第14話
「マリー、今晩はずいぶん遅かったんだね。心配していたんだよ。誰かに送ってもらったのかい?話し声が聞こえたよ。」
少し色褪せた別珍のショールを羽織った小柄な老女は、がちゃがちゃと戸締りをしながらマリーにたずねた。
「ええ、マダム・ヴァレス。マルゴのところに寄ってきたの。ご一緒したお店のお客様が送ってくださったのよ。これ、お土産。ジルのガレットよ。お好きでしたでしょう?」
マリーは少し腰をかがめ、薄紙で幾重にも包み、可愛らしいリボンで結ばれた小さな包みを、門番女を務める老女に手渡した。
「まあ、嬉しい。ジルのガレットは本当に美味しいからね。いつも悪いね。気を使ってもらって。」
老女は嬉しそうに包みを押し頂いて、エプロンのポケットに大事そうにしまった。そして、ちびた蝋燭に火を移すとマリーに差し出した。
「手紙の用事はありますか。」
マリーは老女から燭台を受け取りながらたずねた
「今日はないよ。そうそう、肉屋のマルセルのおかみさんが礼を言っていたよ。街の代書屋に頼むと金ばかし取られて大変だからね。マリーが書いてくれると、きれいで早いし、文章も上品で丁寧だから、手紙を出す者の面子が立つといっていたよ。おかげで、肉をサービスしてくれたよ。夕食を取ってあるけど、食べるかい?」
「今日は、食べてきましたから、結構ですわ。マダムの猫ちゃんにやってくださいな。
遅くに手間をお掛けしました。お休みなさい、マダム・ヴァレス」
マリーは、そういうと、暗い階段を上り始めた。
「そう?いいの?じゃあ、いただくね。」
老女はうれしそうに言うと、玄関脇の彼女の部屋へと入っていた。マリーは老女が明日の朝食に、自分の夕食を当てるだろう事を知っていた。
パリで若い女が一人で暮らすには、それなりの知恵が必要なのだ。ヴェルサイユの屋敷を出て、パリで暮らす決心をしたとき、まず一番にしなければならないことは、仕事を見つけることだった。ありがたいことに、これはすぐに見つかった。赤ん坊の時に死に別れた父の親友、仕立屋のロジェ親方が、出入りしているジャック・ブリューノ商会の仕事を紹介してくれたのだった。父も仕事を請け負っていたというその店は、清潔で、明るく、客層も良かった。貴族の屋敷で育った自分が、パリの一般市民に比べれば、ひ弱である事を、マリーは自覚していた。貴族の暮らしを見続けることで身につけた、自分のセンスを生かす事もできるだろう。贅沢が出来る給金ではなかったが、何とか暮らせるだけのものは確保できた。15の年から支給されるようになった給金を、貯めたものもあった。幼い頃から厳しい母の仕込みを受けてきたのだ。健康で、働くことをいとわず、周囲への気配りをしていくことで、自分ひとりぐらい養うことはできるだろうという、不思議な自信があった。
次に重要なのは、下宿先を選ぶことだった。生活のすぐ隣に危険があったのではたまらない。十数件を見て回り、やっと気に入ったのが、この「シノン館」だった。部屋は広くないが家具付きで、夕食の賄いもあり、まずまずの値段だった。オーナーのマダム・シノンは株の仲買人の未亡人で、娘と一緒に同じ建物の中に暮らしている。そう金に困っているわけでもなく、借り手を選んで入れているせいか、その値段の割りに人品のよい下宿人ばかりだった。そして、何より、門番女のマダム・ヴァレスの人柄が良かった。マダム・ヴァレスは門番女としては珍しいほど、善良で親切だった。門番女は自身の職務をいいように悪用し、下宿人に意地悪をしたり、小銭をせびったりするのが普通なのだ。これは、オーナーのマダム・シノンの眼力のおかげでもあったろう。根が善良な人間であれば、良好な人間関係を築くのはそう困難なことはではない。それなりの気遣いをすれば、やはり、それなりの配慮をしてくれるものなのだ。
マリーはいくつかの空き部屋を見て、三階の東の角部屋を選んだ。角部屋ではあったが、階段から遠く、寸の詰まったような小さな部屋は、人気がないらしく、少し安かった。朝日が差すこの部屋は、屋敷の自分の部屋に良く似た雰囲気を持っていた。ともあれ、この「シノン館」がマリーの家となり、もう、7年の歳月を過ごしてきたのだった。
長い廊下を、足音をしのばせてマリーは自分の部屋へと戻った。ドアを静かに閉め、しっかりと鍵をかけ、東向きの細長い窓に歩み寄った。マリーは窓を開けた。夜風が狭い部屋に吹き込み、淀んだ空気を払っていく。マリーはドレスを脱ぎ、軽くブラシを当てて、クロゼットにしまった。シュミーズの上に、鶸色の薄いウールサージのガウンを羽織り、鏡台の上の蝋燭に灯りを移した。ピンをはずし、頭を軽く振って結い上げていた髪を解くと、マリーはゆっくりとその豊かな栗色の髪をブラシで梳いていった。
マリーは、ふと鏡に目を向けて、そこに映る自分の顔に見入ってしまった。蝋燭の柔らかな光に照らされて、とけるような微笑みを浮かべている女はいったい誰だろう。頬はばら色に上気し、大きな栗色の瞳はきらきらと輝いて、ふっくらとした唇は堪え切れない喜びにほころんでいる。見慣れた造作のはずの顔が、初めて見る表情を浮かべている。
「じゃあ、明日、10時にポン・ヌフで。」
「ええ、明日また。」
自分を見下ろす黒い瞳の、なんと熱く艶やかだった事だろう。男らしく整った鼻筋、引き締まった頬、優しげな微笑を浮かべる口元、秘めた意思を感じさせる少し張った顎、それらを柔らかく縁取る緩やかに巻いた漆黒の髪・・・。すっと伸ばされた背すじ、見本帳を指差した、落としきれないオイルの染みをのこした長い指・・・。そして、心に染み入るような、低く優しい暖かな声音・・・。
ほんの数日前に出会ったばかりだというのに、もうずっと以前から知っているような懐かしさ、愛おしさが、マリーの胸に湧き上がる。胸苦しさに思わずマリーは胸に手を当て目を閉じた。自分でも信じられなかった。今まで、たくさんの男の好意に背を向けてきた。肩肘を張って生きているつもりは少しもなかった。それでも、心のうちにあったのは、やはり生まれ育った屋敷に置き去りにしてきた、秘めた幼い恋心だったのだろうか。
母親に言われるまでもなく、決して口にすることも、成就することもない思い。乳姉弟として育った。両親や姉君達に愛され、乳母である母に愛され、輝く金の髪とサファイヤの瞳を持った美しい少年を、どれほど眩しく見詰めた事だろう。大貴族の嫡男で、あらゆる栄光を望むままに手にできる彼が、ただ同じ女の乳を飲んで育った、それだけの自分に、素直に親愛の情を示してくれた。屋敷の長い廊下を、小さな手を繋いで歩いた。ヴィルジニー小母さんの庭に咲く、赤いつる薔薇の垣根の下で、額を寄せあい、芽吹く緑に目を輝かせた。母に愛されたいと願う心の葛藤を、乳母の愛を一身に受けた少年は、癒そうと手を差し伸べてくれた。その真っ直ぐな青い瞳が、どれほど心に温かい燈を灯してくれたことだろう。
恋だと思った。見詰めるだけしか許されない思いであっても、心の支えだった。少年がいつか青年になり、その身分にふさわしい美しい花嫁を娶ると聞いたとき、一人で生きようと決心した。母への割り切れぬ思いと、彼の愛を当然に受ける花嫁への嫉妬に、美しい思い出を汚したくなかった。思い出は美しいまま、心の奥底にしまっておきたかった。
思い出の中の青年は、変わり行く自分から、どんどん遠ざかっていく。パリに出て、仕事を探し、部屋を探し、好意と悪意の狭間をすり抜け、小さな葛藤が繰り返される日々を重ねた。自分の力のみが頼りのパリの生活で、マリーはもう、金色の騎士が遠く美しい思い出に過ぎなくなってしまったことに気づいていた。ただ、心の底から自分が求めるものが何なのか、探し当てられないでいた。
与えられる好意では満足できないのだ。自らが求めるものを、求めるがままに欲したい。そして、同じように求められ、この世界で唯一の存在として激しく欲されたい。マリーは、自分の中にある頑ななまでの情熱が恐ろしかった。周囲からは大人しく優しい女と思われている自分の中に、貪欲に愛を求める女がいる。
門扉の向こうで優しく見送ってくれたアナトールの熱い眼差しの中に、マリーは同じ魂を感じた。ただ唯一の存在として愛したい、愛されたい、それだけを願う孤独な魂の揺らめきが、そこにはあった。
注)
集合住宅の入り口には門番女がいて、出入りする人間の管理をしていた。家賃は3ヶ月更新だったとか。家賃は上の階に行くほど安くなる。水道も下水もエレベーターもない時代、全て人力で運ぶのですから当然かも。
当時教会で行われる日曜学校がそれなりに普及していたが、一般人の識字率は低かった。
また、書き言葉と日常会話とには明治時代の日本のように隔たりがあったので、手紙や公的機関に提出する書類を代書する代書屋という職業があった。