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第16話

 朝を告げる教会の鐘の音が、目覚めを優しく促していた。東向きの細い窓に掛けられた薄手のカーテンを透かせて、初夏の朝日が小さな部屋の中を照らしはじめた。ゆっくりと目をあけると、天井にちらちらと小さな光の粒が踊っていた。光の粒を目で追いながらマリーは思わず頬を緩ませた。少女のように布団を勢いよく跳ね上げ、マリーは寝台からひょいと降りると、窓辺に駆け寄った。一杯に窓を開け、乗り出すように東の空を見上げると空は淡いばら色をかすかに残しながら、晴れやかに澄み渡っていた。


 部屋の隅の水甕からひしゃくに半分ほどの水を水差しに移した。そして、水甕を覗き込み、少し考えて、もう一度ひしゃくに水をすくい直し、水差しをいっぱいに満たした。


「明日、少し節約すればいいのよね。」


 マリーは、一人歌うように言った。石鹸皿の上にはまだちびた欠片が乗っていたが、マリーは戸棚から新しい石鹸を取り出した。リボンで手早く髪をくくり、素朴な花がそっけなく描かれた琺瑯の洗面器に、静かに水を張った。差し込む朝日は光の粒となって水面で楽しげに揺れた。マリーは静かに指を水に浸した。ひんやりと冷たい水が心地よく、体の隅々までを覚醒させてゆく。おろしたての石鹸から優しい香りが漂っている。慎ましい暮らしの中で、自分に許した唯一の贅沢がスミレの花の香りを練りこんだこの石鹸だった。


 自分を妹のように可愛がってくれる女主人達の身繕いの手伝いをしながら、各々が好みの香りを選んで使う石鹸が憧れだった。年若い女主人たちは、皆抜けるように白い美しい肌をしていた。ほのかに香る白い泡が、その肌を作っているような気がした。ヴェルサイユの屋敷で初めて手にした給金で買って以来、ずっと欠かさずに買い続けていた。母親は分不相応だと良い顔をしなかったけれど、白いふわふわの泡で顔を洗うと、さっぱりと気持ち良く、ほのかなスミレの香りに、心が豊かに満たされる気がした。


 手の平に水を掬い取り、丁寧に何度も顔を洗い流した。ぬらしたリネンで首筋をぬぐい、夜着の胸元をはだけて喉元をぬぐった。窓から流れ込む風が濡れた肌を心地よく冷やし、マリーはふるりと身を震わせた。鶸色のガウンを羽織り、鏡の前の小椅子に腰を下ろした。リボンを解き豊かな栗色の巻き毛をゆっくりと梳いていく。陽気な歌を口ずさんでいることにふと気がついて、鏡に目をやると、頬を上気させた女がうれしげに笑っていた。


「マリー・モンクール、あなたはいったいどうしたって言うの?まるでほんの小娘のような顔してるわよ!」


 マリーは鏡に向かって、真面目な顔を作り言った。だが、鏡の中の女はまたすぐにうれしげな笑顔を浮かべて言うのだった。


「ねえ、マリー、正直に言って御覧なさいよ。アナトール・グランデが気になるって。あの黒い巻き毛も、あの暖かな黒い瞳も、会ったばかりなのに懐かしいもののような気がするの。あの笑顔をずっと見ていたいわ。あの柔らかな声をずっと聞いていたいわ・・・。」


これは・・・恋なのかしら?


これが・・・恋なのかしら!


鏡の中の女は、頬を赤く染め大きな栗色の目を潤ませていた。



 空は青く澄んでいる。一年の中で一番美しい月をあげろと言われたら、誰もが五月と口を揃えて言うだろう。花々は咲き乱れ、木々の緑は滴るように鮮やかだ。人々の装いも軽やかに明るくなり、市場には色鮮やかな自然の恵みが溢れかえる。「花の都」と称されるこのフランス第一の都市パリは五月の穏やかな日差しを浴びて活気に満ちていた。


 シテ島の西端を掠めるようにして対岸へと続く堅牢な橋は、アーチを結ぶ橋脚の上に中世の城砦の塔を思わせるような半円形の張り出しが設けられている。ポン・ヌフ(新橋)という名前とは裏腹に、もう150年間もパリの心臓ともいうべき位置を占めている。パリに住む人間も、パリを訪れる人間も、この橋を渡らずに暮らすことなどできはしないだろう。


 アナトールはもう、かれこれ15分も半弧を描く石の欄干にもたれかかり、行きかう人々でごったがえす橋の上を眺めていた。橋の上はまるであらゆる階層の人間達と乗り物の見本市のような様相を呈していた。粗末な荷馬車は言うにおよばず、豪華四輪馬車(キャロッス)軽快二輪馬車(カブリオレ)、辻馬車とあらゆる種類の乗り物が入り乱れ、引きもきらずガラガラと石畳に車輪を鳴らしながら通り過ぎていく。橋のたもとでは通りが己の舞台とばかりに芸を披露する芸人達や、怪しげな薬を並べた大道医師が人々に取り巻かれ、商売に励んでいる。胡散臭い彼らの隣には、赤い頬をした娘がオレンジやレモンを並べ、愛想良く道行く人々に声をかけていた。そして、そのさらに向こう側では、お上りさんにアンリ4世のメダルを売りつけようと、露天商が巧みな口上をとうとうと述べ立てている。ゆったりと流れるセーヌの川面を吹き渡る風が、心地よくアナトールの黒い髪を揺らした。活気と喧騒に満ちた橋の上を眺めていながら、その実、男の黒い瞳は何も見てはいなかった。


 マリーの下宿の前で別れた後、安ホテルに帰りついたアナトールは、固い寝台に横になったが、なかなか眠りつくことができなかった。目を閉じるとマリーの笑顔が瞼の裏に鮮やかに浮かび上がってくる。柔らかな弧を描く眉の下のつやつやと濡れて輝く栗色の瞳が、ふっくらとした小さな赤い唇が、白い首筋が、細い手首が、ゆったりと上下する胸元が、次々と思い起こされ、今までどの女にも決して感じたことのない激しい欲望に駆られたのだった。今すぐにでも寝台を飛び出し、彼女の住む部屋の窓の下に走って行きたかった。思いつく限りの愛の言葉を捧げ、今一度彼女の姿を見たかった。だが、出会ったばかりの男の言葉を、彼女は真剣なものと信じてくれるだろうか?マリーは自分の愛を受け入れてくれるだろうか・・・?華やかな街で一人凛然と生きる女に、この街を棄て、ヴェルサイユの貴族の屋敷に住んでいるというたった一人の母親とも離れ、身よりもなくただこの身一つを頼りに生きる自分と共に生きてくれと、請う事が果たして許されるのだろうか?思いばかりが頭の中をぐるぐると回り続ける。


 やがてやっと訪れた浅い眠りの中でアナトールは夢を見た。柔らかに抱きしめられてゆらゆらと揺すられていた。目を開けると薄明かりに照らされた白い顔を黒い巻き毛が縁取っていた。丸い大きな瞳がじっと自分の顔を覗き込み、夢見るような笑顔を浮かべていた。赤い唇が、自分の名の形になんども動く。なぜ、声が聞こえないのだろう?唇に伸ばした手は幼い子供のものだった。


「アナトールは寝ないのかい?」


懐かしい父の声がした。白い顔の隣に若い男の顔が覗いた。優しく自分を見つめる青い瞳。ああ、そうだ、父さんは青い目をしていた。空のような青い、青い・・・・。


「父さ・・・ん!!母・・・さ・・・ん!!」


自分の上げた声でアナトールは目を覚ました。頬は涙で濡れていた。ぼんやりとにじむ天井には光の粒が踊っていた。天井に伸ばした手は節くれて油のしみが残る男の手。


「マリー、僕のマリー・・・。君こそが僕の永遠の恋人だ!」



「ねえ、お兄さん恋人と待ち合わせ?だったら花を買わなきゃいけないよ。ほら、今朝摘んだばかりのスミレの花だよ。恋人にあげたらきっと喜ぶよ!」


 スミレの花束がいくつも入った籠を腕にかけた少女が、小さな紫色の花を束ねたものをアナトールの胸の前に突き出していた。


「恋人との待ち合わせに手ぶらなんて、野暮だよ。ほら、安くしてやるからさ!」


粗末な身なりの少女は強引にアナトールの手を取ると、花束を握らせた。


差し出しされた荒れた手の平に、アナトールは小銭を乗せてやった。少女はすばやく目でその小銭を数えると、慣れた手つきで首にかけた皮袋に入れた。


「恋人に渡すときは、『私の心はこの花のように貴女に誠実です。』って言わなきゃダメだよ。お兄さん、気が弱そうだからね。がんばりな!」


 少女はにやりと笑うと、次の客を求めて走り去っていった。アナトールは手に残されたスミレの花束を、そっと鼻に近づけ香りをかいだ。紫色の可憐な小さな花は、彼が待つ女の姿を思い起こさせた。森の陽だまりに静かに咲く花は、凛とした気品と清浄でありながら馥郁と甘やかな香りを漂わせていた。


 ふと目を上げたとき、アナトール視界に飛び込んできたのは、通りの向こうで行き交う馬車や人々が途切れるのを待つ一人の女の姿だった。彼女の立つその場所だけが、周りから浮き立つように光輝いていた。アナトールは彼女に向かって大きく振手を振った。人の群れをぬうように軽やかに駆け寄ってくる女の背には、天使の羽が生えているに違いない。アナトールの胸は歓喜に激しく高鳴ったのだった。


注)


当時もパリには近代的な上下水道はなかった。そのため、水は水売りから買わなければならなかった。生活用水はセーヌ川に頼っていたが、はっきりいって衛生的な水とはいえずパリを訪れるとおなかを壊すのが常識とされたぐらいであった。


ポン=ヌフは1607年に竣工したシテ島の西端をかすめ右岸と左岸を結ぶ石造りの橋。パリのセーヌ川に架かる橋としては最古のものだが、名前は「新しい橋」という意味である。当時、橋といえばその上に家家が立ち並んでいるのが普通だった(イタリア・フィレンツェにあるヴェッキオ橋のようなかんじ)。ポン=ヌフは作られた当時から今に至るまでその基本的構造を変えていない。車道と歩道に別けられた橋は確かに新しい橋のスタイルだったのだろうと思われる。


18世紀半ばにはまだ合成ソーダを使った石鹸の製造法は発見されていない。現在のように石鹸が大量に生産できるようになるには1790年にフランス人ルブランによる合成ソーダによる石鹸製造法の発見を待たなければならない。それまでは、マルセイユ等で伝統的製法で作られた石鹸しかなかった。



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