プロローグ
あれは俺が中学二年生の時だったろうか。
友達に進められて見た陳腐なアニメに影響され、自分にもそんなおとぎ話のような展開が訪れて欲しいと心から願っていた時だ。
近所の小さな神社に参って手を合わせ、俺は神様に頼み込んだ。どうか、黒髪ショートの美少女が突然空から降ってきて、悪の組織から彼女と一緒に逃避行を行う、そんな展開が訪れますように、と。
あんまり恥ずかしい思い出だからなのか、それとも自分の無邪気さを思い起こさせるほほえましい思い出だかからなのか、今でもその時のことは鮮明に覚えている。あのころの俺は、この世界には正義のヒーローとか、魔法とかが実際に存在していて、途方もない使命が俺の人生に課せられているのだと本気で思い込んでいた。
でももちろん、現実はそんな物語めいたものではない。俺に課せられた使命と言えば、燃えないゴミと燃えるごみをきちんと分別することとか、あるいは宿題を期日通りに提出することくらい。高校生になり大人の階段を一段だけ上った俺は、少し高いところから周りを見渡して初めて、俺の住む世界が無色透明な一定の枠組みの中に、整理整頓された形できっちりと過不足なく収まっていることを認識できた。その事実を知ったとき少しもがっかりしなかったと言えば嘘になる。それでも時間は俺の意志とは関係なく進んでいき、一日が終われば宿題の提出締め切りは一日分だけ短くなる。時間は決断を急かし、現実は大人になれよと優しく俺を唆す。
それにしても、なぜ突然こんなことを思い出したのか。それはきっと今置かれている状況が、俺がまさに中学の時に心から望んだ状況とそっくりだからだ。
話は三十分ほど前にさかのぼる。
九月の終わり。ある日の放課後。いつものように俺は下校を始め、帰路にある長い一本道を歩いていた。すると不意に後ろから何かが倒れる音が聞こえ、俺は驚いて後ろを振り返る。するとそこには俺と同い年くらいの少女が地面にうつぶせの状態で倒れていた。
突然現れたその存在に戸惑いながらも、俺は慌てて少女に駆け寄り、「大丈夫ですか?」と声をかけた。少女は小さくうめき声をあげながら、ゆっくり顔をあげた。少女は均整のとれた顔立ちをしており、髪は黒で、肩まで届かないほどの長さ。年齢は俺と同じくらいだが、服装が私服なので高校生なのかはわからない。少女は頭を軽く打ったのか、状況をいまいち理解できていないようだった。、頭を押さえつつ、うつろな目で俺の方を見ていた。俺とその少女は互いに黙りこくったまま見つめあう形となり、俺はその気恥ずかしさを押し隠すかのように再び少女に声をかけた。
「えーと……立てます? 大丈夫そうじゃなかったら救急車呼ぶけど……」
そういいながら俺が手を差し伸べると、少女はその手を握り、よろよろと立ち上がった。それでもやはり頭がぼんやりするのか、俺の問いかけに答えない。
救急車までとはいかなくても、どこか近くの病院が学校の保健室まで連れて行った方がいいかもしれない。そのようなことを思い始めたとき、ふと俺の三十メートルほど前方に黒いスーツを着た二人の男の姿が見えた。二人のうち一人は電話をかけ、もう一人は大きめのスーツケースを手に持ち、こちらを怪しげに観察していた。
「怪しげ」とはいったものの、本当にそうだったのかは疑わしい。
黒いスーツを着た男二人組など格別珍しいものでもないし、実際は単なる営業回りの会社員だったのかもしれない。しかし、俺はこの二人を見た瞬間、本能的に「怪しい」と感じた。というのも、俺が音を聞いて振り返った時、目に映ったのは少女だけで、その二人は俺の視界に映っていなかったからだ。
もちろんそれだけで怪しいなんてことはありえない。通りに面したどこかの家から出てきたばかりなのかもしれないのだから。しかし、徐々に俺の身体に得体のしれない不安感が広がっていくのが感じられた。
少女はまだ混乱から抜け出せていない。俺が用心深く二人を観察していると、二人は一言二言言葉を交わし、まっすぐ俺たちの方へ歩いてきた。俺は思わず身構える。その二人が俺たちにいきなり襲い掛かってくるなんてことは普通は考えない。しかし、根拠のないその二人組への不信感は増していく一方だった。
二人はどんどん近づいてくる。
二十メートル。
一五メートル。
この時点まで俺は、その男たちから逃げようまったく考えていなかった。しかし、二人が残り十メートル付近まで来た時。
「逃げろ!!」
という命令が頭の中でガン、と鳴り響いた。
その瞬間、俺は少女の手を握ったまま男たちと正反対の方向へ駆けだした。まるで頭の命令系統と分離したみたいに、俺の足は止まることなく勝手に前に繰り出されていく。 少女も俺に手を引っ張られながら、なんとか付いてきている。
俺は走りながら後ろを振り返った。すると、男たち二人が俺たちを走って追いかけてくる様子が見えた。携帯を持った片方は、何かを携帯越しの相手に必死になって伝えているのが見て取れた。しかし、二人とも運動は苦手なのか、走るスピードは案外遅く、距離がどんどん離れていくのがわかる。
まさか、本当に俺たちを追いかけてくるとは。俺は足を動かしながら、素直にその事実に驚いた。
一本道の終わりである十字路に来ると俺は迷わず右に曲がり、すぐに近くの路地へ入った。その後どんどん奥の路地へ入っていき、二人を完全に巻けたと思ったあたりで俺は足を止めた。
走りつかれた俺は塀に寄り掛かって、呼吸を整えることに専念した。少女も息切れしており、同じように塀にもたれかかった。頭を打ち、意識が朦朧としたまま、突然手を引かれ全力で走らされたこの少女に俺は同情した。色々と聞きたいことはあるが、息切れが収まるまでまともな会話ができそうにない。俺たちは塀に背を預け、無言のままお互いの回復を待つことにした。
今の俺の状況を簡潔にまとめるとこうなる。俺の横には突然現れた美少女がいて、しかも俺たちはよくわからないスーツの男たちに追われている。まさに俺が中学の時に妄想した状況そのもの。 心から願った非日常的展開を今更になって神様が叶えてくれたのか。それとも、俺の現実への見解がそもそも間違っていただけなのか。どちらが正しいかはわからない。
じわりじわりと湧き出る汗を不快に感じながら、俺はふと真上を見上げた。そこには青空が開け、申し訳程度に薄雲が漂ういつもの風景があった。それをぼんやりと眺めていると、このふざけた状況にはふさわしくない間抜けなことを俺は考えてしまいたくなる。今日もこの町は平和だ、と。