転生者は第三者
《第一節》
「オセアンヌ、お前との婚約は今日限り破棄させてもらう!」
そう力強く宣言したレオン王太子と、宣言されたオセアンヌ侯爵令嬢。
貴族の子弟を集めて教育を行う王立学校の卒業記念パーティーは、そんな場面から始まった。
水を打ったように静まり返る会場と、その数秒後に広がる喧騒。
つい先程までは学園生活の思い出やら卒業後のことを語り合っていた者達が、一斉に王太子とその婚約者であった侯爵令嬢についてヒソヒソと話し始めたのだ。
一人ひとりの声は抑えられたものであったが、それがいくつも重なればざわめきとなる。
しかし次の瞬間。
「お前がソフィにしてきたことを私が知らぬとでも思っていたのか?」
低く、決して大きくは無い王太子の声。そんな王太子の一言が一石となり、会場は再び静まり返った。
王太子と侯爵令嬢。そして王太子の後ろに庇われるようにして立つソフィ男爵令嬢。
この三人を主役とした劇はまさに今、幕が開いたのだ。
さっきの王太子の一言は開幕を告げるブザーである。
ああ、そうそう。
私はもちろん王太子の後ろに庇われている男爵令嬢ではない。
ちなみに王太子に婚約破棄を突きつけられた侯爵令嬢――でもない。
その他大勢の側。
王太子の宣言に驚き半分。そしてこれから起こるであろう出来事に興味津々で振り返った多数の令嬢・令息の中の一人。
私に与えられた役は、伯爵令嬢Kくらいだろうか?
それはもうモブofモブ。
男爵令嬢の友達でもなければ、侯爵令嬢の取り巻きでもない。
たまたま応募したら当たったエキストラみたいなもので、大好きな俳優・女優のお芝居を間近で見られることに喜ぶファンのようなもの。
ああ一応言っておくと、別に王太子のファンというわけではない。
確かに金髪に青い目。程よく鍛え上げられた長躯に整った顔立ち。
さながら映画にでも出てくる貴公子といった様子の王太子は確かにかっこいいとは思うが、正直それだけだ。
それともちろんだが、侯爵令嬢のファンでも男爵令嬢のファンでもない。
私はいたってノーマル。
やや釣り上がった瞳がキツい印象を与えるものの、それすらも美しさへと落とし込む、彫刻ぜんとした侯爵令嬢。対して、卵型の顔立ちに可愛らしくクリクリとした瞳が愛らしさを宿す男爵令嬢。
それぞれに美人だとは思うが、二人とも恋愛対象にはならない。
ならば何のファンなのかって?
それはもちろん、こちらの世界に転生してくる前。現代日本にあって、寝食を忘れて読み耽った乙女小説の数々。そしてその中で何度も何度も読んだ、婚約破棄シーンが今まさに私の目の前で始まろうとしているのだ。何を隠そう、前世の私は乙女小説の大大大ファンだったのだ!
これに興奮せずして何が乙女小説フリークか!!!
連日仕事に追われ、朝早くから深夜まで働き詰めの毎日に唯一潤いを与えてくれた乙女小説。
そんな私が転生した。そして前世の死因はたぶん過労死。二十代も終わりに差し掛かり、アラサーの称号を獲得した頃のことである。
ちなみにたぶんと付けたのは、正確には死因はわからないからだ。死んでしまったから、その後過労死認定が降りたかどうかすらもわからない。
しかしそんなことは些細なことだ。
それなり以上の大学を卒業し、それなり以上の大企業に就職し、それなり以上の収入はあったが、あんなブラック極まる生活には飽き飽きしていたし、何より大好きな乙女小説っぽい世界に転生できたのだから、転生したとわかった瞬間は何百億の宝くじに当選するよりも嬉しかったので、今でも昨日のことのように覚えている。
しかし。しかしである!
乙女小説っぽい世界に転生できたのはいいけど、私……誰?
イリス伯爵令嬢。
それが私の転生後の名前であるのだが……。
知らない……。
読んだこともなければ、見たことも聞いたこともない名前。そして見たこともない顔。
人並み以上に乙女小説を読み、人並み以上に乙女ゲームをやってきた私が知らない……。
いやいやいや。世の中ヒロイン転生や悪役令嬢転生が主流とはいえ、それだけが乙女小説のすべてではない。
脇役転生の可能性を思い出した私は、王立学校に入学し、攻略対象っぽいレオン王太子や、ヒロインっぽいソフィ男爵令嬢、そして悪役令嬢っぽいオセアンヌ侯爵令嬢を見つけるものの、ものの見事に誰一人として知らなかった……。
ば、ばかな……。もしやここは乙女ゲームの世界ではない……?
そうやって打ちひしがれながらも、何だかんだ真面目に勉強しながら過ごした王立学校の卒業記念パーティー。
その会場で――半ば諦め、半ば絶望していた私の目の前で突如始まった。
――まさに待ちに待った婚約破棄イベント発生!
これだ! これが見たかったんだ私は!
ここは発想のコペルニクス的転回。むしろ知らない世界だからこそ楽しめることもあるのだ!
はたしてこれは乙女ゲーム系の世界なのか。それとも悪役令嬢ものの世界なのか。
純粋無垢なヒロインvs意地の悪い侯爵令嬢。
純粋無垢を装ったヒロインもどきvs意地悪に見えるけど実はいい人・侯爵令嬢。
いったいどっちだ!?
どっちなんだ!?
後楽園ホールだろうが東京ドームだろうが秒で完売するレベルの世紀の対決を前に、私の気分は否が応にも盛り上がる……はずなのだが、今世の私は伯爵令嬢。
令嬢としてそれなりの立場にいるため、純粋に楽しんでばかりもいられない。
これが乙女小説であれば続きを読み進めればいいだけなのだが、残念ながら今の私にとってはこれが現実。
乙女小説の世界では伯爵令嬢Kという、脇役以下のエキストラポジションだが、貴族世界ではそうはいかない。
確かに主役は王太子・男爵令嬢・侯爵令嬢の三人であるが、私はこの三人がどうなるかを見極め、誰についた方が、正確に言えば今後誰とどのように交流していくのかを考えていかなければ、エキストラとて自らの立場が危うい。
乙女小説さえ読んでいられればあとは幸せという私でも、流石に二回も若くして死ぬという最悪の事態は回避したいし、没落からの流浪エンドはできれば回避したい。
というのも。
「わ、わたくしはソフィ様に何もいたしてはおりませんわ。殿下は何か誤解を」
と、侯爵令嬢が言いかけたのを遮るように、
「おやおや、ここにいろいろと書かれている紙があるのですがね」
と言って、どっかの預言者よろしく人ごみをかき分ける……というか人ごみが勝手に割れてその中から登場した宰相令息――の父親である宰相が絶賛進める国政改革があるからだ。
ちなみにその改革は、貴族の権利・権限を弱め、王による中央集権的国家を目指す目的のもとに行われている。
となると、一見この乙女小説的婚約破棄シーン、そして続く断罪シーンも違った色合いを帯びてくるというわけだ。
宰相令息が読み上げる王太子の婚約者である侯爵令嬢が嫉妬のあまり男爵令嬢に対して行った悪事の数々。そしてその証拠・証人。関わった侯爵令嬢の取り巻き達。
あれほど乙女小説を読んでいるときにはドキドキした断罪シーンが目の前で繰り広げられているというのに、それらは全て私の心を上滑りしていく。
それよりも王太子が言った、
「お前との婚約破棄の件はすでに父上の許可は得てある!」
という一言。この一言の方がよっぽど今は私の心をとらえた。
もちろん乙女小説的な意味ではない。はっきりと貴族令嬢的な意味で、だ。
というのも、王太子と侯爵令嬢の婚約は多分に政略的な色合いを帯びていた。
力のある侯爵家を王家の側に取り込む。
これを目的として結ばれたことは貴族社会における常識で、だからこそ誰もこの婚約に掣肘を加えることができなかったのだ。
もしそれをすれば、王家と侯爵家。二大実力者とも言える両者を敵に回すことになりかねない。
そんな愚かなことをまともな貴族ならばしないし、また、娘・息子にさせるはずも、することを許すはずもない。
確かに王太子は令嬢達からの人気があったが、それはあくまでアイドルのファンみたいなもの。本気で侯爵令嬢から婚約者の座を奪うような輩がいなかったのはそういうわけだ。もちろん侯爵令嬢を本気で落とそうとする令息がいなかったのも同じである。
しかし唯一の例外があった。
それがソフィ男爵令嬢である。
噂、というかほぼ確実な世間に流れる話によれば、ソフィ男爵令嬢は男爵の後妻の連れ子であるという。しかも男爵とは血のつながった。
簡単に言えば、ソフィ男爵令嬢は、男爵が平民の妾に産ませた子供であり、男爵の正妻が亡くなるまでは私生児として、つまり身分を持たない平民として育った。その後男爵の正妻が病気で亡くなったタイミングで、母親共々男爵の正妻、そして娘として男爵家に入る。
まぁはっきり言って、貴族社会では受け入れがたい出来事だった。
というのも、男爵には正妻の他に側室がいた。
しかも全て政略結婚。
ところで、政略結婚と聞くと、現代日本に生きる私からすれば、ややもすると自由も愛もない押し付けられた結婚に思えるが、こちらの世界に来て、自らのこっちの両親を見てそれは間違いだったと私は知った。
実は政略結婚とは、幸せが確約された結婚でもあったのだ。
まぁ幸せが何かという哲学的な話はさておき、少なくとも政略結婚であればかなりの確率で妻は入った家でかなり大切に扱われる。
考えてみれば当たり前なのだが、家と家との契約がベースになった結婚であり、互いに利益があるからこその結びつきなのだ。それなのに相手を怒らせるようなことをすればどうなるか。
そんなことをすれば、せっかくの契約が台無しである。
もちろん、嫁に入った家の全員が全員大切にしてくれるとは限らないが、全員が全員敵ということもあり得ない。
少なくともこの結婚によって利益を得る人々は大切にしてくれるし、家と家とのパワーバランスが極端に傾かない限りはずっと味方をしてくれる。
そう言った意味では、本人同士の同意が最重要視される恋愛結婚よりも、政略結婚の方が結婚後にうまくいく可能性が高い。
とまぁそんな感じの政略結婚なのだが、件の男爵家はその契約をないがしろにするような後妻の迎え方をしたわけだ。
現代日本風に例えるなら、男爵家という老舗商店が、昔から付き合いのある側室という大切な顧客の対応をおざなりに、新しくやってきた貧乏そうな客の方を丁重に扱った感じか。
そうなれば昔からの顧客が怒らないわけがない。
というわけで、男爵家は意味不明な行動をとる危険な香り満載の近寄りがたい家として貴族社会では絶賛孤立中なわけであるが、王太子の言う「父上」、すなわち国王の許可を得ての婚約破棄。
つまり王家は力のある侯爵家との手を振りほどき、貴族社会で孤立し力もない男爵家と手を取るということだろうか?
――革命。いや、上意討ちに近いか。
これは国王は本気で宰相の行う中央集権化を推し進めるつもりだ。
侯爵家と王家が結べば確かに力を示せる、同時にただでさえ大きい侯爵家をさらに大きくすることを意味する。
オセアンヌ侯爵令嬢には兄がおり、もし王太子が侯爵令嬢と結婚すれば、この義兄に配慮した政治を行わざるを得ない。
それは侯爵家に利益をもたらし、侯爵家は益々大きくなる。
今はまだ王家の力が大きいが、将来はわからない。
ならば中央集権化を進める障壁となりかねない侯爵家の力を早めに、というわけか。
それに、王太子と侯爵令嬢が婚約を結んだのは今から十年前。
当時はまだ即位したばかりで安定しなかった国王の治世も、今や安定している。
侯爵家を後ろ盾としなくてもやっていけると国王と宰相は判断したのだろう。
――さて、どちらにつこうかしら。
私は頭を悩ませる。
婚約を破棄したのだから、間違いなく王家と侯爵家は対立する。それが血を伴ったものになるかどうかはわからないが、国王が婚約破棄という侯爵家の面目を潰す程の決断をしたのだ。面目を潰された侯爵家もそうだが、王家も本気だ。
この状況で中立はかえって危険だ。
伊達に前世で三十歳を前に課長の椅子に女だてらに座っていたわけではない。
大企業で社内政治を渡ってきた私の感が告げている。
王家に付けば間違いなく貴族の権利は阻害される。それは爵位に関わらず等しく削られるだろうし、そうなることがわかっている以上、多くの貴族は侯爵家の側につくだろう。
そうなると侯爵家の力がわずかに王家を上回る。
力が侯爵家に傾けば、王家は様々な譲歩を迫られることになるだろう。
もしそうなれば、いろいろやりたいことがあったのになぁ……。
侯爵家に頼んでやりたいことを王家にねじ込めれば……。
でも私には侯爵家に伝手が……。
こうなるとわかっていれば、伝手をつくっていたのに……。
国王の性格からしても、中央集権化を進めるにしてももっとソフトランディングを目指すと思っていた私の読みが甘かったか……。
侯爵家と全く繋がりがないわけでもないが、要求を飲ませるにはあまりに頼りない。
――あーあ、まさか孤立した男爵家の令嬢と王太子を結婚させることで一気に旗色を鮮明にしてくるとは……。
そんなふうに私の心が侯爵家支持に少し傾くなか、さらに意味不明な王太子の一言が聞こえてきた。
「この場で新たな婚約者を指名することになった!」
王太子のその声に場が再びざわめく。
「私ことレオンは、イリス伯爵令嬢と婚約することになった! すでに父上と宰相の許可もある」
「は?」
いやいやいや。悩みすぎてとうとう私の耳もおかしくなったらしい。
あり得ない名前が聞こえてきた。
イリス伯爵令嬢?
いやいやいや、ここで聞くような名前ではない。
なにせイリス伯爵令嬢とはすなわち私のことだ。
ここで王太子が宣言すべきはソフィ男爵令嬢の名前であって、断じて私の名前ではない。
うん、それ以外に考えられない。
ほら、後ろのソフィ男爵令嬢も呆然としているじゃない。
だって悪役令嬢断罪イベントのあとだよ?
ここでエキストラでしかもモブofモブである伯爵令嬢Kが突然スポットライトを浴びるのは意味不明も甚だしいし、物語としてもそれは急転直下。ラストで名前も登場していない背景とほぼ同義の令嬢が実はヒロインでした、なんてストーリーが許されるはずがない。
ああ、間違ったのか。もう、王太子ったらお茶目さん。
そんな一縷ののぞみとともに、王太子の意味不明な宣言と同時に宰相令息が広げて見せた羊皮紙を見ると、確かに国王と宰相のサインが記されている。
うん、まぁそれはいい。
それはいいけど、どうしてその羊皮紙に私の名前があるのかな?
間違いかな?
誤字かー。
公文書で誤字かー。
大変だなー。
今すぐなおさなきゃ!
私がそうやって混乱のなか現実逃避をしていると、王太子が私に近寄ってきた。
「一目惚れだ。許せ。そなたには悪いと思ったが、すでにそなたの父上である伯爵の許可はとってある」
王太子はそう言って片膝をつき、私の手をとってきた。
「私との婚約を認めてくれるか?」
あ、これ、逃げられない奴だ。
某SNSで見たことがある。とあるテーマパークでの公開プロポーズと同じで逃げられないやつ。
しかし唯一違うのは、このテーマパークには閉園時間もなければ、タクシー乗り場もない。
だから、タクシー乗り場で「あんなことされたら断われないじゃん! ホント何考えてんの! そういうことする人ホント無理!」と言って婚約指輪(私はまだ貰ってないけど)を投げつけることはできない。
まして相手は王族で次期国王でもある王太子。
だから……。
「……喜んで」
私に残された選択肢はこれだけだ……。
――どうしてこうなった……。
これが乙女小説ならば、タイトルはこうだ。『モブに転生したと思ったらヒロイン転生だった件について』
あと、前世の私がもしこんな乙女小説を読んだら、時間を無駄にしたとばかりに、怒りに任せスマホを布団に投げつけたであろうことはいい添えておきたい。
《第二節》(王太子視点)
「令嬢を決めたぞ」
私がそう言うと、宰相の息子であるノエは露骨に不信感をあらわにした。
「安心しろ、近頃つきまとってくる男爵令嬢じゃない」
今度は怪訝な表情だ。
安心しろ、ノエ。私もそこまで愚かではない。
あの男爵令嬢は劇薬すぎる。
平民育ちだからと下に見るつもりはないが、彼女は王太子妃、ひいては未来の王妃には向かない。
天真爛漫さと純真さは確かに人の心をとらえるかもしれないが、それだけでは王妃にはなれない。
それに現在、父王と宰相の進める中央集権化を大きく後退させる可能性すらあるのだ。
確かに貴族社会で孤立している男爵家との婚約を行えば王家の立場を明らかにし味方を選別できるかもしれないが、そんなことをすれば、おそらく、というかほぼ確実にほとんどの貴族を敵に回すことになるだろう。
そんなことになれば、いくら王家とはいえ耐えられるかどうか。
耐えられなければ、貴族に対して大幅な譲歩を迫られ、かえって中央集権化は遠のく。
はっきり言って男爵令嬢との婚約はデメリットの方が大きい。
だから私はそれをわかっていることをノエに伝える。
その上で私が婚約を結びたいのは。
「伯爵令嬢だ」
「伯爵令嬢とはどの伯爵令嬢で?」
ノエは静かにそう言った。
確かに伯爵家はそれなりの数がある。
しかし決して多いというわけでもない。
おそらくノエの頭の中ではすでに候補者が数人に絞られているのだろう。
その上で私が誰の名を口にするのかを問うているわけだ。
だから私はノエの選択肢を絞るために言う。
「イリス伯爵令嬢だ」
私がそう言うと、ノエはじっと私の目を見てきた。
そして、
「ご英断かと」
と言って一礼する。
「まぁなんだ。一目惚れというやつだな」
「殿下はイリス伯爵令嬢と面識がおありで?」
「いや、何度かパーティーで挨拶を交わした程度だ」
私がそう言うとノエは「ん?」という顔をした。
だから私は少しだけ説明を加えることにした。
「私が一目惚れをしたのは伯爵家の税収表だ」
「……ああ、なるほど!」
ノエもなんのことかわかったらしい。
イリス伯爵令嬢が十歳になったころ、伯爵家の税収が突如上向き出したのだ。
確かに伯爵家の現当主は無能ではないが、有能とも言い難い。ただしかなりの人格者ではあるので、王家にとっても頼れる貴族の一人であった。
その伯爵家の税収が突如上向き出したのは、中央集権化を進めるにあたり単純に手放しで喜ぶことはできないが、別に悪いばかりの話でもない。
だからこそ最初は父王も宰相も少しだけ嬉しいニュースとしてとらえていたのだが、はっきり言ってその後が異常だった。
気がついたら伯爵家の税収は右肩上がりで伸び続け、気がついたら以前の二倍にこそ届かないまでも、それに近い数字になっていた。
ここにきて父王も宰相も慌てる。
いったい伯爵家で何が起こっているのかと早急に調査を進めると、イリス伯爵令嬢の存在が浮かび上がってきた。
はじめのうちこそたかだか十歳かそこらの少女が、と信じられぬ思いであったらしいが、調べれば調べるほどイリス伯爵令嬢の存在が浮かび上がってくる。
ことここに至っては、父王と宰相も信じざるを得なかった。
しかもイリス伯爵令嬢の特異性は、侯爵家にも王家にも配慮した派閥づくりにもあった。
両家に利益を与えながら、巧みに中立派の貴族を取り込み自派閥を大きくしていく様は、実に見事であった。
多少目障りなところもあるが、それ以上に利益を寄越すので潰してしまうには惜しい。
潰すよりは現状のまま利用したい。
それが今の伯爵家に対する王国の二大勢力とも言える王家と侯爵家の見解であった。
「ノエ。伯爵家を――いや、イリス伯爵令嬢を取り込むぞ」
「正しいご判断かと」
男爵令嬢には申し訳ない気もするが、伯爵令嬢との婚約のカバーとなってもらうことにしよう。
伯爵令嬢は口説き落とせなくとも、伯爵ならば口説き落とせる。
ここは父王と宰相にも相談しなければならないが、おそらく二人共反対はしまい。
なにせ伯爵家には現在のところ嫡男がいないのだ。
まして現当主である伯爵もその夫人も高齢だ。夫人はともかく、伯爵本人が高齢なのは大きい。
伯爵としては娘の婿に家督をと思っているようだが、高齢になって初めて生まれた娘だからか、あまりの溺愛ぶりに婿探しも進んでいないという話である。
男が二人以上生まれれば二人目以降に伯爵から侯爵に格上げした上で家を相続させる。そのラインで話を持っていけば、まず間違いなく、すぐにでもまとまるだろう。
「伯爵令嬢の力は王国の為に奮ってもらいたい。ノエもそう思わないか?」
「まさに」
伯爵家ならば家格としても大きな問題はない。
伯爵家さえ取り込めれば、伯爵家と取り引きのある貴族達も王家につく。さすれば侯爵家に遅れを取るようなことにはなるまい。
それからというもの、話はとんとん拍子で進み現在。
私の目には純白のドレスを着たイリス伯爵令嬢が映っている。
「卒業パーティーでも言ったが、私の一目惚れだ」
「それは伯爵家の税収表にでございましょう?」
ベールの下に見えるイリス伯爵令嬢の可愛らしい唇が尖ったのが見えた。
私は卒業パーティーのあと、イリス伯爵令嬢に全てを打ち明けることにした。
王太子妃になれば、政治的判断が求められる場面が多々出てくる。
そうなったときに、意思疎通ができているかいないかでは大きく違ってくるからだ。
「イリス、世間では私達の結婚は世紀の大恋愛と言われているらしい」
私がそう言うと、イリス伯爵令嬢は嫌そうな顔をしながら、
「恋愛は恋愛でも、王太子は仕事との恋愛じゃない……」
と、小さな呟きを漏らしたのを私は聞きもらさなかった。
確かに私は王太子としての仕事を大切にしているし、それなりに仕事中毒だという自覚もある。それこそ自らの結婚すらも仕事を効率的に進める手段の一つとして利用しようと思うほどには――。
だが、ここははっきりさせておきたいが、さすがの私もイリス伯爵令嬢ほどではない。婚約して驚いたのは、伯爵令嬢が一日の半分以上の時間も仕事をしていることだ。
「は? 八時間? たった? こっちは一日十五時間勤務上等の元ブラック社員よ!」
と言いながら、優秀な文官五人分の働きをしていたことだ。
“ブラック社員”というのが何かはわからなかったが、伯爵令嬢がそうは言いながらも嬉しそうに仕事をしていたのを私は見逃さなかった。
「まぁ……なんだ……仕事との結婚はお互い様では……?」
私がそう言うと、伯爵令嬢はまたよくわからないことをブツブツとつぶやき始めた。
「うっ……ブラック社員がブラック企業を再生産するって言うけど、この場合私がブラック社員なんじゃ……。いやいやいや、単に身体が慣れただけで別に私は仕事が好きなわけでは……。乙女小説もないから仕方なく他にすることもないから……」
「イリス伯爵令嬢」
私はそう言ってイリス伯爵令嬢の目をじっと見つめる。
確かに私達の結婚は、父と宰相の進める中央集権的国家づくりを進めるための、多分に政治的意図が絡む政略結婚に近いのかも知れない。
それに、イリス伯爵令嬢が言うように、恋愛的な意図が絡むとすれば、それは仕事を間に挟んだものなのかもしれない。
だが、それらは全てきっかけに過ぎない。
婚約して――婚約者として接するうちに、私はこの働き者で時々奇妙な令嬢のことが好きになっていったのだ。
「イリス伯爵令嬢。婚約は確かに政略的な婚約だったかもしれないが、結婚は恋愛結婚だと願いたいと思っている」
私がそう言うと、イリス伯爵令嬢の目が開かれる。
もちろん仕事との恋愛では――たぶんない。
それはイリス伯爵令嬢にもわかったのであろう。
わずかに頬を染めたイリス伯爵令嬢は、
「ずるい……乙女小説の顔でそんなこと言われたら……」
そう言って顔を伏せようとした。
だから私はそうさせまいと、珍しく頬を染めたイリス伯爵令嬢の顔を少しでも長く見ていようと、イリス伯爵令嬢の顔に手を当てながら――。
誓いの口づけを行った。
儀礼の進行を無視する口づけに、司祭は感心しないといった表情をしたが、そんなことは関係ない。
なぜならこれは恋愛結婚。
二人の愛ゆえの結婚式なのだから。