第10話
路地の角にアナトールが立っていた。マリーは一瞬困惑の表情を浮かべた。
「お待たせして、申し訳ありませんでした。参りましょう。」
マリーは俯いたまま、アナトールに声を掛け、二人は並んで歩き出した。太陽は西に傾き始め、二人の影を石畳に長くのばした。二人は黙ったまま、チュイルリー宮殿の北側に沿って真直ぐに伸びるリヴォリ通りを東に向かってゆっくりと歩いていった。
アナトールは黙って歩きながら、路地裏でのマリーと若い男とのやり取りを思い出していた。年下の男が一方的にマリーに熱を上げているように見えた。もう、何年も前からの知り合いだったのだろう。少年の淡い恋から大人の熱い恋へ、あの男の心は変わっていったのだ。マリーの暖かく優しげな風情に心を奪われたのは、何もあの若い男だけではなかっただろう。きっと、たくさんの男達が彼女に愛を求めたに違いない。
彼女がもうそろそろ婚期をはずれかけている年齢だということは、その落ち着いた物腰や、自分の意見を控えめながらもはっきりと主張するところから見て取れた。男の自分と違って、そんな年まで数多の男に求愛されながら拒み続けるのは尋常とは言いがたい。
「あんたは今でもお屋敷の貴族の若様が忘れられないんだろ?」
マリーは苦しい恋をしたのだろうか。今でもその恋を胸に抱えているのだろうか。
アナトールは、伴侶を選ぶ為に、時には恋を楽しむために、男と女の間で誰もが自然にやっているだろう駆け引きができなかった。父との二人暮し。職人で手先の器用な父親は、家事万端もそつなくこなし、男所帯であっても特に不自由を感じたこともなかった。周りの勧めも聞かず、ひたすら母を思い、一人身を貫き通した父の血が、自分の中に流れていることを、15の時には自覚していた。きっと、自分が恋をしたら、それは生涯をかけての恋になる。その恋が実ろうと、実るまいと駆け引きなどできようはずがない。だからこそ、この年になるまでまるで修道士のようだと揶揄されるほど、女性との付き合いを避けてきてしまった。
アナトールは、自分の僅かに後ろを歩くマリーを思った。彼女もまた自分と同じ不器用な人間なのだろうか。彼女の瞳が自分の瞳を真直ぐに見つめた時、彼女こそは『運命の女』だと思った。
西日に背中を向けながら歩く二人の影が、石畳の上で揺れていた。時には重なり、時には離れ、二人の歩みに合わせて、二つの影はすべるように移動していく。アナトールは黙ってその影を見つめながら歩いた。何か言わなければ、道は永遠に続いている訳ではないのだ。
「お腹が空きませんか?」
アナトールの唐突な問いかけに、マリーは立ち止まった。
「遅くなってしまったし、良かったら、一緒に食事をしませんか?もう少し、服の事を教えていただきたいのです。」
黒い瞳が恥ずかしそうに、そして、拒絶を恐れながらマリーの答えを待っていた。
「私のような者でよろしければ、喜んでご一緒させていただきますわ。」
マリーは、自分の口をついて出た言葉に内心戸惑った。今まで、男達からの個人的な食事の誘いを、何度となく断り続けてきた。ヴェルサイユの屋敷を出て、パリにやってきてもう七年になる。出てきたばかりの頃は、初心な小娘に興味を持つ男達から、しつこい程の誘いを受けた。男からの誘いが、単なる食事だけでは終わらないのだということが、分からないほど子供ではなかった。幼いときから大人に混じって立ち働いてきたのだ。母の厳しい躾は、年齢以上にマリーを大人にしてしまっていた。
デスタン伯爵家は、貴族の中では風変わりと言ってよいほど、堅い倫理観を持っていた。それでも、出入りする貴族達までが、屋敷の主人にあわせてお行儀よくしてくれるわけではない。若く純情な使用人に、悪ふざけを仕掛ける嫌らしい輩も少なくなかった。身分という圧倒的な力の差を傘に着るに客から、主家の名誉を傷つけぬ配慮をしながら、自分の身を守る術を教わるでもなく身に着けていった。一時の戯れに惑い、身を持ち崩していった田舎出の哀れな侍女もいた。婀娜な街の女に入れあげて、荒んでいく下男もいた。厳格な主人はそういった者に対して、決して寛大ではなかった。その結果、屋敷には真面目で誠実で、そして何より自分の身を的確に守れる賢さを持った使用人だけが残っていく。それでも、男と女の間にある理性を超えた不可解な感情に、突然翻弄されてしまうのが人間というなのだ。生々しい大人の姿を、幼い頃から見すぎてしまった所為だろうか、それとも、あの金色の髪と蒼い瞳が見せる美しい夢に惑い、御し難い感情に弄されて、逃れるように屋敷を出て来た所為なのか。男性と親密になることを、自分は心の奥底で極端に恐れているのだという事を、マリーはパリでの生活で知った。
「マリーさん、お誘いして置きながら、こんなことを言うのは恥ずかしい限りなのですが、手ごろな店をご存知ないですか?」
背の高い自分がさらに見上げるほどの長身の青年が、いかにもすまなそうに肩をすぼめて羞恥の表情を浮かべていた。ほんの二度ほど会っただけなのに、自分を見つめる黒い瞳を、とても好ましく感じる自分が、マリーは不思議だった。
「私の知り合いの店がこの近くにありますわ。そこでよろしいですか?」
「ええ、もちろんです。」
嬉しそうに破顔した青年に、マリーは微塵の下心も見ることはできなかった。むしろ、ずっと離れていた肉親に久しぶりに会ったような、そんな懐かしく暖かい心持を感じた。