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第12話


「マリーさんとはどういうお知り合いなのですか?ずいぶんと親しそうですが・・・。」


アナトールの質問に、マルゴはいたずらっぽい顔で話し出した。


「マリーのこと、知りたいのね?マリーはね、私の先輩だったのよ。おかしいでしょ。私のほうが5つも年上なの。でも、あの子は私が16でお屋敷勤めを始めたときには、もう、そのお屋敷で働いていたの。覚えの悪い私に、仕事を根気よく教えてくれたのが彼女だったのよ。あの子はまだ11だったわ。だけど、もう一人前に働いてたの。読み書きも計算もできた。何しろ、生まれたときからお屋敷にいて、厳しい母親に仕込まれていたから、もう大人みたいな子だったのよ。」


「お屋敷って、貴族のお屋敷ですか?」


アナトールはたずねた。


「そうよ。ヴェルサイユの伯爵様のお城みたいなお屋敷。使用人を酷い待遇でこき使う、いやな貴族も多いけど、そのお屋敷のご主人方は皆お優しくて、使用人が真面目に働けば、ちゃんと働いた分だけ認めてくださるの。でも、一方で厳しい面もあったから、怠け者には勤まらないわね。私の連れ合いもそのお屋敷の厨房で、ずっと働いていてね、結婚を期に二人でパリに店を出したいって暇請いをしにいったら、真面目によく働いたからって、投資してくださったのよ。私たちだけの資金じゃとてもこんないい場所に店を構えるなんてできなかったわ。」


「マリーさんは、そんないいところで働いていたのに、なぜパリへ?町で娘が一人暮らしなんて、親御さんだって心配なさるでしょう?」


アナトールは不思議そうにいった。


「そりゃ、母親のニノンも大反対だったの。ニノンはパリの生まれだし、マリーが生まれてすぐご亭主をなくして、困ってお屋敷勤めをするようになったから、女の一人暮らしの大変さをよく知っているのよ。マリーをお嫁に欲しいって話もたくさんあったのよ。でもね、ニノンがいくら勧めても、首を縦に振らなかったの。ああ見えて、マリーはすっごい頑固なの。普段は大人しくて、にこにこしているから、わからないけれどね。言い出したら最後まで、必ずやり通すのがマリーなのよ。お屋敷のご主人である伯爵様も、跡取りのレオン様も、止めたのよ。あの子は跡取りのレオン様と乳姉弟で、ご主人方も特別にかわいがっていらしたし。でも、結局、誰もマリーを止めることができなかったわ。マリーが二十歳の頃だったかしら。ちょうど、レオン様がご結婚された頃だったから。」


マルゴは、喉が渇いたのか、カフェのカップに手を伸ばした。


「マリーさんは、その・・・、レオン様と何かあったのでしょうか?」


アナトールはためらいがちにたずねた。


「あんたは今でもお屋敷の貴族の若様が忘れられないんだろ?」


若い男の、胸の奥から搾り出すような声が、アナトールの耳の奥にこびりついていた。


マルゴの手が止まった。


「レオン様とマリーとの間に、何かって?」


マルゴがじろりと、睨んだ。


「いえ、マリーさんは、お屋敷の若様が忘れられないのだと言った方がいて・・・。」


アナトールは、思わず自分の口から出てしまった言葉に戸惑った。こんなことを初対面の人間に言うなんて、まるで下種の勘繰りと思われても仕方ないではないか!


「すいません。マルゴさん、馬鹿なことをいいました。忘れてください!」


真っ赤になってうつむく男を、マルゴは気の毒そうに見やった。


「まあ、あれだけの器量と気立てで、今まで浮いた噂のひとつもないとなれば、いろいろな勘繰りをする人はいるものねえ。レオン様とマリーの間には、そういう人が思うようなことは何にもなかったの。マリーの気持ちの中は誰にもわからないわよ。だけど、あの二人に限って、そう(・・)いう(・・)()はありえないと、私は断言できるわ。」


「もう、いいです!マルゴさん。もう、本当に!」


耳たぶまで赤くして、自分の言葉を恥じている男を見て、マルゴは不思議だった。まるで、初めて恋する少年のようではないか。いや、いまどき、15・6の子供だってもっと擦れている。


「グランデさん、ところで、あなたお年は?」


「え?年ですか?27ですけど・・・なにか?」


突然年を聞かれて、アナトールは口ごもりながら答えた。


「そお、じゃあ、マリーと同じ年というわけね。決めた!グランデさん、私は、あなたの事が気に入ったから、パリにいる間、用がない限り、夕食を食べにこの店に来てちょうだい。もちろん、代金なんていらない。遠慮なんかしないで。」


マルゴはうれしそうに笑いながら、大きな黒い目をしばたたかせているアナトールに言った。





 裏口の石段に男は腰を下ろし、次第に暮れ行く細長い空を見上げていた。


「仕立てのことはよく知らないの。教えてくれるかしら?」


まだ、見習い仕事を始めたばかりの自分に、声をかけてくれたのがマリーだった。仕事が覚えられなくて、しかられてばかりの自分を、いつも励ましてくれた。来るたびに、出来るようになったことを報告した。自分の事の様にマリーは喜んでくれる。彼女の喜ぶ顔が見たい、その一心で修行に励んだ。


仕立職人のロジェ親方は、マリーが来るといつも嬉しそうに迎え入れた。そして、女将さんにお茶やお菓子を用意させるのだ。


「親友の娘なんだから、俺の娘と同じだよ。」


それが親方の口癖だった。マリーが生まれてすぐに死んでしまったというのだから、20年も昔のことなのに、親方は酔うと何度でもマリーの父親の思い出を語った。彼のカッティングがいかに的確であったか、その縫製がいかに繊細だったかと。中でも彼が生み出すドレープの優美さは、見るものを釘付けにするほどだったのだと、親方は手放しで賞賛した。けっして恵まれた育ちではなかったのに、誰にでも親切で、優しくて・・・。男から見たって惚れ惚れするような美男子で、尊敬する親友だったのだと、大きく張った鼻を赤くして涙を流した。最後には決まっていつもこういって酔いつぶれるのだ。


「ジョゼフ・モンクールの仕立ての腕は一流だった。今の俺だってかなわないぐらいに。何だって、死んじまったんだろう。いい奴だったのに。」


 ロジェ親方の仕立ての腕は確かだった。だからこそ、一流店から引きもきらず仕事があった。何人かの弟子を抱え、面倒見も良かった。


「突然死んじまったジョゼフ・モンクールの仕事を、丸ごとロジェ親方が引き継いだのさ。それで、まだ職人として評価が定まっていなかった親方が、認められるようになったんだと。だから、なんとなく後ろめたいんじゃないかな?親友の不幸が自分の幸運になったわけだからさ。」


兄弟子は酔いつぶれる親方を見やりながら、皮肉めいた笑みを浮かべて言った。この兄弟子が大嫌いだった。理不尽な指図をし、後で親方にしかられるのを影で笑ってみているような奴だった。


 ある日、この意地悪な兄弟子は破門された。帳簿を改竄して、生地や糸を横流ししていたのだった。たまたま帳簿付けの手伝いをしたマリーがそれを見つけたのだ。優しいだけじゃなく、マリーは賢かった。その賢さを少しも鼻にかけていなかった。すらりとした体つきも、豊かな栗色の髪も、大きな栗色の瞳も、みんな、みんな、大好きだった。5つも年下の俺が、相手にされないことは分かっていた。でも、何年たっても、マリーは結婚しようとしない。マリーに熱を上げる男は掃いて捨てるほどいたと言うのに、マリーは風にそよぐ柳の枝のように、しなやかに男達の求愛をかわしていった。


「マリーには忘れられない人がいる・・・。」


誰が言い出したのかわからないけれど、そんな噂が立っていた。マリーはヴェルサイユの貴族の屋敷で育ったのだ。街の女には無い優美な仕草や品のいい物言いが、それが嘘ではないことを示していた。恵まれた屋敷勤めをやめて、パリに一人で出てくるなんて、屋敷で何かあったとしか考えられなかった。


 「マリー、俺は知ってるんだ。あんたは今でもお屋敷の貴族の若様が忘れられないんだろ?」


言ってはいけなかったんだ。もう、マリーは、弟としても俺を見てくれなくなるだろう。マリーが氷のように冷ややかに、残した言葉が男の頭の中に響いていた。




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