第18話
初夏の明るい日差しがセーヌ河岸の道に降り注いでいる。右手にコンティ河岸を眺め、左手に四国学院(collège des quatre nations)の荘重な建物を見上げながら二人は進んだ。互いの日々の仕事の話などしながら、のんびりと歩いていく。マルケ河岸の手前で左に曲がり、右手に僧院の高い塀を見ながら通りを進むと、青空の中に三角屋根の古い鐘楼が目に入った。
「あれは?」
「サン・ジェルマン・デ・プレ教会の鐘楼ですわ。店は教会のすぐ傍にありますから、もう少しです。昔はよく来ていたのですけれど・・・、もう何年ぶりかしら。」
額に手をかざし、塔を見上げたマリーの横顔に微かに憂いの影が浮かんだ。
アナトールはマリーに促されて、古い板ガラスが嵌めこまれた厚い樫の扉を押した。店内はサン・ジェルマン大通りの賑わいが嘘のように静寂を保っていた。湿った革とインクの匂いが鼻をつく。吹き抜けの壁には天井高一杯までの棚が作りつけられ、本来の二階の床面に当たる高さのところには狭い回廊がめぐらされていた。棚には隙間なく本が詰め込まれている。高い場所に開けられた明り取りの窓から、柔らかな光が帯のように差し込み、床を照らしていた。ほの暗い店の隅には印刷所から届いたばかりの木箱がいくつも重ねられ、中で本たちが棚に並べられるのを待っていた。奥の一角には大きな机が置かれている。その上には紙の束が積み上げられ、作業途中の帳簿が無造作に広げられていた。手代もおらず、店主も用足しにでもいったのだろうか、広い店内には誰の気配もなかった。少し無用心が過ぎるのではないかと思いながらアナトールは、物珍しげに店内を見回した。背表紙に金箔でタイトルが押された豪華な本もあれば、買い主が好みの装丁に仕上げられるように、簡易な表紙がつけられただけの物もあった。最近婦人方に人気のある小型の本などの品揃えも充実しているようだ。アナトールは棚に並べられた本のタイトルをゆっくり目で追った。
並んだ本の背表紙を指で数えるようにたどりながら、マリーはゆっくりと店内を巡っていった。最後にこの店に来たのはいつのことだろうか。デスタン家に出入りする書店はいくつかあったが、実用書から専門書まで幅広く商うこの店を、執事のマキシムは重宝に使っていた。パリに使いに出るついでに、注文してあった本の受け取りを頼まれて、何度かこの店を訪れていた。デスタン家の図書室に似た静かなこの店のたたずまいが、マリーは好きだった。それなのに、パリに住むようになって一度もこの店を訪れることはなかった。無意識の内にデスタン家とかかわりのある場所を避けていたのかもしれない。
思えば跡取りの乳母の娘に過ぎぬ自分に対して、デスタン家が与えてくれたものは破格のものだった。忙しい執務の合間をぬって、執事のマキシムは読み書きや計算を教えてくれた。お嬢様方はまるで妹のように接してくれて、本やリボンを与えてくれた。どんなに近しく感じても、主家の方たちと自分は決して同じ世界に住まうことはない。わかっていながら、金色の髪をした美しい少年を好きにならずにいられなかった。口に出すこともかなわない思いだけが、胸の奥にしんしんと降り積もっていく。積もった思いの重さに耐えかねて、逃れるように屋敷を出てからもう7年。なぜ、私はこの店にやってきたのだろう?他にも書店はいくらでもあるというのに・・・。マリーは振り返り、アナトールの姿を探した。書架の前で本選びに没頭する広い背中が、窓から差す光の帯の向こうにかすんで見えた。
「これは、驚いた!どこかで見た顔だと思ったら、マリー・モンクールじゃないか!」
店の裏に続く扉が開き、聞き覚えのある声がした。
「まあ、ヴェルヌさん!もうずいぶんとご無沙汰しておりましたのに、覚えていてくださったんですね。」
記憶より大分老けた店主の言葉に、マリーはうれしげにこたえた。
「今日は、お客様をご案内してきましたの。こちらはリヨンからいらした織物工場の機械技師、アナトール・グランデさん。機械関係の新しい本をお探しだそうです。こちらのお店なら、きっと良い本が見つかると思ってお連れしたのです。」
二人の声にアナトールはあわてて振り向き、店主に向かって会釈をした。
「織物機械の本を探していらっしゃる?グランデさん、あんたは運のいい人だ、ちょうど昨日、新しい本が届いたところだったんです。さて、どの箱だったかな?」
店主は机の上の紙束を取り上げて、めくり始めた。
アナトールと店主はひとしきり本選びに熱中した。リヨンではなかなか手に入らない最新技術についての本が揃っていた。アナトールは、それらを次々と手に取っていく。値段を確かめながらアナトールは数冊の本の購入を決めた。最後に手にとった黒い革で装丁された本の値段をたずねたとき、彼は大いに迷った。それは、イギリスで出版された最新の技術書を翻訳したもので、銅版画の精巧な挿絵も添えられていた。この本は、彼の向上心を強く揺さぶった。既に選んだ本をあきらめればいいのだということは分っていた。だが、どの本も捨てがたかった。リヨンに戻って再び同じものを手に入れられるという確証はない。すでに総額は予算をはるかに超えていた。アナトールは忙しく頭の中で計算を繰り返した。宿代は月ぎめで既に払ってあったし、あと半月、食費を節約すれば何とかなるだろう。それに、どうしても足らなくなったら、工場長に頼み込んで都合してもらうという手もある。アナトールは腹を決めた。彼は選んだ本を全て買うことにした。彼の財布にはパ最低必要と思われる金にほんの少しの余裕を持たせただけしか残っていなかった。財布の中身は大分軽くなってしまったけれど、アナトールは至極満足だった。
本選びに夢中になっている二人の間で交わされる専門用語は、彼女にとって聞きなれぬものばかりだった。それでも、アナトールがどれだけ自分の仕事に情熱を持っているかが、その口ぶりから伝わってくる。頬を上気させ、食い入るように活字を追うアナトールの横顔をマリーは好ましいと思った。
「とにかく仕事熱心な人でね、仕立ての仕事が大好きだったんだよ。仕事の話をさせたら止まらなくてね・・・。私もお針子だったから、二人で仕立ての話をするのは楽しかったよ・・・。もっともっと、仕事をさせてやりたかった。お前が大きくなって、結婚するときには、美しい花嫁衣裳を縫ってやるんだといっていたよ。生まれたばかりなのに、気が早いって、二人で笑ったよ・・・。全く、どうしてあんなに早く逝ってしまったのだろう・・・。」
父親のことを尋ねると、はじめは楽しそうに、最後は怒ったように、母は同じ話を繰り返した。アナトールの横顔が、顔も知らぬ父に重なった。父もあんな顔をして、仕事をしていたんだろうか・・・・。マリーの胸は不思議な懐かしさに満たされた。