逃走
走り出すとともに俺の後方から怒鳴り声が聞こえてくた。稲岡が俺を追いかけてきたのだ。俺は足に自信があるわけではない。それにさっきまでずっと自転車に乗っており、疲れもたまっている。また、風邪の治り始めということもあって、体調も万全ではない。地理的優位があるとしても、俺がこのままやつを振り切れるとは到底思えなかった。だからこそ。
俺は走りながら胸ポケットに入れていたペンを取り出す。
そして細い十字路を左に曲がったところで、俺は近くの電柱を下敷き代わりにして左手に持っていた紙を広げた。その紙には数十行にも及ぶ文字の羅列、魔術式が書いてある。
稲岡の怒り狂う声がすぐそこから聞こえてきた。冷静になれと自分に言い聞かせる。ウリエルに教わった通りにするんだ。俺は焦りと恐怖を抑え込みながら、ペンで魔術式の最後の箇所に教えてもらった文字を書く。しかしその瞬間。
「見つけたぞ、ガキが!」
俺が横を振り向くと、そこには顔を真っ赤にした稲岡の姿があった。俺は反射的に紙とペンをその場に置き捨て、反対方向に駆け出す。
稲岡も俺を追いかけてくる。
そして走り出してすぐ、俺は足を止めた。いや、止めざるをえなかったといったほうが正しい。俺の足は疲れで限界に達していたし、そしてなにより、俺の目の前にはこれ以上道はなかった。つまり、行き止まり。俺が入ったこの道は袋小路だった。
俺は息を切らしながら、後ろを振り返る。そこにはもちろん稲岡大輔がいた。俺は道をふさぐ塀に身をもたれかけ、そのまま地面にへたり込んだ。もう走るどころか、立ち上がる気力も残っていない。
稲岡は俺がもう逃げられないことを悟ったのか、俺のほうへゆっくりと歩み寄ってくる。
「おちょくりやがって。もう逃げられねえぞ。こんな袋小路に入っちまったのが運のつきだな。ここら辺の道には詳しくなかったみてえだな」
俺は力なく笑う。
「いや、この道が袋小路だって知ってたよ」
稲岡は俺の言葉に眉をひそめた。
「確かにこの袋小路じゃ俺は逃げ切れないけど、それはお前だって同じだぜ」
苦し紛れにこいつは何を言ってるんだと、稲岡がつぶやいたその時、奴の背後から高揚した、それでいて威圧さえ感じられる声が聞こえてきた。
「稲岡ぁ! 会いたかったぞ!」
稲岡はその声に体を固まらせた。
俺の前方、稲岡の後方からからコツコツと革靴特有の足音が聞こえてくる。稲岡は青ざめた表情を浮かべたまま、ゆっくりと振り返った。
「な、ななんで。なんであんたがここにいるんだよ!?」
稲岡は声を裏返して叫ぶ。
俺はその時、平島が言っていた通り名の存在を思い出した。魔術師であり、カンパニー最強の中間管理職ワン・チェン。稲岡が見つめる先、チェンは狂気じみた笑顔を浮かべながら言い放った。
「よくも私をさんざんからかってくれたなぁ、稲岡。これからたっぷりと貴様を可愛がってやるぞ!」




