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第15話

 アレクサンドル・ロジェの工房は、サン・トノレ通りからいくつかの細い通りを入ったところにあった。自分は運のいい男であるとアレクサンドルは思う。父親は末息子の自分が手先の器用なことを見て取って、仕立屋の徒弟に出すことに決めた。石工や大工の徒弟に出されなかったのは幸いだった。赤毛で鼻が大きく横に張った無骨な顔に似合わず、アレクサンドルは気の弱い子供だったからだ。父親が修行契約を結んだジェラール・ロジェ親方は、実に温厚な人物だった。丁寧な仕事ぶりで客の信頼も厚く、安定して仕事があった。手先は器用なものの、どちらかと言えば物事を飲み込むのに時間が掛かる自分に、親方は根気良く仕事を教えてくれた。妻アニェースはしっかり者でしつけは厳しいものの、情け深い女だった。何しろ質素ではあっても、育ち盛りの徒弟が飢えずにすむ量の食事を用意してくれて、その上、何くれとなく世話を焼いてくれた。親から安からぬ修行料を取りながら、牛馬にも劣る扱いをする親方も少なからずいた。それを思えば、ロジェ親方の門下に預けてくれた親に感謝しなければならないと、アレクサンドルは思う。

 一人の親方が取れる職人や徒弟の数は、同業組合の規約で厳格に決められている。どんなによい親方のところに弟子入りしようとしたところで、空きがなければ駄目なのだ。ロジェ親方の工房には二人の職人ともう一人、徒弟がいた。技能を身につけ、一人前の職人と認められるまでの数年にわたる修行時代を、徒弟は親方の家で起居をともにする。親方夫婦は第二の両親であり、徒弟仲間は兄弟にも等しかった。それこそ四六時中顔をつき合わせて過ごさねばならない徒弟仲間が嫌な奴だったら、それはまた不幸だったことだろう。


 父親に連れられてはじめて工房を訪れたのは12歳の復活祭を終えたばかりの頃だった。

鉄枠が打ち付けられた頑丈な樫の扉を押して入と、思いの他、部屋のなかは明るかった。作業がしやすいように窓が大きくとられているからなのだろう。父親は床の掃除をしていた少年に、親方への案内を請うた。少年がこの工房の徒弟であることは、その身なりからひと目で知れた。

 

「僕はジョゼフ、君も親方の徒弟になるの?ロジェ親方はいい人だよ。おかみさんも親切だし。」


 人懐っこい笑を浮かべた顔立ちは、一瞬少女ではないかと思われるほどに整っていた。それが、ジョゼフ・モンクールとの出会いだった。自分より半年早くこの工房に入ったという少年は、一つ年上の13歳だった。栗色の巻き毛に暖かな栗色の大きな目をしたジョゼフは、穏やかで良く働き、誰にでも好かれていた。

 だが、いっしょに下働きをしながら聞いた彼の境遇は、あまり恵まれたものとは言えなかった。彼の母親は月足らずで彼を産んだ後、産後の肥立ちが悪く死んでしまった。彼は田舎の乳母に預けられ、その後、母方の伯母夫婦の手によって育てられたのだった。母親はパリの大きな商家に奉公に出ていたのだが、親の言いつけに従い19の年に郊外の故郷に戻り、かなり年の離れた彼の父親の後添えの妻となった。結婚後すぐに彼を授かり、月足らずで生まれたはずの彼が、思いのほかしっかりとした大きさがあったことから、すでに年老いていた父親は、彼の出生に疑惑を抱いたのだという。普通であれば喜ばれるだろう整った容姿が、その疑惑を深めてしまったことは容易に想像できた。しかし、それは彼の預かり知らぬことであったはずだ。ともあれ、彼は父親に省みられぬ子として伯母の元で養育された。年に数度会うだけの父親は、そこそこの財産を遺したというが、彼に遺されたのは、かろうじて5年間の修業契約が結べるだけの金に過ぎなかった。彼は5年の内に仕立て職人としての技量を身につけるより他、生きる道はないのだと自覚していた。裕福ではないが、親の愛情を受けて育った自分に比べ、頼るよすがは己の腕のみというジョゼフの心細い境遇を、親方もおかみさんも気の毒に思っていたに違いなかった。同じ年頃でもあり、起居を共にする内に、生涯の友と心底思える関係となっていった。

 飲み込みも良く手先も器用なジョゼフは、修業期間を終える頃には親方の技量を凌ぐほどの腕前を持つようになっていた。一人前の職人として仕事を任されるようになると、端正な顔立ちと職人にしておくには惜しいほどの長身に恵まれたジョゼフは、女たちの熱い視線を集めるようになっていた。ロジェ親方夫婦の一人娘セシールも、彼に熱い視線を送る娘の一人だった。同じ年のセシールは気立てのよい娘だった。周囲はロジェ親方が腕の良い職人を娘の婿にして工房を継がせるだろうと噂していた。黒い髪が美しいセシールに、アレクサンドルはいつの頃からかかなわぬ恋と思いながらも熱い想いを寄せていたのだった。

 

 「アレクサンドル、俺、今度結婚することにしたんだ。」


 珍しく酒場に誘われ、恥ずかしそうに切り出された言葉に息を呑んだ。


「そりゃあ、おめでとう!で、いったい誰と結婚するんだい?」


 相手の名前がもしも、自分の想像したとおりだったら・・・、胸苦しさを押さえ、たずねた自分に、親友は屈託のない笑顔を向けた。


「アレクサンドルもよく知っている娘だよ。ボナール商会に出入りしているニノンと結婚するんだ。」


「ニノンだって!?あのまるっとした威勢のいい娘かい?おい、冗談はよせよ。あんなちんちくのどこが良いんだよ。お前だったら、もっといい女がいくらだっているだろう?」


冗談めかして言ったのは、己の安堵を隠す為だったに違いなかった。


「おいおい、その言い方はひどくないか?いくら親友のお前でも聞き捨てならないぞ。だいたい、お前は女を見る目がないんだよ。この間だって、酒場で女を口説こうとしていたろ、ああいう女はお前には無理だ。いっしょに暮らすなんてできないよ。俺にとったらニノンみたいな女が、一番いいんだ。優しくて、芯が強くて、情に厚い。いっしょに暮らしてほっとできる女だよ。俺は仕立て以外に能はないし、頼れる身寄りがあるわけじゃない。それはニノンも同じだから、お互い馬が合うし、上手くやっていけると思う。金があるわけじゃないから、親方になるのも到底無理だ。しがない職人のつましい暮らしでもいいって娘じゃなきゃ、結婚なんてできないよ。それにな、ニノンはやっぱり可愛いよ。お前には、あの可愛さがわからないんだろうなあ。いつもは男をもたじろがせるほど威勢がいいけどな、俺と二人っきりになると急にしおらしくなって、はにかんだりするんだよ。ちっさくて、どこもかしこも丸くって、そりゃあ可愛らしいんだ。」


 うれしそうに頬を赤らめて話す親友は、本当に幸せそうだった。お世辞にも美人と言えるような娘ではなかったけれど、働き者で愛想もよく、しっかり者のお針子として、ニノンは仲間内で知られていた。美丈夫のジョゼフがニノンを選んだのは、きっと温かい家庭が欲しかったからなのだろうと思う。彼の整った容姿が、父親の愛を遠ざけたということを彼は知っていたに違いない。

 親方夫婦もセシールも、ジョゼフの結婚相手を知って驚きを隠さなかった。セシールが彼に好意を寄せていることもあり、いずれ職人として相応の評価が定まれば、ジョゼフを婿に迎え入れるつもりでいたからだった。彼にはほとんど後ろ盾になるような身内もおらず、親方になるためには娘の婿になるしかないのだからと、どこかでたかをくくっていたに違いなかった。ところが、ジョゼフには端から親方になろうという野心がなかったのだ。

 ジョゼフとニノンは小さな新居を構えて暮らしだし、ジョゼフは仕事が終わると職人仲間と遊ぶことなく、飛ぶようにニノンの待つ家に帰っていった。傍目にもあきれるほど、ジョゼフはニノンに夢中だった。ジョゼフの腕はますます冴え渡り、工房の仕事は切れることがなかった。結婚して一年後にはジョゼフにそっくりな女の子が生まれた。親方夫婦が代父母となってささやかな洗礼式を行った。両親の手作りの小さな衣装にくるまれた赤ん坊がマリーだった。二人は、田舎の乳母に子供を預けることをしなかった。貧しくとも三人がいいのだと、頑なに言い張った。

 

 あれからもう27年。マリーが生まれてまだ3ヶ月も経っていなかったあの日、ジョゼフは馬車に轢かれそうになった子供を助けて、自分が犠牲となってしまった。幸せの頂点からニノンは奈落の底に突き落とされたようなものだった。寄る辺ない二人が築いたささやかな家庭は、あっけなく失われてしまったのだ。乳飲み子を抱え、頼る縁者もいないニノンに、思いがけない幸運をもたらしたのは、ジョゼフが最後に作ったローブだった。

 ジョゼフが仕立てたローブをことのほか気に入った伯爵夫人が、ジョゼフを指名して再びローブを注文してきたのだ。そして、彼が事故死した顛末を聞かされ、ちょうど生まれたばかりの子供の乳母を探していたところなので、未亡人となったニノンを雇い入れてもいいと言ったのだった。ニノンは、マリーを連れてヴェルサイユへと去っていった。

 ジョゼフが仕上げることのできなかった注文を、全身全霊を込めて仕上げた。若くして死んでいった親友にできることはそれしかなかった。腕の立つ職人を失い、ロジェ親方の工房は窮地に落ちいったのだ。埋めきれぬ穴とは知りながらも、必死で働いた。時には組合規約に違反することを承知で深夜まで働いた。ジョゼフの遺した仕事をこの手で仕上げたかった。二人で育ち、働いてきた工房を守りたかった。その一心だったのだ。そのことが、自分の職人としての評価を確実なものとしてくれ、何時しか、必死に働く自分に、セシールが心を寄せてくれた。ジョゼフが亡くなって2年後、アレクサンドルはセシールと結婚し、ロジェ工房の親方となったのだった。


注)

 18世紀職人になるには職業組合に所属する親方の下で徒弟として修行する。12歳ごろから親方と修業と契約を結び住み込みで修行する。契約は親方と親が結び、修業期間中、親は親方に対し何がしかの金銭を支払う決まりになっていた。親方は職業訓練をし、徒弟の健康に留意し生活をともにした。一人の親方の取れる徒弟の数、修業期間、労働時間や製品の品質等が同業組合によって定められていた。徒弟期間が終わると職人となるが、職人は許可なしに親方のもとを離れることができなかった。


 当時、都市住民は子供が生まれると田舎の乳母に預けるということが当たり前のように行われていた。それは金持ちだけではなく、庶民であってもその習慣があった。


 現代は個人としての男女の恋愛の帰着として「結婚」は捉えられているが、当時は生きていく為に必要な社会的契約だった。よほどの貧乏人でない限り「結婚契約書」を取り交わし、結婚によって発生する財産の授受などを契約によって定めていた。貴族は比較的若い時期に結婚したが、庶民はむしろ晩婚傾向にあった。男性は30才、女性は25才になるまで自分の意思だけでは結婚を決めることができなかった。


 当時、まだ衛生という概念がなかった。細菌が発見されたのも19世紀になってからである。医学もまだ極めて未発達な状況であり、出産で命を落とす女性も多かった。


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