謎の少女
呼吸が落ち着き、俺は少女の方へ顔を向けた。
少女は俺の方を振り向く様子もなく、何かを考え込んでいるのか、先ほどからずっと顔をうつむけた状態で塀にもたれかかっていた。
そろそろ改めて話しかける頃合いだと俺は考えた。聞きたいことはいくつもある。まずあの一本道でなぜ突然倒れ込む形で現れたのか。そして、俺たちを追いかけてきたと思われるあの男二人は何者なのか。知り合いなのか、またどういう理由で彼らが追いかけてきたのか。
しかし、俺は少女の名前や素性を知らない。本筋に入る前に、俺は全うな質問をすることにした。
「……俺は水前寺愁斗という者なんだが、お前の名前は?」
「……」
沈黙が流れる。
あれ。なんか変なことでも言ったか。俺の質問に対し、まるで何も聞こえなかったかのように少女はピクリとも反応しなかった。もしかすると本当に聞こえなかったのかもしれない。いや、そうに違いない。
俺はコホンとわざとらしく咳をし、再び少女に尋ねた。
「……俺は水前寺愁斗という者なんだが、お前の名前は?」
「……」
確信犯だった。少女はなお聞こえない振りを続けているようだが、質問に対し、一瞬だけ身体が動いたのを俺は見逃さなかった。
俺は小さくため息をつく。なぜ質問に答えようとしないのか全く理解できない。初対面の俺に対し警戒しているのか、それとも俺の態度が悪いのか。半ば投げやりな気持ちになりながらも、俺は今度こそ答えてくれることを期待しつつ、再び質問した。
「お前の名前はなんていうの?」
少しだけ間が空いた後、少女はようやく重い口を開いた。
「……ウリエル」
再び沈黙が流れる。
あまりに突飛な言葉に対し、俺は一瞬だけ固まった。俺は聞き間違いをしたのかもしれないと思い、少女に確認する。
「すまん。よく聞こえなかったから、もう一回言ってくれないか」
少女はゆっくりと俺に顔を向け、よそよそしい口調で言い放った。
「ウリエル・ソートハント。……それが私の名前だ」
どうやら俺の聞き間違いではなかったようだ。
「一応聞いておくが、日本人だよな」
「それは遠まわしに私の名前を馬鹿にしているのか」
少女、もといウリエル・ソートハントの鋭い視線にたじろぎ、俺は慌てて否定する。
俺は改めてウリエルの顔立ちを見ている。整った顔立ちであることは事実だが、その容貌は明らかにアジア系だった。ハーフと言う感じでもない。いや、たとえ外人だったとしても、そのような名前を俺は聞いたことがない。そんな西洋風な名前が本名であることはどうしても信じられなかった。それと同時に、俺の頭の中に偽名とおう言葉が思い浮かんだ。そうとしか考えられない。しかし、なぜ初対面の俺に対しそんな簡単に見抜かれそうな偽名を使ったのだろう。
ウリエルは俺の疑いの目を意に介することもなく、先ほど来た道を振り返った。
「それにしても、どうしてお前はあの黒スーツの男どもに追われているんだ?」
「は?」
俺は思わず、間抜けな声をあげた。
「だから、あいつらがお前を追いかけてきた理由を聞いているんだ。ちょっかいでもかけたとか?」
俺は慌てて否定する。
「いやいや、そんなことするはずがないだろうが。あいつらはお前を追ってたんじゃないのか」
「はあ? 何をとぼけているんだ。私には誰かから追われるような覚えなんてないぞ。お前がいきなり私の手を引いて逃げたんだろ」
ウリエルは呆れた表情で俺を見る。嘘をついている様子でもなさそうだ。
「俺にだって心当たりなんてないぞ。お前の方に理由があるんじゃのか。もう一度考えてくれ。別にやましいことじゃなくてもいい。例えば、重要な秘密をお前が握っているとか、そういうのでだっていいんだ」
そう尋ねながら、俺はいったい何を馬鹿なことを言っているんだと恥ずかしくなる。しかし、意外にもウリエルは俺の馬鹿げた質問を真剣に受け止めてくれたようで、手をあごに当て、何かを考えこむしぐさをした。
「なんか思い当たる節はあるか?」
「いや、何もない。私が誰かから追われるような理由なんて考え付かないし、そんなことあるはずがない」
「……だったら、単なる俺の思い違いだったっていうのかよ」
しかし、実際にあの二人は逃げる俺たちを追いかけてきた。そのことは紛れもない事実だ。
俺は不格好に走る二人の様子を思い出してみる。特に理由もないのに、大の大人があれほど必死に追いかけるなんて不自然すぎる。だとすれば、気が付かないだけで俺に何かしらの理由があるのだろうか。
いや、何も思いつかない。家族はどうだ。いや、うちは父子家庭であることを除けば、ごく普通の一般家
庭だ。小六の妹はさておき、親父が何か昔悪いことをしてたのなら話は別だが。
「わかった、一旦あいつらのことは置いておこう。次の質問だ。俺の勘違いかもしれないが、お前はさっき
あの一本道に突然現れたよな? うつぶせに倒れた状態で。それはいったいどういうわけだ?」
「次から次に質問してくるな。しつこい男は嫌われるぞ」
ウリエルは露骨に嫌がる表情を浮かべる。
「余計なお世話だ。質問に答えろ」
ウリエルは小さくため息をついた。
「質問についてだが。……正直自分でもよくわからないんだ。それ以上は答えられない。……この町の違う場所を歩いていて、気が付けばあそこに倒れこんでいたんだ」
「なんだよ気が付けば倒れこんでいたって。記憶が途切れたとか?」
「いや、別にそういうわけではない。言葉通り、気が付けばあの道に倒れこんでいた」
俺はウリエルの言葉に混乱する。何を言っているんだ、こいつは。瞬間移動でもしたとでもいうつもりなのだろうか。俺は頭を抱えながら、別の質問をする。
「"この町"っていうことは、余所から来たのか? 観光? こんな何もない町に」
ウリエルは首を左右に振った。
「いいや、ある目的があってこの町にやってきたんだ。別に観光が目的じゃない。」
「目的? 人に会いに来たとか?」
「……別にこの町に知り合いはいない」
「じゃあ、なんで」
俺の追求に対し、ウリエルははたと口をつぐんでしまった。少々やりすぎたか、と俺が思い始めた時、ウリエルは俺から少しだけ顔を背け、口を開いた。
「……探し物をしているんだ。」
固い意志を感じさせるような、重く、力強い声だった。
「なんだよ、探し物って」
「お前には関係ない」
ウリエルはぴしゃりとはねつけた。その態度にはどこか俺を寄せ付けまいとする雰囲気が感じ取れた。
「この町のどこかにあるということしかわからないものでな。何日かかるかもわからないが、それを見つけるまでは帰れないんだ」
どこか冷たさを帯びたウリエルの視線は一層鋭さを増し、有無も言わさぬ緊張感を漂わせていた。
俺はその不意の変化に気圧され、それ以上の追求ができなかった。ウリエルの真剣な雰囲気から察するに、探し物というのはよほど大事なものらしい。そして、見知らぬ町をたった一人で探し回らなければならないのにも、きっと事情があるのだろう。
「もういいだろ、水前寺愁斗。私はもう行く」
ウリエルは肩をすくめて言った。
「え、もう行っちまうのか」
「当たり前だ。……のんびりともしていられないからな」
ウリエルは俺に背を向け、片手をひらひらと振った。非現実的な出会いはあっけないお別れで幕を閉じるらしい。当然俺に彼女を引き留める理由なんてなく、少しずつ遠ざかっていく姿を見送るしかできなかった。
しかし俺は一瞬、去りゆくウリエルの背中がどこか心細げであるように感じた。もちろん俺の勘違いなのかもしれない。それでも、俺はウリエルに再び声をかけずにはいられなかった。
「おい」
俺の声にウリエルは足を止め振り返る。
「まだなにか用か?」
「俺の家はこの道の突当りを右に行った通りににある。この町でわからないこととか困ったこととかがあれば、手伝えるかもしれない。気軽に立ち寄ってくれ。あんなして出会ったのも何かの縁だからな」
俺が気恥ずかしさを押し殺しながらそう言うと、ウリエルは少しだけ驚いた表情を浮かべ、そしてやさしげな微笑みを浮かべた。
「お人好しだな」
しかし、微笑んだのはほんの一瞬で、ウリエルはすぐにはっと何かに気が付いたかのような表情を浮かべ、そのまますぐに元の真剣な表情に戻った。
「さっき倒れていたところを介抱してくれたことは礼を言う。しかし、これ以上お前に迷惑をかけることもできないからな。気持ちだけ受け取っておく」
「探し物が見つかるといいな」
「ああ」
ウリエルは小さくうなづき、再び背を向け歩き出した。
さっき背中が心細げに見えたのはきっと、俺の見間違いだったのだろう。しかし、俺が胸を撫で下ろし、自分の家に帰ろうとしたその時、ピタリ、とウリエルは急に立ち止まった。
ウリエルは両手で自分の服のポケットをまさぐり始め、動きが止んだかと思うやいなや、全身の力が抜けきったみたいにその場に座り込む。
俺は慌ててウリエルに近づき、恐る恐る声をかけた。
「……どうした、ウリエル」
ウリエルは顔を上げ、かすれるような声で答えた。
「私の荷物が……ない」