第17話
「ねえ、母さん、近頃ギョームの様子がおかしいと思わない?なんだかいつも不機嫌だし、仕事熱心なのは良いのだけれど、どこか思いつめているみたいで心配なの。」
台所の椅子に座って、夕食に出す野菜スープに入れる豆を剥きながら、マリアンヌはぼそりとつぶやいた。
「おや、そうかい?わたしには普段とあまり変わりないようにしか見えないけれどね。お父さんもなにも言ってないよ。」
ロジェ親方の妻、セシールは、野菜を刻みながら娘の問いに答えた。
「私の気のせいかしら?ううん、絶対におかしいわよ。」
マリアンヌが不安げに顔を曇らせる。
「おやおや、お前はずいぶん、ギョームの事が気になると見える。」
「嫌だわ、母さん!ただ、私は工房の事を心配しているだけよ。父さん、近頃目が弱ってきてるじゃない。あんまり細かい仕事をして欲しくないの。だから、ギョームがしっかりしてくれればいいと思うだけよ。父さん、今ひとつ彼に仕事を任せ切れていないじゃない。その上、せっかく一人前になったポールを故郷に帰してしまうなんて、お父さんも、お人良しが過ぎるのよ。新しい職人を雇うと言ったって、簡単じゃないわ。徒弟のセブランとジャックは一人前にはまだまだ遠いいし。」
セシールはむきになって言いつのる娘を思わしげに見返した。夫のアレクサンドルとの間に三人の子を授かったが、マリアンヌの他は、幼いうちに病気であっけなく失ってしまった。一人残ったマリアンヌは、父親に瓜二つであまり器量は良くないが、何くれとなく両親や工房の者をあんじる優しさと、芯の強さを持っている。二つ年上のギョームが工房に徒弟として入って来た時から、マリアンヌは失ってしまった兄のように、彼を慕っていた。娘の良さを理解してくれる職人を婿に迎えて、この工房を継がせてやりたいとセシールは切に願う。娘が憎からず思う相手ならば、飛びぬけた技術の持ち主でなくてもかまわないとさえも思う。誠実に娘と共に仕事をし、代々受け継いできたこの工房を守って生きていってくれればそれでいい。いくら器量が良くなくとも、年頃になればそれなりに華やいだものを醸すようになる。二目と見られぬ醜女というほどでもなし、自分似た豊かで艶やかな黒髪と美しい肌は親の欲目以上に見事でもあった。目端の利く男なら娘の細やかな気遣いや家を切り盛りする為に必要な賢さが、得がたいものであると見抜くだろうし、容色はどんなにあがいたところで、やがては衰えていくものだ。
「ギョームも若いからねえ。いろいろあるんだろうさ。男ってのは、女には分らない悩みがあるらしいから。」
セシールはそういってマリアンヌに微笑みかけた。
「いろいろってなによ。」
二十歳になるというのにいつまでも子供扱いする母親に娘は不満気に唇を尖らせた。そのとき、表の入り口に下げた小さなベルがちりんと音を立てたのを、セシールは聞き逃さなかった。
「いろいろは、いろいろだよ。ほらほら、表に誰か帰ってきたようだ。使いに出したセブランかしらね。そろそろ一段落の時刻だから、父さんにお茶を入れてちょうだい。」
「母さんはそうやってすぐ話をはぐらかせるんだわ!」
そういって、マリアンヌは剥きかけのマメを笊に戻すと、手をぬぐいお茶の支度を始めた。
アレクサンドル・ロジェはもう50に手が届こうとしている。そろそろ娘のマリアンヌに婿を迎え、一線を退きたいと考えていた。自分が元気なうちに、娘夫婦に工房を譲り足場を固めさせてやりたい。だが、娘マリアンヌは、哀れなほどに自分に似ていた。幸いなことに赤毛こそは似なかったが、大きく横に張った鼻や小さな薄茶色の目は、お世辞にも美しいとはいえなかった。妻に似てくれていればと思いながら、やはり自分に良く似た娘は愛しくてしかたない。娘は自分の器量があまり良くないことを承知している。だが、そのことでくよくよと思い悩むような姿を決して見せたりはしない。妻は娘に工房の切り盛りをするに必要な嗜みを十分に授けた。いずれは工房の裏を守る妻として立派にやっていけるはずだ。自分で親方株を得られぬ職人にとっては、ロジェ工房の株を相続する娘との縁談は願ってもないもののはずなのだ。徒弟のころから辛抱強く育てた職人は、自分にとってももはや息子も同然になっている。アレクサンドルは、仮縫いから戻ってきたギョーム・レヴィを、作業台のそばに呼んだ。
アレクサンドルは、歩み寄ってくる若者を温かく見つめた。麦わら色の髪は癖もなく素直に伸び、後ろ頭でくくられている。雀斑の浮いた白い顔はまだ幼さを残してはいたが、はしばみ色の瞳は生真面目な若者の生気を宿していていた。娘がかなり前から密かにこの青年を好いていることをアレクサンドルは知っていた。要領は良くないが、少し過ぎるぐらいの真面目さと、仕事に対しての熱心さをもったこの若者は、9歳で死んでしまった息子と同じ年だった。
「なあ、ギョーム、お前、マリアンヌの事をどう思う?俺ももう50だし、そろそろ楽をしたいと思っているんだよ。お前が職人になってもう4年になる。教えるべきことは全て教えた。後はお前がどれだけ自分で精進して腕を磨いていくかだけだ。どうだろう、お前が良ければお前の父さんに結婚の話をしたいのだがね。」
アレクサンドルは、穏やかに青年にたずねた。
「え?親方、どういうことです?」
青年は、にわかには合点がいかぬようで、訝しげに親方の顔を見た。
「お前には急に聞こえるかも知れないけれどね、もうずいぶん前から考えていたんだよ。お前にマリアンヌといっしょになってもらって、この工房を継いでもらいたいんだ。」
「ちょっとまってください、親方!俺はまだ22で、仕立ての腕もまだまだで、結婚なんて・・・考えてみたこともないですよ・・・。」
ギョームは突然の親方の申し出に戸惑った。二つ年下のマリアンヌとは気心も知れているし、妹のように慣れ親しんできた。だが、それ以上の感情を持ったことなど一度もなかった。いきなり、どう思うと問われても、ギョームには答えようがなかった。
「まさか、言い交わした女がいるわけではないのだろう?」
ギョームはロジェ親方の目が探るように自分に向けられているのを感じた。
「いません・・・。でも、好きな人がいるんです。」
青年はうつむき、思い余ったように言った。
息を弾ませ、駆け寄ってきたマリーに、アナトールは小さなスミレの花束をそっと差し出した。マリーは一瞬驚いたように目を見張った。私に?と、女の目が問うた。アナトールは柔らかく頷き、もう一度促すように小さな花束を差し出し直した。女の白い両手が、紫色の可憐な花束をそっと包み込むように受け取った。マリーは長い睫毛を伏せて、香りをかいだ。清楚なレースで縁取られた薄いショールに透けて見える胸元が、ゆっくりと上下する。今女の手の内にある小さな花になり代われたらどんなに幸せだろう。アナトールの胸に甘い感傷がこみ上げる。伏せられていた瞼がゆっくりと開かれ、黒い睫毛に縁取られた暖かな栗色の瞳が、恥ずかしそうにアナトールの瞳を捉えた。
「ありがとうございます。スミレの香り・・・好きなんです。」
「気に入っていただけたなら、僕もうれしいです!お恥ずかしいことですが、仕事のことばかりかまけていて、パリの街をまだほとんど見ていないのです。今日は、どうぞよろしく。」
男は少年のように、頬を赤らめた。マリーはショールを止めた胸元のブローチの金具に、スミレの花束をそっと差し込んだ。その仕草をアナトールは目を細め、眩しげに見つめた。
「グランデさんは、織物や織物機械に関する新しい本をお探しになりたいのでしょう?私に心当たりがありますの。そちらにご案内いたしますわ。パリにいらした目的を先ずは充足されるべきですもの。その後、ご希望のパリの名所にご案内いたしますわ。」
マリーは屈託ない笑顔を浮かべて言った。行きかう人々の流れに乗って、二人は並んでセーヌ左岸に向かって歩き出した。