最凶の魔術師
ワン・チェンはまるでそれを楽しんでいるかのようにゆっくり、一歩ずつ稲岡に近づいてくる。
「な、なんでチェンさんがこの町に来てるんですか? それにどうして急に現われて……」
「お前のしりぬぐいのために上から無理矢理来させられたんだよ。それとなんで急に現われたのかについてはな、私も知らん。だけどなぁ」
稲岡は歩み寄ってくるチェンに対し、明らかに恐れを抱いている。少しでも遠ざかりたいのか、さきほどからじりじりと後退している。
「そんなことどうだっていいんだよ。なにしろ貴様を見つけられたんだからな。ずっと会いたかったぞぉ、稲岡」
その時になってようやく稲岡が後ろを振り返り、俺を見つめた。
「……もしかして、お前のせいか?」
そうだ。俺が持っていた紙。あれがワン・チェンをここへ呼び出した。それを可能にする魔術式こそが、俺が神力にお願いした代物だったのだ。
魔術の三大悲願の一つ、無から有を生み出すこと。神力は魔力さえちていれば、その悲願さえも叶えてくれる。そこで、俺は神力にお願いした。先日出会ったカンパニーの魔術師を呼び寄せる魔術式を作り出してくれと。
理由はいくつかある。
まず牧場の情報を稲岡から聞き出すためには、捕まえる現場において俺が立ち会わなければならない。しかし、俺一人で稲岡を捕まえることはもちろんできないし、かといって神力の力を借りて捕まえたとしても、その後の稲岡の取扱いに困る。一方、チェンに直接捕まえさせてくれとお願いした場合、お願いをしたその瞬間に稲岡が捕まることになり、俺はその場に居合わせることができない。また、霧島神社で逮捕させると言うわけにもいかない。だからこそ、稲岡確保の時間をお願いする瞬間から後ろにずらす必要があった。
じゃあ、時間を後に設定したうえで、俺がその場に居合わせた状態でチェンに稲岡を捕まえさせるように神力にお願いすればいいのか。しかし、それはできるかわからない。俺の魔力量の問題がある。神力は俺の魔力量の限度内でしか願い事を聞いてくれない。自分の魔力と神力が要求する魔力量がわからない以上、実行の確実性をできる限り高める必要があった。
そして、これらの問題を解決する手段が、今さっき述べた魔術式だった。
ウリエルが言っていたように、魔術式ならば工夫次第で発動時間をずらしたり、任意に動かしたりできる。これで確保の瞬間を俺のコントロール下に置くことができるのだ。
また、魔力量の問題についても同じだ。確かに願い事にどれだけの魔力がかかるのかという知識を俺たちは持っていない。だからこそ、願い事の内容を可能な限り制約しなければならないのだ。しかし、この召喚型の『物質移転』の魔術に関しては違う。なぜなら、俺は以前にこの魔術に似た願い事を実際に成功させているからだ。その時は魔力を持たない二人と、特殊な事情を抱えた魔術師ではあったものの、俺の魔力量においてこの召喚型の『物質移転』の魔術が可能であるということが実証されている。つまり、これに似た魔術ならば、俺の魔力でも実現可能だということがすでにわかっているのだ。さらに、今回は魔術師一名、また魔術式という補助を使っている。この願い事が神力に叶えられないはずがない。
もちろん、これを実行する魔力量よりこの魔術式を生み出す魔力量が多いという可能性はあった。しかし、俺の願い事は実現した。俺がお願いを終えるとともに、すぐ横の地面に魔術式が浮かび上がったのだ。ウリエルはその魔術式を見てかなり驚いていた。
「私は『物質移転』の魔術にかなり詳しいつもりなんだが……こんな魔術式は見たことない。かろうじて『物質移転』の魔術式だとは分かるんだが、半分以上理解できない」
そのあとは簡単だ。
ウリエルが浮かび上がった魔術式を紙に書き写す。その際、ウリエルにはその魔術式を完全に書き終えず、またその発動に少しだけ時間差ができるようにしてもらった。俺がさっき逃げながらしていたのは、魔術式を完成させる最後の文字を書くことだった。最後の文字を書き終わり、少ししてから『物質移転』の魔術式が発動する。
これが一連の流れだ。そして今になって考えてみるとかなり危ない橋を渡っていたとも思えるが、結果オーライといったところか。もう俺のやることはこれですべて終わった。今まで重くのしかかっていた肩の荷がどっさりと落ちたような心持ちがした。
「く、来るなぁ!!」
稲岡がチェンに向かって叫び声をあげる。そして、身体を震わせながら懐に手を入れ、そこから拳銃を取り出した。
俺は稲岡がそのような武器を所持していたことに仰天したが、拳銃を向けられたチェンはそれを気にかける様子も見せない。チェンは着ていたジャケットを脱ぎ、稲岡に話しかけた。
「見苦しいな、稲岡。私がそんなおもちゃで動揺するとでも思っているのか?」
「うるさい! 言っとくが、これは本物だからな。これ以上近づけば、本当にお前をう……」
その瞬間だった。
稲岡の目の前に突然チェンのジャケットが現われた。
稲岡は突然現れた目の前の物体に驚き、狙いをつけないまま拳銃の引き金を引いた。サイレンサーを装備しているのか発砲音自体は小さなものだったが、その音とともにジャケットに小さな穴が空く。
しかし、ジャケットで目くらましをされた状態で人間に弾丸を当てることはできない。チェンは俊敏な動きで自分の立ち位置をずらし、弾を避けると、二発目が放たれる前に一瞬で稲岡に接近した。
ジャケットが地面に落ちるとともに、稲岡はすぐそばまで来ていたチェンを捉え、銃口を向けた。しかし、チェンはその動きより素早く、右手で稲岡の拳銃をつかむ。その瞬間、稲岡の手から拳銃が消えた。さらにチェンは間髪入れずに稲岡にボディーブローをお見舞いする。鈍い衝撃音ののち、稲岡は自分の腹部を抑えながら前方に倒れこんだ。
チェンは咳き込む稲岡を見下ろしながら、これ以上なく冷たい声で話しかける。
「どうした、稲岡。この程度では私のイライラは収まらんぞ。さっさと立ち上がれ」
「ハァハァ……。くそ野郎が」
稲岡は這うように、右方向へ移動していく。逃げようとしているのかと思ったが、その移動する方向を見て俺は稲岡の意図を察した。
気にも留めていなかったが、右方向には工事で使う鉄パイプが無造作に積まれていたのだ。
稲岡はその中の一つをつかみながら立ち上がった。そして、そのままわけのわからない怒声をあげながら鉄パイプをチェンに振り下ろす。
しかし、チェンは動じることなくその鉄パイプをただ左手で受け止めた。その瞬間、鉄パイプは拳銃の時と全く同じように消え、代わりにチェンの右手近くに突如として現われた。
チェンはその空中に現われた鉄パイプをつかみ、そのまま稲岡の左足側面を打つ。稲岡は再びうめき声を漏らしながら崩れ落ちる。チェンは持っていた鉄パイプを稲岡の目の前に落とし、さげすんだ表情で語りかけた。
「お前の過ちはカンパニーを抜けだ出したことでも、銀行強盗を実行したことでもない。貴様は私の機嫌を著しく害した、それがお前の過ちだ。早くさっきのように無様な格好でかかってこい。死ぬよりもつらい経験をさせてやる」
まずい。このままでは稲岡がこいつに殺されてしまう。
その危険を察した俺は慌てて立ち上がり、二人のもとに近づいた。
「ま、待ってくれ。いくらなんでもやりすぎじゃあ……」
「貴様はこの前道を聞いた高校生だな。貴様もこのゴミ屑の仲間か?」
鋭い視線に俺は思わず尻込みをしてしまう。
別に稲岡に同情しているわけではない。しかし、こいつには聞かなければならないことがあるのだ。
「ち、違う。ただ、こいつに罰を与えるのは後からでもいいんじゃないかって……。俺はこいつに聞かなきゃいけないことがあるんです。おい、稲岡! 牧場風太郎はどこにいるんだ!?」
稲岡は痛みに顔をゆがませながら俺の顔を見た。
「お前と牧場が今、仲間割れしてるのはわかってる。あいつからお前の放火計画を伝えられたからな。だけど、せめて手がかりだけでも……」
しかし、俺の言葉は最後まで続かなかった。
というのも、俺の言葉を聞いた瞬間稲岡が驚きの表情を浮かべた後、再び頭に血をのぼらせたからだ。
「おかしいと思ったんだ、くそが! はめやがったな、あの野郎!! 絶対にぶち殺してやる!」
「ま、待て。話が全く分からないぞ」
稲岡は俺の顔を睨みつけ、そのあと自虐的な笑みを浮かべた。
「お前も俺も牧場風太郎に利用されたんだ! 銀行強盗だって、放火計画だって、全部あいつが言い出したことなんだよ! 今頃あいつは大金を独り占めして高笑いしてんだろうな!!」
稲岡は顔を真っ赤にしながら、大声でどなり散らし始めた。しかし、すぐさまチェンがうずくまる稲岡の顔を思いっきり右足で蹴り上げると、そのまま稲岡は黙り込んでしまった。俺が恐る恐る顔を覗き込むと、稲岡は白目をむいていた。どうやら怒りやら痛みやらで気を失ったらしい。
チェンは唾を地面に吐き捨てる。
「ふん。根性なしが。気を失っていては、いじめがいがない」




