老婆と嘆きの壺と牢の中のセリヌンティウス
もしも、ご不安になられたのなら、壺の蓋をあけなされ、さすればセリヌンティウス様のお助けになりましょうぞ。
シラクスの都、石工のセリヌンティウスは、友の身代わりとなり牢へとつながれていた。そして彼は静かな戦いに挑んでいた。
それは己の心。友は…戻って来る、純朴な彼を信じる心、それに相対する不安に思う気持ち……その狭間で揺れ動いていた。
明かりとりのために天井近くに、小さく空けられているそこから、月の光が射し込む。
一筋に怪しくそれは彼を照らす。日の光とは違い、温度が感じられない光には、人の心の闇を暴くものが宿っている。
妹の婚礼、それが終わると此方に向かう、彼なら一心不乱に駆ける。昼夜を問わず、休まずに……そう、きっとそうだ、
彼はそう思う。そう思いたいと、思わなければならないと……信じる、いや、信じようとしている。
白の中に青を感じる月の光に、ふと自身の手をかざす。牢の中に取り巻く負の気が、彼に集まって来ているのか、目にする皮膚の色は死人の様に感じる。
それとも……もぅ、友は間合わない、と月の光が知らせを送って来てるのか、カローンに出会う時が近づいていると、アルテミス様は教えて下さっているのか……なのでこのように希薄な色に見えるのかも知れぬ……彼はとてつもない不安に押し潰されそうになっていた。
それに呼応呼応するように、カタカタ、カタカタと床の上で小刻みに動く壺。城に向かう途中で、無理に持っていくよう渡された。
きっとお役にたつでしょう。
彼女の年老いた姿とは、似つかわしくない若い艶やかな声が脳裡によみがえる。
あれは一体誰なのか、数日前に市場で腹をすかし倒れていた老婆。わずかな食べ物を、与えただけの縁。
それを覚えていたのか、あの路地からこれを持ち出してきた。彼は目の前に、置いている『嘆きの壺』と呼ばれるそれを、暗澹たる気持ちで見つめる。
――都の王様が、ある時献上された紅い宝石にその心を奪われた。
善良な王は、その美しく妖しく光るそれに心を……奪われてしまった。
そして王は、その慈しみに満ちた、彼の治世の形を変えた。彼の心に住む、紅い美女の囁きに耳をかたむけたからだ。
――信じてはいけませぬ。いけませぬ。人は裏切り、裏切る者ですのよ。アナタサマを、慕っている皆も、心深くではキットネ……
王は……美しく紅く、そして冷徹無比な黒い夢に、飲み込まれた。そうだ、何も、誰も信じてはならぬ、信じてはいけないと……
善良な王は、豹変した。そして彼を止めるものはいない。王を為を想い、それを述べると弑されるからだった。
やがてシラクスの都の民は嘆く。嘆く事しか出来なかった。
……王は人を殺します。全てを信じられぬと、謀反を起こすか、と忠義な家臣を、簒奪する気か、と皇太子を、ご自身のお身内を、余に逆らうか、と国の民を……殺します。
何も言えません。何も言えません。声をあげれません。兵が来て牢屋へ連れてかれます。そして殺されます。
兵も王の命に逆らうと、殺されます。殺されます。私たちはここにしか、ここにでしか、この思いを話せないのです、何も喋れないのです……
都の路地裏にひっそりと置かれている『壺』……そこを訪れた一人の老人が、握りしめている小石にヒソヒソと呟くと、カランとそれをいれる。
薄暗いそこには、そんな壺が幾つか並んでいた。手のひらに乗る位の大きさの小さな壺。人々が話せぬ思いの丈が、溢れそうになると小石に囁きそれに入れる。
その壺は誰が言う事もなく『嘆きの壺』と呼ばれていた。そしてそれが縁まで満ちると、新しい物が、いつの間にか置かれている。
誰が持って来るのか、それは誰も知らない。
……石工セリヌンティウスが、城から呼ばれ慌てて向かっていると、黒いマントを頭からすっぽり被った老婆が一人、声をかけてきた。
「セリヌンティウス様、セリヌンティウス様、お待ちくだされ、ばばのお礼を受け取ってくだされ」
その声に立ち止まり、振り返るとあの路地裏から壺を片手に姿みせた……それを思いだし、頭を振るセリヌンティウス。
何故に受け取ってしまったか、彼はわからない、しかしそうせざるをえないオーラが、彼女には満ちていた。
不安になったら……彼はカタカタ、カタカタと、彼の闇に、呼応するように動く壺を、じっと見る。
不安になったら……友は……祝いの酒を飲み過ぎ、酔いつぶれ、間に合わないのではないか、そして諦め、村へと引き返し……そのまま暮らすのではないか、約束などわすれて……私も忘れはてて、幸せに……危ういものでセリヌンティウスの全てが満たされる。
そして……そろりと手を伸ばし、その首に括られている、麻の紐を緩めた。なめした薄い革を取り払う。
はっ!と我にかえるセリンティウス、思わずそれから、その身を引く。禁忌を破った!即座に彼は現実を理解した。
ガガガガ!ゴゴゴゴ!とそれが、激しく動くとミノタウルスの咆哮の様な、轟く叫び声が上がる。
ごぅ!と黒い竜巻が立ち上る。思わず目を閉じるセリヌンティウス。頭を抱えてうずくまる。
縁まで一杯に詰められていた、町の人々の嘆きか込められた小石が、彼を避け牢内、にカチカチパン!パン!と壁に、床に、天井に、四方八方に飛び散る。
地の底から響く様な不気味な、雄叫びが響き渡る。慌てて駆けつけた牢番も、なすすべがない。
頭を抱えて伏せている、友を信じる善良なセリヌンティウス、そんな彼に深く、同情を寄せている牢番。
二人はゼウスに願う。この苦難をお救いくださいと……
そして願いが聞き届けられたのか、その黒い風は、急速に収まる。
その、おどろおどろしい気をもった黒い風は、牢に満ちていた無実な人々の怨嗟を、理不尽な哀しみを、絶望を……何もかも根こそぎひっさらう様にかき集めると、明かりとりのそこから、月夜の外に飛び出して行った。