表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/33

第19話

配達から戻ってきた手代にお茶の支度をさせた店主は、マリーとアナトールに小さな椅子を勧めた。


「まったく、あんたがデスタン家を辞めて、パリに出たと聞いた時には、本当にびっくりしたよ。元気そうで何よりだけれど、もう、屋敷に戻るつもりはないの?」


店主の質問に、マリーは曖昧な微笑みを浮かべただけだった。


「あんたがその気になりさえすれば、いつだって戻れるんだろう?この間、4人目のお嬢様がお生まれになって、ニノンも忙しそうだし、あんたが戻ってくれれば、マキシムさんだって喜ぶよ。最近の若い侍女は気が利かないって嘆いていたからねえ。もっとも、あんたみたいに気が利く人は、そうそういないと思うけれどねえ。」


店主は薄いカフェをすすりながら言った。


「ヴェルヌさん、それは買いかぶりすぎというものですわ。デスタン家の皆様には本当によくしていただいて、今も心から感謝しています。でも、お屋敷勤めより今の仕事の方が、私には性に合っているみたいですわ。何より、気楽ですもの。」


マリーはすすめられたカフェのカップを細い指で取り上げ、立ち上る湯気を静かに吹いた。


「気楽ねえ・・・。でも正直言って、女一人この町で暮らしていくのはたやすいことじゃあないだろう。見たところ、まだ結婚していないようだし、そろそろ、ちゃんと考えないといけないよ。ニノンさんだって、心配しているだろう。」


店主はそういうと、急にアナトールの顔をまじまじと見た。


「グランデさん、この人はねえ、生まれたときから大貴族のお屋敷で育って、旦那様方にもとても可愛がられていたんだよ。読み書きだって、計算だってちゃんとできるし、見ての通り器量もいい。心根も優しいくて、正直だ。嫁に欲しいという人はいくらでもいたんだよ。今だって、この人が首を縦に振りさえすれば、大抵の男はすぐに教会にすっ飛んでいくだろうさ。だけどね、問題はこの人の心を動かすような男が出てこないってことなんだよ。」



「ヴェルヌさん、そんなことをおっしゃらないで。グランデさんが困っていらっしゃるわ。」


マリーはあわてて店主の言葉をさえぎった。そして、小さなため息をついた。


「母や周囲の皆さんは、いっしょに暮らせば情が湧くのだから大丈夫、先ずは結婚しろといわれるのだけれど、私にはどうしてもそう思えないのです。そう言うのなら、母こそ再婚をすればよかったのですわ。働き者の母のことですもの、それこそ、その気があればまだ充分若かったのだし、いくらでもそうすることはできたでしょう。でも、結局、母は父のことが忘れられないのですわ。私も不器用な人間だから、自分の心を偽れないのです。グランデさん、自分の心に忠実でいたいと思うことは、いけないことなのでしょうか・・・・。」


思わず口をついて出た問いに、マリーは驚き顔を伏せた。


「自分の心を欺く人間が、どうして他の人間に正しく向き合うことができるでしょうか。僕は、マリーさんのおっしゃることは間違ってはいないと思いますよ。僕も、自分の心に忠実でありたいと思います。」


アナトール・グランデは、静かに答えた。


パリの街を二人で散策する旨を伝えると、店主のヴェルヌがアナトールの泊まっているホテルまで本を配達することを申し出た。アナトールは、店主の好意を素直に受けることにした。持って歩くには重すぎる荷物なのは明らかだったからだ。


「たまには、ニノンさんに会いに行っておやり。お屋敷の皆さんだって待っているよ。母一人、子一人なんだから、意地をはったらいけないよ。」


店を出ようとするマリーを呼び止めて、ヴェルヌは小さな声でささやいた。


「意地なんて張っていませんわ。私も、もう20歳の小娘じゃありませんもの。」


マリーは、心配そうに自分を見つめる店主に微笑みかけた。気のいい店主の髪はこんなに白かっただろうか?顔に刻まれた皺は、こんなに深かっただろうか?マリーはデスタン家から離れて過ごした時間の長さを思った。にわかに、母の顔が思い起こされた。この一年互いに訪ねることもなかったことをマリーはふと思い出した。


書店を出て肩を並べて歩き出した時には、もう、太陽は頭上高く昇っていた。緑の葉を茂らせた街路樹が、その足元にくっきりと濃い影を落としている。時折吹く風は葉を揺らし、木漏れ日が白く乾いた道にちらちらと踊っていた。


 「すっかり、僕の買い物につきあわせてしまって、申し訳ありませんでした。いい書店を紹介していただいてよかった。欲しいと思っていた本を手にいれることができました。」


アナトールは、望みをかなえた高揚感も露に言った。


「ご満足いただけてよかったですわ。私も本当に久しぶりに懐かしい人に会えましたし・・・。」


マリーは胸に湧いた感傷を振り払うように言った。この向学心に溢れた男の望みをかなえる手助けが、僅かでもできたことをマリーはうれしく思った。


「さあ、これから、どこにご案内いたしましょう?にぎやかな場所がよろしいかしら?それでしたら、右岸に戻りますけれど・・・」


サン・ジェルマン・デ・プレ教会前の広場で立ち止まり、マリーは晴れやかな表情でたずねた。アナトールは答えを探すかのように、目の前に現れた教会の鐘楼を見上げた。すっくと立つ鐘楼が青い空に白く映えている。塔の先端の十字架が、初夏の日差しに輝いていた。アナトールは、やがてゆっくりと傍らに立つマリーの姿に目を転じた。降り注ぐ陽光を受けた女の姿はすがすがしく、男の心を優しく揺さぶった。


「僕は、実のところ、にぎやかな場所はあまり得意じゃないんです。せっかくお天気も良いし、リュクサンブール宮の庭園を見に行きませんか?とても美しいところだと聞いています。」


眩しげにマリーを見つめる黒い瞳は、何かもの言いたげだった。


「グランデさんがよろしければ、ご案内しますわ。きっと、花も盛りでしょう。」


女の言葉に、男は微笑み頷いた。そして、思い切ったように男は言ったのだった。


「アナトールと呼んでいただけませんか?」


「え?」


「マリーと呼んでも・・・・いい・・・ですか?」


低く柔らかな声が懇願していた。じっと自分を見下ろしている黒い瞳は、熱を帯びていて、マリーは頬がひどく熱くなるのを感じた。その理由が真昼の日差しに曝されているからではないことが、彼女を戸惑わせた。男は、彼女の動揺を察したかのように言葉をかけた。


「行きましょう。ここは日差しが強すぎる。」


 男のたくましい左腕が、女の前に誘うように差し出された。その腕にマリーは白い手をそっと預けた。その上に男の右手が優しく重ねられる。包み込まれた手に伝わるぬくもりに、マリーは言いようのない安堵が胸を満たしていくのを感じた。




 リュクサンブール宮は、アンリ4世の妃、マリー・ド・メディシスが建てた、どこかイタリアの香りのするこじんまりとした宮殿だった。その南側には大きな泉を中心にしたフランス式庭園と、木立を自然のままに配したイギリス式庭園があった。幾何学的に配された花壇はとりどりの花を咲かせている。花の蜜を集めて回るミツバチの微かな羽音を聞きながら、二人は陽光溢れる明るい庭をそぞろ歩いた。広大な庭のあちらこちらには散歩を楽しむ人々が見受けられた。家人に連れられて遊びに来たのだろうか、身なりの良い子供たちが笑いながら二人の脇を走り抜けて行った。


「ご兄弟はいらっしゃいますの?」


マリーは子供たちの後姿を見ながら、思いついたようにたずねた。


「僕に家族はいないんです。母は物心つく前に亡くなっていましたし、父は15の時に亡くなりました。」


男は、事も無げにさらりと言った。


「まあ!そうでしたの・・・。」


思いがけない男の答えに驚き、マリーはつぶやいた。


「物心着く前に亡くなっているから、僕は母がいないのが当たり前に思っていましたよ。昼間は近所のおばあさんが面倒を見てくれたし、仕事が終われば父はいつもいっしょにいてくれましたからね、特に寂しいということもありませんでした。父は、僕の母を忘れることができなかったんです。僕があまりに母に似ていたから。父が亡くなった時には、父の親友のレザンさんが尽力してくれて、工場に勤めることもできました。そのおかげでこうして何とか暮らしを立てていられます。本ばかり買ってしまうから、本当になんとかってところなんですけどね。」


 男はかげりのない笑顔をマリーに向けた。マリーは明るく穏やかで礼儀正しい男の人となりは、きっと温かく円満な家庭で育まれたものだとばかり思っていた。そんな男の黒い瞳の奥に、なぜ自分と同じ魂の揺らめきを見つけてしまうのか、ただ唯一の存在として愛したい、愛されたい、それだけを請い願う切ないまで無垢な魂の叫びを、なぜ、この黒い瞳はやさしく映してくれるのか、マリーは不思議でならなかった。


「私も父の顔を知りません。私が生まれて、3ヶ月も経たぬうちに馬車に轢かれて亡くなりました。身寄りのない母は私を連れて、ヴェルサイユのデスタン伯爵家の乳母として奉公にあがりましたの。私はそこで育ちました。私の母も、父を忘れられなかったんです。私も、父にそっくりだって・・・・、不思議だわ。私達はとてもよく似ているのね。」


 マリーは、アナトールの顔を見上げた。黒い目は優しく細められ、唇は柔らかく微笑んでいた。豊かな黒い巻き毛は、初夏の日差しを透かして輝いている。マリーはそっと目を閉じ、寄り添う男の厚い肩に頭を持たせかけた。言葉にできない安らぎがマリーを満たしていった。男の肩に頭を持たせかけたまま、マリーは目を開き、青い空を見上げた。金色の騎士の残像が日差しの中に静かに消えていくのを、微笑みながら見送ったのだった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
http://www.honnavi2.sakura.ne.jp/modules/yomi/rank.php?mode=r_link&id=10309
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ