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名もなき愚者たちの放浪記  作者: ひるもじ
第一章 ナダ国
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第一話 対角線の救い手 六節

 押しても叩いても、透明なこの壁はびくともしない。強く叩きすぎていたのか、気がつくと手の傷口が開いてしまっていた。アスタルテ卿が作ったであろうこれからは、やはり彼の魔力と思わしき空気が血の滲み出した手のひらに伝わってきた。確かに壁があるはずなのに、これだけ出ているわたしの血がこびり付かないのは、きっと魔法で作り出されたものだからなのだろう。痛みは、脈動と共に鈍く届く。これでは言われた通り扉を閉められもしない。ただ、待っているつもりは無いけれど。彼もそれがわかっていたから、この壁はまだ消えないのだろう。

 いっそのこと、窓から出てしまおうか。わたしは見えない壁に手を付きながら、後ろを振り返った。嵌め込まれている窓から出るには、曇った厚そうなガラスを突き破る必要がある。だが、反対側にある突き上げ式の方からは、容易に表へ出られそうだ。一切光を通さない木製のそれは、幅も高さもわたしより何周りも大きいものだった。未だ打ち鳴らされている鐘の音を背に受けながら、わたしはそちらへ駆け寄った。

 風除けのためか、窓は太い紐で結ばれていた。触れた紐は、とても硬い上に血で滑る。それでも、少しずつ結び目を緩めていけば、次第にそれは解けていった。充分に弛んだところで、わたしは強引に紐を引っ張る。力を込めて紐を引っこ抜くと、床へ落として木の板を強く押し込んだ。

 漸く窓を開けられた頃には、あれだけ響いていた警鐘が止んでいた。わたしは、押し開いた窓から身を乗り出す。嫌な振動が腕と脇腹から伝わって来るのを感じながら、持ち上げた身体を窓の隙間へ滑り込ませた。間も無くついた足からも、湿った感覚が走る。きっとここも、手や脇腹と同じような色に染まっているのだろう。

 身を屈めて窓を閉めたわたしは、ゆっくりと立ち上がった。立ち並ぶ平屋は、先ほど見た時と変わった様子はない。相変わらずここら一帯は閑散としていた。海鳥の声も、船の唸りも同じだった。だが、間も無く波が砕ける音に紛れて、不自然な音がわたしの耳に届いた。人の怒声、それに空気を焼く音のようだ。普通ではないそれらの音は、立ち並んだ平屋群の向こう側から聞こえる。きっとこれが、アスタルテ卿の言っていた魔物なのだろう。

 再び心臓が強く脈打った。四肢に熱が集まり痛覚が薄れる。頭が冷えきり、視界がよりクリアになる。先刻起こった虫の知らせのようだ。悪寒が駆け上り、手足は軽くなる。踏み出した足は弾むように地面について、交互に前へと繰り出されていった。わたしの身体は、冴え渡った脳を置き去りにして勝手に進んでしまっている。煽られ飛びかけたタオルを握り締めたわたしは、トングサンダルのまま風を切って走っていた。

 ぶちぶちと肌が裂ける感覚を全身に感じながら、わたしは目を周りにやる。船着き場を通り過ぎると、(なら)された道に出た。左右には木々や、二階建ての家が立ち並んでいる。眺める限りでは、一階が仕事場となっているところが大半であるようだ。しかし、どの家も仕事道具を放り出したままだった。それはきっと、すぐ近くから聞こえる咆哮の主のせいなのだろう。

 (のこぎり)が放置された家の角を左へ曲がる。その瞬間、わたしの視界いっぱいに大きな物が広がった。何かが飛んで来た。後ろへと飛び退くと、それは数瞬前までわたしがいた場所へと落っこちた。勢いよく転がったその塊は、やがて止まる。それは、少しの間静止すると呻きながら緩慢に動きだした。乱れた呼吸の音を繰り返すそれから覗いたのは、少年の顔だった。

「ラルゴ!」

 少し遅れて、白い布が蹲る彼のもとへと駆け寄った。アスタルテ卿だ。彼はラルゴと呼んだ少年の側で膝を折ると、肩を上下させながら金色のゴブレットを掲げる。しかしその直後、別の方面から怒声が飛んだ。

「アスタルテ、来てるぞ!」

 アスタルテ卿は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、身体を捻り光を湛え出した杯を後ろへ向ける。直後、何かがぶつかる鈍い音が響いた。衝突音が、立て続けに二度三度と繰り返される。硬いものが軋んだ音が聞こえた。

 アスタルテ卿は、更に顔を歪めて何かを呟いた。間も無く、何かが崩れるような音が聞こえて来た。

 ……崩れるような、音? この音は、駄目。止めないと駄目だ!

 わたしは、頭の隅が痺れる感覚を覚えながら、無意識のうちに前へと飛び出す。そして目を見開いたアスタルテ卿を背に庇い、大きく開かれた何者かの口へと拳を突っ込んだ。タオルがひらりと舞い飛んだ。空気が流れる音が止まった。

 厳つい顔をした獣のようなそれは、きっと開いた喉を殴られるとは露ほども思わなかっただろう。悶え苦しみながら、異形な姿の生物はわたしの腕を噛み千切るべく顎を閉じた。荒い鼻息が、血みどろの左腕にかかる。そのまま首を振ろうとしたのか、背けかけたその片目に、すかさずわたしは利き手の拳を打ち付けた。ぬめった硬いものが潰れる感覚が、第二関節に伝わる。凶悪な顔の獣も、流石に目を潰されるのには(こた)えたらしい。悲鳴をあげたその隙に噛まれていた腕を引き抜くと、牙に引っかかった皮が裂ける感覚がはっきりと伝わった。

 距離を取って、引き戻したばかりのそれを見下ろす。左の腕は、新たに流れた鮮血で深紅に染まっているが、手首から先は爛れ乾いていた。スプラッターな光景だ。見ていて気持ちの良いものではない。

「止せ、退がれっ!」

 アスタルテ卿が後ろで叫ぶ。言われた言葉はわかっている。しかしわたしは、既に臨戦態勢を取り戻したそれの前から動くつもりは毛頭なかった。

 異形な姿をとっているこれが、魔物らしい。一見すると四足歩行の獣のようだが、動物にしては姿も纏う空気も異質だった。左手が爛れたのも、きっとこれの仕業だ。確かに感じる焦げた匂いと引き攣る皮から、左手の惨状の訳が物語られている。痛覚が鈍っていなければ、わたしはここまで冷静ではいられなかっただろう。

 再び飛びかかって来たそれは、腹へと突き込んだ膝を物ともしない。魔物は鋭い爪でわたしの肩を裂きながら、勢いをつけてのしかかって来た。押し倒されたわたしは、背中を丸めて受け身を取った。が、勢い余って後頭部を打つ。ぐらりと脳が揺さぶられたが、呆けている暇はない。右肩を地面へ縫い付けられたわたしは、喉笛へと食らいつこうとする魔物の鼻面を左の掌で突き上げた。手の損傷が激しく、余り力は込められなかったが、それでも攻撃を逸らすことができた。

 抑え付けられていた右肩が軽くなる。魔物の爪は、わたしの血に塗れながらほんの少しだけ浮いた。

 ふっと、わたしの呼吸が止まる。身体を巡る血と別の物が混ざり合って、腹の底から何かが湧き出した。未知の感覚だが、わたしはそれに高揚感を覚えていた。――否、これは未知ではない。

 右手の拳に、意識を向ける。すると、中指を中心に力が渦巻くのを感じた。見なくともわかる。指輪を媒介にして、力が溜まっているのだ。右目の視界の端に、光を感じる。指先の熱が、更に上がった。

 今だ。わたしは右の拳を持ち上げて、地面に振り下ろした。開いた傷口に砂利が入り込むのと入れ替わるように、渦巻いていた何かが雨のように地面へ染み込む。次の瞬間、周囲の地面から勢いよく大きな棘が飛び出した。真っ直ぐ伸びた無数の棘は、地面を割りながらわたしを覆うように穂先を天へと向けていた。

 知っていた。わかっていた。これは確かにわたしの力だ。放出して尚、身体中を駆け巡る不可思議なこれは、慣れ親しんだわたしの魔力だった。

 魔物は、逃げる間も無く砂利で出来た魔法の棘に貫かれていた。足をばたつかせたそれの頭は、妙な角度で停止している。どうやら頭や喉にも深く棘が刺さったらしい。そんな中でも、異形の生物はわたしから目を逸らさなかった。魔物の爪の先が、顔を掠める。ぱっくりと裂けた顎から、血が伝うのを感じた。

 ……近い。わたしは、もう一度拳を振り下ろす。獲物を串刺したまま、棘は更に伸び上がった。魔物の身体は、呆気なく地面を離れて宙に浮いた。突き刺さった太い棘は、既に赤黒く染まっている。脈動とともに流れる血は、まるで先ほど使った蛇口の水のように吹き出していた。やがて、それも勢いをなくしていく。徐々に手足の動きが緩くなった魔物の目から、急速に生気が失われていった。降り注ぐ血の雨を浴びながら、わたしは手を掛けた生物が絶命する様を目の当たりにしていた。

 怖くはない。罪悪感も優越感も一切ない。痺れた頭では、何の感情も見つけられなかった。殺さなければ、わたしは死ぬし後ろの二人も殺される。それだけでなく、もっと被害は拡大していたかもしれない。だから、()られる前に()った。被害を最小限に抑えるために必要なことだった。これは、わたしにとって至極当前の考えのようだ。記憶を失う前のわたしは、こういった状況に慣れていたのかもしれない。

 屍を祭り上げる棘のトンネルから抜け出して、立ち上がる。顎から流れる血が、首筋を伝って気持ち悪い。周囲を見渡すと、呆然とこちらを見つめる人々の姿があった。各々の手に握られた得物の中から銛を見つけたわたしは、そちらに目をやる。握っていたのは、ウルバノさんではなかった。それを認識したと同時に見つけた物に、わたしは目を離すことができなくなった。

 異様な姿の四足歩行生物が二頭、こちらへと駆けて来ていた。串刺した魔物と同種らしいそれらは、周りに目をくれず、わたしを目掛けて真っ直ぐに突き進んでくる。わたしは、ゆっくりと両手の拳を握った。駆け巡る魔力の塊が、両の拳に集まり出す。両手が淡く輝き出した。

 逸早く我に返った人が、声を上げた。それを合図に人々は動き出した。魔物たちは繰り出される得物や、魔法のものと思われる氷塊を巧みに避ける。立ちはだかる人を蹴散らしながら、それらは距離を詰めてきた。

 何故だろう。両手の魔力溜まりが一層光を湛えるのを視界の隅で感じながら、わたしは思考を巡らせた。直進する魔物たちは、わたしから一切目を離さない。先ほど退治した魔物もそうだ。どうして、こちらに狙いを定めるのだろう。こちらへ駆けてくる二頭は、人を蹴散らせるだけの力がある。周りにも多くの人がいる。それなのに、わざわざ遠くから二頭揃ってわたしに直進して来るのが不思議だった。弱そうだからなのか。それとも、仲間を殺されたからだろうか。

 一頭の魔物が、口を大きく開いた。口内には、赤く染まった太短い牙が生え揃っている。生々しい血の名残が残る牙は、肉を食いちぎるための用途で使われるのだろう。噛まれたらどうなるのか、既にわたしの左腕が証明していた。噛まれた直後に離されているから大事には至っていないが、あれ以上食いつかれたままだったらきっと肘から先は失われていたはずだ。

 ふと、空気が流れる音が聞こえた。先ほども聞いたこれは、何の音だろう。音源を辿り、視線を巡らせる。間も無く突き止めた音源は、開かれたままの魔物の喉だった。

 魔物の口の中は、赤く明るく染まっている。陽の光が差し込んだ様子はないのに、喉の奥まではっきりと見えた。

 何だろう、あれは。わたしは駆け寄るそれから目を離せずにいた。だから、魔物の喉の奥から飛び出したものを見逃さなかった。

 それの口から勢いよく吐き出されたのは、炎の玉だった。激しく空気を焼く音と共に、飛び出した玉はわたしへ一直線に飛んで来た。後ろには、まだアスタルテ卿たちがいる。避けられない。

 わたしは、両手を前に突き出した。吸い寄せるように、溜まった魔力を凝縮させてゆく。眩くなっていた二つの光は、やがて指輪へと収束した。指輪が鋭い閃光を放った瞬間、目前に魔力の塊が放出された。魔力の塊は、軋んだ音を立てながら広がる。水蒸気を上げながら形成したのは、氷の盾だ。凍てつく冷気を伴った様子の盾だが、冷たさを感じることはない。作り出した氷のオブジェは、陽や炎に照らされきらきらと輝いていた。

 炎の玉が近付く。氷の盾は、汗をかき始めた。これでは、駄目かもしれない。炎の玉の勢力が強過ぎる。どれほど魔力を注いでも、耐えきれなさそうだ。そうとなれば、一か八かの賭けをしよう。タイミングを見計らい、先ほどのように地面を盛り上げ炎の玉を上空へと飛ばすのだ。上手くいく保証は一切ないけれど、やるしかない。

 わたしは、両足に魔力を集めた。巡る力が、溜まり出す。両手より遥かに遅いのは、慣れていないからか、それとも指輪のような媒介が無いからか。それでも、博打をするには充分な魔力が集まるはずだ。魔力を集めて、それから……。

 その時、目の前の空気が変わった。かつん、と氷の盾が何かに当たる。すぐに、見えない壁が張り巡らされたのだとわかった。

 意識が逸れた隙に、炎の玉が壁へと衝突する。けたたましく爆音が鳴り響き、玉は炎の軌跡を描きながら四散した。しかし飛び散りかけた爆炎は、数メートル先で弾き返った。それらは次々と空中で折れ曲り、向き先を変えていく。他方へ散ったはずの炎は、やがて一点――吐き出した魔物自身へと逆戻りした。集約した炎の向こうから、苛立たしげな咆哮が上がった。

 再び、空気が変わる。氷の盾に当たっていた壁が消え去ったのだ。陽炎で揺らめく景色の先で、地面から岩が飛び出した。炎を挟んだ向こうでは、戦いが再開していた。

「余所もんは下がってろ」

 気配が、背後から飛び出す。すれ違いざまに言い放ったのは、先ほど転がっていた少年――ラルゴくんだった。彼は片手の長剣を煌めかせ、風のように馳せる。

 間も無く炎の中から飛び出して来た魔物を目掛け、ラルゴくんは一太刀目を振りかぶった。しかし魔物は、関節を曲げて走った勢いを殺しきり、左側へと飛び退いた。長剣が地面を(えぐ)る。それを持ち上げようとする彼の脇へ、魔物の爪が迫った。ラルゴくんもそれに気が付いたようだ。腕の緊張が解け、身体が捻られる。

 わたしは、咄嗟に右腕を振った。氷の盾は、容易に指輪を離れていった。投げ飛ばした盾は、水滴を散らしながら回転し、空気を裂く刃となる。刃は、獲物に逃げられ体勢を崩していた魔物の腹へと突き刺さった。悶え苦しむその顔を、ラルゴくんが蹴り上げる。わたしの時とは異なって、魔物は呆気なく転がっていった。

「お前たち、無茶をするな!」

 後ろから、アスタルテ卿の声が上がった。どこか覇気のない声色だ。きっと彼も、他人のことを批難できる立場ではないだろう。

 暴れる魔物だったが、氷の刃は未だに抜けていない。今頃、それは氷の根を魔物の中へと張り出しているはずだ。わたしは、右足へと手をやった。溜まっていた魔力を、指輪に向けて動かす。早急に集めたその力を、わたしはもう一度足へと戻し、踵を地面へ叩きつけた。その瞬間、わたしの魔力の塊は弾かれたように地に落ち走り出す。地面を這う魔力は、引き絞った弓のように数メートルを駆け抜けた。そして、刃を抜くことを諦めわたしとの距離を詰める魔物に辿り着いたその瞬間、地面から勢いよく跳ね上がる。跳ね上がった先にあったのは、氷の刃だ。刃はわたしの魔力を取り込むと、魔物の体表へと氷の手を伸ばし出す。やがて、全ての足を包み込んだ氷は、勢いよく捻じ曲がった。

 悲痛な咆哮が、くぐもった音の一拍後に上げられる。絶叫のようなそれは、耳にこびりついてしまいそうだ。しかしそれも、ラルゴくんが魔物の首を落とすまでの間のことだった。不自然に途切れた魔物の咆哮。辺りに静寂が訪れる。

 わたしは、左足にも手をかざした。集めた魔力は、指輪の中に収めておく。四肢の熱は、未だに冷めやらない。炎の向こうの魔物も退治されたのか、戦いの音は止んでいた。それでも、頭のどこかが痺れる感覚は残っている。

「フィロ、こっちに来い」

 背中に、アスタルテ卿の声がかかる。だが、わたしはその場を動くことができなかった。

 まだだ。まだ、何か……。

 その時、右手の方向から何かを感じた。良くないことが起こる。既に起こっているのかもしれない。足が、動き出す。何かはわからないが、とにかく早くしなければ……!

「おい!」

 鼻と額に、何かがぶつかった。また見えない壁のようだ。しかし、今度のこれは随分と脆そうだ。わたしは容易に揺れた目の前の壁を右手で殴りつける。魔力を放出させながら拳を入れると、壁は崩れる音と共に消え去った。

「フィロ!」

 アスタルテ卿の言葉を、聞いていられる暇はない。無礼を承知で聞き流そう。ぐっと力を入れれば、再び弾むようについた足は容易にわたしの体を運んでいった。

 路地に飛び込み、三つほど角を曲がる。そうして辿り着いたのは、大きな樹が聳える広場だった。丁度わたしが二人、両手を広げて抱きつけるほどの太い幹の傍には、血溜まりに倒れ伏したまま動かない幾人かの人の姿があった。その中に、見覚えのある人影がある。そして今、異形の姿の生物は、樹へ向けて口を大きく開いていた。

 わたしは、右手を振った。袈裟懸けに振った腕から風が生まれる。突き進んだ突風は、魔物の首を僅かに曲げた。その瞬間に放たれた炎の玉は、樹の幹を掠めて彼方へ飛んでいった。一本の枝が鋭い音を立てて吹き飛ぶ。空が揺れた。

 魔物は、首を巡らせ振り返る。そしてわたしの姿を捉えると、その身を反転させて向かってきた。道中で踏みつけられた人が呻き、身体を丸める。中には、動かない人も居た。

 わたしは、あっという間に迫ってきた魔物を見つめ、横へと飛び退いた。しかしわたしの心臓を狙った鋭い爪は、弧を描いて脇腹を引っ掻く。

 わたしは、後を追うように流れたしなやかな尻尾を掴んだ。そして、余った指輪の魔力を展開する。一瞬にして凍り付いたそれを、離されないように握り込んだ。凄まじい力で引っ張られる。引き摺られかけて、こちらも負けじと拳を作った。右足に魔力をかき集め、溜める間も無く地面へ流し根を張る。左手にも魔力を集めると、一気に指輪に流し込んだ。新たな魔力で発生させたのは、炎の魔法だ。それを、指輪の真下で炸裂させる。すると、氷が割れる音と共に、抵抗が一気に失せた。

 大して傷を付けられなかったどころか、着地する直前に尻尾を千切られたことで、魔物は随分とお冠のようだ。捻られた身体がばねのように跳ね上がると、生意気な獲物を殺すべく至近距離から爪を伸ばす。わたしは、凍った尻尾に残った魔物の魔力を指輪で抜き取り、強引に氷の魔法を広げた。即席の籠手で、魔物の爪を受け止める。容易にひび割れた籠手に、爪が深く沈んできた。

 わたしは再び氷の魔法を展開した。そして、腕に刺さったままの両前足の爪を氷で固定する。魔物は離れるべく腕を(よじ)ったが、もう遅い。

 わたしは左の手と足に魔力を集めると、手の魔力を足へと移した。そして、左足を地面へと叩きつける。すとんと落ちた魔力は、その直後目の前の地面を突き破って現れた。

 ざっくりと、魔物の腹に突き刺さった一本の棘は、先ほどより細く短い。魔力が少なかったようだ。出血の量も、先ほどと比べれば少ない方だった。心臓と思わしき場所に刺さっていない。抵抗するようにもがく魔物の爪が、一層腕に食い込んだ。魔物の口から、空気が流れる音がし始める。

 わたしはもう一度足に魔力を込めて、叩きつけた。もう一本現れた棘は、今度は魔物の喉を貫き天に向かった。空気が流れる音が止まる。一本目よりは長いが、依然として細かった。

 氷の籠手から、腕を抜く。残した尻尾は、萎れたまま氷漬けとなっていた。その氷は、間も無くあちらこちらへ振り回される。流れ続ける血。宙を掻く後ろ足。千切れた尻尾。こちらから離されない目。躍起になるその姿に、やはり一切の情は湧かなかった。

 このままだと、細い棘は折られてしまうだろう。情は沸かないが、痛めつける趣味もない。それに、わたしもそろそろ限界が近い気がする。四肢の熱はもう冷めていた。全身の傷は殆ど開いており、血に濡れていないところの方が少ない。

 終わらせよう。右の指輪へ魔力を集めたわたしは、その魔力を右足へと移した。そして、踵を地面に叩きつける。地面を割って現れた砂利の棘は、異形の生物の胸を深々と貫いた。そのまま棘はぐんぐんと伸び上がる。やがて、わたしの目線の高さまで成長した棘は、ゆっくりと静止した。

 魔物は、ぐったりと全身から力を抜く。時折痙攣を起こすも、とうとう抵抗する体力をも失ったようだ。それでもそいつは、息絶える瞬間もその後も、わたしから目を逸らすことはなかった。

 静まり返った広場。時折上がる呻き声。僅かにそよぐ風が、大木の葉を揺らす。

 ……終わった。戦いが、終わった。

 急速に抜けていく力。凍てつくように熱を失う手足。流れ続ける血。頭が重くなる。視界の端が、霧に覆われていく。

 もう、立っていられない。簡単に傾いだ身体。このまま倒れたら、痛いだろうな。そんなことを考えながら、わたしは自分の意識が遠退くのを、他人事のように捉えていた。

 意識を手放す直前に、誰かの声を聞いた気がしたけれど――それが気の所為かどうかなど、この時のわたしは知る由もなかった。

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