向けられている事に気づき、アナトールは心臓の鼓動が早まるのを感じた。


「いえ、私は、独り者ですから、・・・。」


言い訳をするかのようにアナトールは慌てて答えた。


「まあ、失礼しました。では、ご家族の方に?」


「ドレスを注文に来たんじゃないんです。仕事で、ほら、あそこでご店主と話している彼と、仕事で来たんです。」


アナトールは、店の奥で談笑しているエルネスト・グリュエの方を見た。


「あら、グリュエさんといらしたんですか。わたしったら、仕立ての注文にいらしたお客様とばかり思って・・・。ごめんなさいね。」


女は少し困ったような顔でわびた。


「気にしないで下さい。私は、リュミエール社の技師をしているアナトール・グランデといいます。よろしく。」


アナトールは、恥ずかしそうに笑った。


「私は、この店で働いている、マリー・モンクールです。こちらこそ、よろしくお願いしますわ。」


マリーはドレスをつまんで軽く腰を屈め、会釈を返した。


「この生地はリュミエール社のものですわ。なかなか評判がいいのですよ。」


「ええ、私が担当している織機で織ったものなんです。今まで、こんな風にドレスになっているところを見たことがなくて・・。きれいですね。」


「ええ、とても、美しい生地ですわ。ドレスのデザインにもあっているでしょう。」


マリーは人形に掛けられたドレスの裾を広げて見せた。


「このドレスはきっと貴女に似合いますよ。」


「あら、私には無理ですわ。もっと若いご令嬢や若奥様むきのデザインですから。」


マリーはドレスのスカートのドレープを調えながら、小さく笑った。


「そんなことないですよ。きっと貴女のその栗色の髪に映えて、その・・似合うと思います!」


アナトールは自分でも、なんで、こんなことを言っているのかわからなかった。でも、目の前にいるマリーがドレスを着た姿を想像し、言わずにはいられなかった。


「ありがとうございます。お世辞とわかっていても、そういっていただくと嬉しいですわ。」


「お世辞だなんて・・そんな・・・本当に、きっと似合いますよ!」


マリーは目の前の男の、自分に向けられた少年のようなまなざしに、戸惑い、ただ微笑みを返すしかなかった。



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