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第1話

物心がついたときには、すでに父と二人暮しだった。隣に住むカミーユ婆ちゃんが母代わりだった。父、ダニエル・グランデは鉄工所の職人で、がっしりとした体の無口な男だった。周囲は幼い自分の為にと何度も再婚を勧めたらしいが、頑として一人身を通し続けた。


「稼ぎも悪くないし、まだ若い。嫁に来たがる女はいくらだっているだろうに、お前の父さんも頑固でなあ。お前だって、母さんが欲しいだろう・・・。」


カミーユ婆ちゃんは遅くまで仕事から戻らない父を待ちながら、何度も繰り返していた。母がいない暮らしが当たり前だった。だから、母が欲しいかと言われても、よくわからなかった。父はアナトールを特別に可愛がるでもなく、邪険にするでもなく、毎日、毎日、淡々と家事をし、仕事に出かけ、そして家に帰ってきて彼の世話をし、一つベッドで眠った。時折、隣に寝ているはずの父の姿が無く、ベッドを這い出て居間をのぞいて、一人で酒を飲んでいる父の後ろ姿を見つけることがあった。そんな時は決まって父は大きな背中を丸め、無骨な手で青いガラス玉が連ねられたロザリオをまさぐりながら、小さな低い声で、何かを唱えているようだった。声を掛けてはいけないような気がした。黙ってまたベッドに這い登り、丸まってぎゅっと目をつぶった。青いガラス玉のロザリオが、母の唯一の形見であることを、アナトールはいつの頃からか知っていた。


父は腕の立つ職人だった。持ち込まれた図面をもとに、鉄の塊から見事に求められる形を削り出すことができた。ダニエル・グランデは無愛想で世辞の一つもいうことは無いが、誠実で正確な仕事ぶりが職場仲間や工場主に信頼されていた。アナトールが9つになったころから、時折家に小柄な男が訪ねてくるようになった。

 新しくできた織物工場の技師、オーギュスト・レザンだった。ほとんど人付き合いをしない父が、なぜか彼にだけは心を許したようだった。灰色のごわごわした髪と、薄い緑の目をした陽気な男で、彼が訪れると、無口な父が饒舌になり、二人でワインを飲みながら夜遅くまで機械について話をする。アナトールは部屋の隅の小さな椅子に腰掛け、いつまでも続く二人の話を聞くのが好きだった。いつしか、機械への憧れがアナトールの心に大きく育っていった。


「アナトール、学校へ行って見たくはないか?もし、君が勉強をしたいのなら、私からお父さんに話してあげよう。君ももうすぐ10歳だ。そろそろ将来のことを考えたほうがいい。」


突然のことで、アナトールは困惑した。


「オーギュストさん、そりゃ、僕だって学校に行ってみたい。僕はオーギュストさんみたいな機械技師になりたいんだ。でも、父さんは、僕に父さんみたいな職人になればいいと言っているし、それに、学校に行くにはお金もかかるのでしょう?」


「うん、確かに君の父さんは素晴らしい職人さ。でも、君の将来は、君のものだろう。君が本当に勉強したいなら、きっとお父さんは許してくれるよ。」


オーギュスト・レザンの強力な勧めと、これといって自己主張をしたことの無いアナトールの必死の懇願に、ダニエル・グランデは根負けし、多少余裕の有る平民相手に開かれている学校に通うことを許した。学校でアナトールは新しい世界を知った。文字を学び、地理や歴史、数学や科学を学び、先人達が営々と積み重ねてきた、好奇心と探究心が開く広い世界に足を踏み入れた。はじめこそしぶしぶ許した風のダニエルだったが、貪欲に学び、日に日に積極的に、活発になっていく息子をやがて誰よりも応援するようになって行った。


「アナトールはたいしたもんだ、学校でも一番優秀なんだぞ。俺の息子はたいしたものだろう。なあ、オーギュスト!いまに大学にだって行くかもしれないぞ。」


酔ってそんなことを口にするようにまでなった。いくら腕の良い職人でも、その稼ぎでは大学になど、到底いけるわけが無いことはわかっていた。それでも父が自分を誇りに思ってくれていることが、アナトールは嬉しかった。


もうすぐ15歳になる冬の寒い晩だった。いつもなら、とっくに帰ってくるはずの時間になっても、父は帰ってこなかった。心配になって、アナトールは仕事場に迎えに行った。そして、いつもの作業服のまま工具を握り締め、事切れている父を見つけた。葬儀の日、朝からちらちらと雪が舞っていた。それなのに、大勢の人が野辺送りの列に並んでくれた。無口で、無骨な父だった。愛想も無く、毎日ひたすら鉄の塊を削り、一人身を通し、自分を育ててくれた。アナトールは父の棺に母のロザリオと最期まで握り締めていた工具を納めた。そうしなければいけないと思った。


「アナトール、私と一緒に工場で働かないか。オーナーのリュミエール氏も良いと言ってくれている。学校は続けられないが、私が仕事を教えるから・・・。」


オーギュスト・レザンは、自分よりすでに頭一つも大きくなったアナトールを抱きしめながら、男泣きに泣いた。


「アナトール、お前の父さんは、ダニエル・グランデは本当に最高の男だったよ。」


父より他に身寄りはなかった。アナトールは小さな家を処分し、工場の事務所の片隅に寝泊りしながら、見習い技師として働くようになった。オーギュスト・レザンはアナトールに機械のことを丁寧に教え込んでいった。若いアナトールは覚えも早く、やがて工場の中でも頼りにされる技師に育っていった。



レイモン・ターブルは不思議でたまらなかった。アナトール・グランデとはもう5年の付き合いになる。年も近いし、気のいい奴で、今では親友と言ってもいい仲だ。背が高くすっきりとした体つきだし、柔らかい黒い巻き毛と大きな黒い瞳をしていて、いつも優しげな微笑を口元に浮かべている。きれいに髭を剃り、清潔な身なりをしているし、誰にでも親切で、働き者だった。たいていの女は彼に夢中になる。ところが、肝心のアナトールはもう27歳にもなるというのに、いい寄る女たちをのらりくらりとかわし続けている。


 技師仲間の中でも勉強家で通っている彼は、給料の大半を本代につぎ込み、機械いじりこそ人生最高の楽しみとばかりに、いつも工場の機械の調整や改良に没頭している。レイモン・ターブルは久しぶりにアナトールを行きつけの居酒屋に誘った。今日こそは本心を聞き出してやるつもりだった。アナトールは普段あまり酒を飲むことは無い。自分の奢りだと無理に引っ張ってきた。店自慢の川鱒のクネルを肴に、数杯のワインを飲み干させる。工場の仕事の話から、仲間の他愛も無い恋の噂話に話題を振っていく。アナトールは、慣れない酒に酔い、ほんのり目元を赤く染め、楽しそうにレイモンの話に相槌を打っている。男の目から見ても穏やかで、優しげで、それでいながら力強い意志を感じさせる黒い瞳は、女心をそそるに充分なことはレイモンにもよく納得できた。


「アナトール、お前のことを狙っている女はたくさんいるんだぞ。いい加減、結婚を考えたらどうなんだ?それとも、俺に隠れて付き合っている娘がいるのか?」


ワインを勧めながらレイモンは思わせぶりに聞いた。


「レイモン、俺は女の子が苦手なんだよ。何を話していいかわからないし、気詰まりなんだ。俺は子供のころから親父と二人暮しだったろ、生活のことは自分で何でもできる。それに、まだまだ勉強したいことがたくさんあって、金も無いし、暇もないんだ。そんな男じゃ、つまらなくて、ついてくる女なんていないさ。」


アナトールは、自嘲するように答えた。


「まったく、しょうがないなあ。女はお前が思っているよりずっとしたたかで強い生き物なんだぞ。お前がその気になれば、丸抱えで可愛がってくれるぞ。」


「よせよ。レイモン。正直なところ、俺は怖いんだ。恋をするって事が。親父は俺のお袋が死んだ後、ずっと一人身を通していた。無骨な親父だったが、夜中にお袋の形見のロザリオを握り締めて寂しそうに酒を飲んでたよ。その背中が忘れられないんだ。」


「お前は相変わらずねんねちゃんなんだな。恋をする前から、恋を失うことが怖いのか?」


 大きな体をして10代の少年のような青臭い戸惑いを口にする同僚に、レイモンは呆れたように言った。


「なんとでも言えよ。それに、どこかにいるような気がするんだ。こんな俺でも恋することができる女が。」


「なんともロマンチストだな。お前はその『運命の女』が現れるまで、ずっと待つつもりなのかい?」


「そうさ。俺はどこかで出会うんだ。俺の運命の女に。そして、永遠の恋に落ちるのさ。最高じゃないか!」


ワインに酔ったのか、アナトールの黒い瞳が怪しげに濡れて光っていた。優しげな風情の裏に隠されたこの男の一面を、レイモンは初めて見たような気がした。


「呆れたね、まあいいさ。お前がよければな。お前の運命の女に一日も早く出会えるように乾杯しよう!」


レイモンとアントールはグラスをカチリとあわせ、一気に飲み干した。


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