第13話
「ギョーム、あんたこんなところに座りこんで、何やっているの?」
甲高い女の声が頭の上から降ってきた。見上げると、緑色の目があきれたように見下ろしていた。
「なんだ、メラニーか。ほっといてくれよ。俺が何をしようとあんたに関係ないだろう。」
ギョームはプイッと顔を背けた。メラニーは、男の隣にストンと腰を下ろした。
「いとこの私によくもそんな口がきけたわね。ふん、どうせマリーに振られたんでしょ。前から言ってるじゃない。あんたみたいに気弱じゃ落とせないわよ。」
メラニーは、頬杖をつきながら、藍色に変わり行く空を見上げていた。
「いとこじゃない、はとこだ。だいいち、そんなことは関係ないだろう。」
ギョームは不機嫌そうに隣に座った女をにらみつけた。
「マリーは、誰も愛さない。俺だけじゃなく、誰もな。お屋敷の若様が忘れられないんだ。」
ギョームは、膝の上に組んだ腕の中に顔を埋めて言った。
「あんたって、本当に馬鹿ね。そんな風に思っていたの?お屋敷の若様なんて、もう関係ないわよ。マリーがパリに出てきてもう7年よ。私なら7年も前の恋なんてとっくに忘れてるわよ。」
メラニーはからかうように言った。
「あんたなら、そうだろうが、マリーは違う。」
「ああ、嫌だ。男ってどうしてこう単純なんだろう。マリーの事を聖母さまか何かと思っているの?馬っ鹿みたい。マリーだって普通の女よ。私と同じ。男に愛されたいと思ってるはずよ。だけど、彼女は自分で作り上げた塀の中に閉じこもっているのよ。あんなに美人なのにもったいないわ。男どもは意気地なしで、彼女の塀を越えられないって訳ね。」
メラニーは赤く塗られた唇を尖らせて言った。
「ねえ、ギョーム、マリーの事好きなんでしょ。だったら、マリーの塀を打ち壊さなきゃ。女は男の力強さに弱いのよ。いくらマリーが鉄壁のガードを誇っていたとしても、もう27よ。いい加減トウも立つというものよ。本当に好きなら、押しまくらなきゃ!」
メラニーは、ギョームの肩に手を置いて、しなだれるように身を寄せささやいた。
「あんたは信用できないな。髪を飾るリボンみたいに男を取り替えてる。」
肩に置かれた手を払いのけると男は立ち上がって言った。
「ふん、リボンほどの価値も無い男達ですもの。ふさわしい扱いをしてあげてるだけだわ。男が欲しいのは私の体だけよ。私は、そんなの嫌だわ。誤解の無いように言っておくけど、私はまだ生娘よ。私が欲しいのは、私だけを、身も心も愛してくれる男だわ。だけど、そんな男はいやしないのよ。だったら、少しでも、条件のいい男を選んでどこが悪いの?女の盛りは短いわ。今日咲いていた花も、明日にはしおれてしまうのよ。」
女は緑の目を燃え立たせて言った。
「勝手に言ってろ。俺は帰る。」
男は大通りに向かって路地を歩き出した。
「忠告してあげるわ。あんたはマリーが誰も愛さないって言ったけど、そんなこと無いわよ。リヨンから来た技師を気にしてるもの。今日だっていい雰囲気だったわ。いいの?ギョーム、マリーをとられちゃうわよ。」
女の言葉が男の背中に投げつけられた。路地の出口で男は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。大通りにともされた街灯に男の影が路地にぼんやりと影を落としていた。
「明日も必ず来てちょうだいね。花束を楽しみにまっているから。」
代金を支払う、受け取れない、と押し問答の末、結局、マルゴは断固として代金を受け取らず、その代わりの花束をアナトールに強引に約束させた。マルゴに見送られて「小さな真珠亭」を出たときには、もうすっかり暗くなっていた。薄暗い街灯よりも、晴れた空にかかる上弦の月の光の方が、明るく通りを照らしていた。5月の夜風が、ワインで火照った体を心地よく冷ましていく。取り留めのない会話を交わしながら、二人は並んで歩いていった。人気の少なくなった通りに、街灯が作る影が、ぼんやりと滲んでいた。次第にその影は重なりあい、やがてひとつの濃い影になっていった。どちらとも無く寄り添いながら、ゆっくりと進む足取りは、不思議と同じリズムを刻んでいる。もう、何年も一緒に歩き続けてきたような、奇妙な感覚をアナトールは感じていた。
通りがヴィクトワール広場に突き当たった。
「グランデさん、送って下さってありがとうございます。もうここからすぐですので・・・。」
マリーは立ち止まり、言った。
「もう、遅いですから、家の前まで送らせてくださいませんか?」
アナトールは、名残惜しそうに言った。マリーは、少しためらい、目を伏せた。
「家の前まで・・・です。行きましょう。」
アナトールの促す声に、マリーは微笑みで応えた。
広場から伸びる通りから細い通りに折れると、古いこじんまりとした屋敷があった。下宿屋というにはずいぶんと立派でこざっぱりした印象だった。唐草をあしらった門扉の奥に、手入れの行き届いた小さな庭が見えた。一叢の紅薔薇が、月明かりにほんのりと浮かび、初夏の風に小さく揺れていた。
「ここですわ。送って下さってありがとうございました。遠回りをさせてしまったのでではありませんか?」
マリーはすまなそうに言った。
「いえ、気にすることはないですよ。僕の宿泊先はここからならすぐです。今晩は、本当に楽しかった。久しぶりにおいしい食事にありつけたし。マルゴさんの強引さにはちょっと参ったけど・・・。」
「マルゴには、王様だって勝てないかも知れないわ。」
二人は、顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、明日、10時にポン・ヌフで。」
「ええ、明日また。」
別れの挨拶を交わし、マリーが小走りに小さな庭を抜けて、玄関の扉にその姿を消すまで、アナトールはその後ろ姿から目が離せなかった。豊かな栗色の髪、白い首筋、しなやかな背中、細い腰・・・。マリーは、扉の前で振り返り、笑顔を見せてくれた。優しく凛とした笑顔。今までに感じたことのない胸の高鳴りが、アナトールを襲っていた。
今まで、たくさんの女達が好意を寄せてくれた。みな、自分に親切に、優しくしてくれる女達だった。それなのに、自分の心は常に冷静で、寄せられる好意はありがたいとは思うものの、心揺さぶられるものはなかった。正直、自分はどこかおかしいのではないかと思ったこともあった。寄せられる好意を頑ななまでに拒んでしまう自分は、心のない人間なのだろうか・・・。ただ、自分が欲していないものを、与えられるからといって平然と受け取れるような人間にはなりたくなかった。
記憶に母の姿はなく、ただ、あったのは、父ダニエルの母への深い思いを滲ませた背中だった。言葉に出して父が母を語った事があっただろうか?思いをめぐらすと、たった一つ、幼い自分に父が言った言葉に思いあたった。
「もう十分なんだ。お前の母さんがくれたもので十分なんだよ。もう、これ以上受け取る事も、与えることもできないんだ。父さんには、お前がいる。もう、十分なんだよ。」
その日、父はめったに着ることのない晴れ着を着て出かけていった。夕方、帰ってきた父からは、酒の匂いがした。昼間から外で酒を飲むことなどない父だった。椅子に億劫そうに腰をかけ、いぶかしがる自分を手招いた。父のうっすらと赤くなった目もとが、濡れているように見えた。父の膝に挟まれるように立って見上げると、父はにっこりと笑って、そう言ったのだった。節だった大きな手でくしゃりと髪をつかまれ、額に父の暖かな唇が押し付けられた。
「お前は母さん似だな。さあ、もう、あっちでお遊び・・・。食事の支度をしよう。」
後にも、先にも、それっきりだった。
「せっかく工場長さんが、いつまでもやもめ暮らしじゃあ不自由だろうと、心配してくれているのに、あんたの父さんも頑固でなあ・・・。」
それから、しばらく隣のカミーユ婆ちゃんが、ブツブツといい続けていた。おそらく、あの日、父は見合いに出かけていったのだ。そして、その話を、父は断ったのだ。
父は、母以外の女から愛されることも、母以外の女を愛することも望まなかった。それほど、深く一人の女を愛することが出来るのだろうか。
アナトールは夜の街を歩きながら、マリーを思った。あの別れ際に自分に向けられた笑顔を、永遠に手に入れられるなら、あの細い腰に腕を回し、抱きしめ、栗色の巻き毛がこぼれかかる白い首筋に顔を埋めることが出来るのなら、どれほど幸せだろう。
自分の中に湧き上がる激しい高まりに、アナトールは思わず身震いをした。自分の内にあることさえ知らなかった熱情を、マリーが目覚めさせたのだ。これはまさに、運命の出会いなのだ。アモールの放った矢が、自分の心を、熱く深く貫いた事を、アナトールはついに確信した。