第一話 対角線の救い手 五節
握っていた指輪を付け直したわたしは、腰へと手をやる。そして、装着していた物を外した。
「ポーチの中は、まだ確認しておりません。広げてしまって構いませんでしょうか?」
持ち上げたこれは、きっちりと口を閉ざしている。革の分の重みしか感じず、動かしても中で何かがぶつかるような音も感触もしないため、実は中身が入っていないという可能性が高い。だが、わたしには何となくわかっていた。これは空ではない。この中には、大切な物が入っている。
「構わないが、見られなくないものは……」
言いかけたアスタルテ卿は、思い直したように瞬きをすると、続けた。
「わからないか」
「はい」
「汚れるようなもんは、テーブルに置かないでくれよ」
ウルバノさんに釘を刺される。番屋は食べ物となる魚を扱う所だから、当然の注意だ。だが、裏を返せば汚れた物でなければテーブルに乗せても良いということだろう。わたしはそう解釈して、慎重に立ち上がった。
「わかりました」
羽織っているタオルを肩にかけ直し、わたしはテーブルへと近付く。二人の傍にあるそれの前で足を止めたわたしは、さっそくポーチを開いてみた。そして、異様な光景に一瞬呼吸を止めてしまった。
ぽっかりと口を広げたポーチの裏側は、真っ黒だった。影で暗くなっているというわけではない。口の縁から内側は、まるでインクを流し込んだかのように真っ黒な空間が広がっていた。底がない。だからといって、床が見えることもない。物理を無視したこれは、一体何なのだろう。
「壊れていたか?」
横から声をかけられて、わたしはやっとその深い闇から抜け出した。
壊れる? 革のこれを示すなら、『破れる』が正しいのではないだろうか。それとも、アスタルテ卿はこれが何だか知っているのか。これも、常識の一つなのか。疑問は尽きない。
「あの……これは、どうなっているのでしょうか?」
「……うん?」
わたしは、ポーチの口を傾ける。アスタルテ卿は不思議そうにそれを覗き込もうとした。
その時、真っ黒な空間から何かが転がり出た。テーブルの上を滑ったそれは、伸ばしたアスタルテ卿の手を潜り抜けて、床へと落ちる。木のくぐもった衝突音と金属特有の高い音が同時に響いた。後を引くように流れたチェーンが、軽やかな音を立てた。
慌ててポーチの口を閉ざしたわたしは、アスタルテ卿によって拾い上げられたものに目を向けた。白い手の平の上にあるのは、平たい球型のトップが付いたペンダントだった。それが、わたしへと差し出される。
「ほら、気を付けろ」
「ありがとうございます」
わたしは両手の上に落とされたそれを、まじまじと見つめた。施されているカランコエの装飾には、細かい傷がある。その花の左の側面には、小さな蝶番がついていた。そこを中心に、上下へ切れ目が走っている。どうやらこれは、ロケットペンダントであるようだ。これが開けば、真円が横に二つ並んだシルエットになるだろう。
そこまで思考を巡らせたわたしは、自分の考えに疑問を持つ。この花の装飾は、『カランコエ』なのだろうか。カランコエの花を記憶の中から引き出そうとしたが、不思議なことにそれは頭の中を過りもしなかった。なぜ、この装飾をその花だと確信したのだろう。それに、どうしてわたしは、このペンダントにポーチや指輪とは異なる感情を抱いているのだろうか。
「見覚えはあるか?」
アスタルテ卿に問われたわたしは、それに頷く。
「あり、ます。恐らく」
見覚えは、ある。わたしは、いつもこれを見ていた気がする。――そう、見ていたのだ。着けていなかったはずだ。この手の平にのしかかる重みも、ポーチのようにしっくりと来るものではなかった。
ああ、そうか。そこで、唐突にこのペンダントへ抱く感情を理解した。見覚えはあるが、馴染みがない。そして大切な物の一つ。
これはきっと、わたしの物ではないのだ。それでは、このペンダントは誰の物なのか。そして、何故これがわたしのポーチに入っていたのか。……記憶を失う前のわたしは、これを盗んでしまった? 溢れる疑問は、とどまることを知らない。
わたしは、トップを傾ける。それから蝶番の丁度反対側にある、上下に並んだ小さな突起に爪を立てた。指先に軽く力を込め開けようとする。しかしそれは、口を閉ざしたままびくともしなかった。爪が曲がるほど力を込めるが、隙間は一向に広がらない。試しに逆方向へと力を入れてみたが、それでもロケットペンダントは全く開く気配がない。ひっくり返して蝶番を見るが、確認する限りでは変形した様子はなかった。
「開かねえのか」
首を伸ばしていたウルバノさんが呟く。それにわたしは頷いた。
「……はい」
「壊れてねえんだろ? 封印でもされてんのか?」
封印、とは何のことだろう。思わず首を傾げる。わたしの疑問を察した様子のアスタルテ卿は、ペンダントトップを指差した。
「魔力に反応して、開閉するようにするのが魔動封印だ。それが施されていれば、僕の魔力は弾かれる」
華奢な指先に、僅かな光が灯る。落ち着いた今ゴブレットに宿されたものと似たその光の周りを見てみれば、ほんの少し景色が変わっているように感じた。それに、なんとなく空気も違う。肌を針の先で微かに突かれるこの感覚は、光――アスタルテ卿の魔力のせいなのだろう。その柔らかな光を宿した指が、ロケットペンダントへと伸ばされる。ペンダントを差し出すと、彼の指先の光がトップへ触れた。次の瞬間、小さな光は弾け飛んで消えてしまった。
「封印されているな。お前もやってみろ」
彼は何事もなかったかのように指を戻しつつ、そう言った。
やってみろ、と言われても。アスタルテ卿に促されるまま、腕を引っ込めたわたしは、開かない飾りをじっと見る。どうやって魔力を込めるのだろう。残念ながら、こればかりは身体が覚えていないらしい。念じれば良いのか。それとも何か知識が必要なのか。わたしに扱えるだけの魔力があるのか。魔力を操れる技術があるのか。全ての答えは、相変わらず逃げ惑っている。そもそも魔力を操れたところで、自分のものではなさそうなこれが開くとは到底思えなかった。
手も足も出ないとは、このことだ。わたしは穴が開く前にペンダントから目を離しながら、首を振った。
「申し訳ございません。魔力の操り方も、わかりません」
「そうか。忘れているのか。他に欠損しているところが無ければ良いがな……」
今度も、彼の呟きに答えられそうもない。わたし自身も当然ウルバノさんも、全く分からないことばかりだからだ。
その時、ペンダントに落とされていた視線が、緩やかにわたしへ向けられた。かっちりと合った紫の目は、澄んだ光を閉じ込めている。そこに、純粋な疑問の色が浮かんでいた。ふっくらとした唇が開きかける。
だがそれは、瞬きと共に閉じられてしまった。……アスタルテ卿は、何を言いかけたのだろう。逸らされた視線が、再びペンダントへと向けられる。その目からは、既に疑問の色が失せていた。
「これに施されているのは、大して強くもない封印のようだ。やった事がないから、中身の保証は出来そうにないが、これくらいなら容易に破れるだろう」
今、彼の顔に現れているのは、子供のような好奇心だった。
「大抵の封印は受けた魔力を逃せるような作りになっているから、一ヶ所から注いでも駄目だ。全体を浸すように魔力漬けにして注いでいけば、力を逃がせずに崩れる可能性がある」
崩れるのは、果たして封印だけで済むのだろうか。わたしは目を煌めかせたアスタルテ卿から、ペンダントへと目を落とす。魔動封印がどのような作りになっているのか分からないが、きっと彼の言う通り中身の保証はされないだろう。彼の示す最悪の事態が起こってしまえば、手がかりとなるかもしれない貴重な一つを壊してしまうことになる。例え封印が解けても、中身が確認できなければ本末転倒だ。
ウルバノさんは、面倒そうにため息を吐く。
「おめえが触れば、魔道具は何でもぶっ壊れるだろうよ」
「賞賛として受けておく」
アスタルテ卿は、全く気にも留めていないようだ。悪態がさらりと流されると、ウルバノさんは眉を顰めて更に咎めた。
「完璧にぶっ壊した魔道具の武勇伝、アナトちゃん経由で色々聞いてんぞ」
「触れた物を全て壊した訳ではない。壊れたのは、もともと調子が悪い物が殆どだ。それに、そこから直せたものもある」
直せたものもある。とても不安になる言葉だ。ともかく、このペンダントは壊れている訳ではないから、彼には渡さない方が賢明なようだ。儚げで麗しい妖精の姿をとった貴族の紳士で、癒しの魔法を扱う命の恩人でも、破壊神にはこれを渡せない。わたしの物ではない可能性が高いなら尚更に。
わたしは、アスタルテ卿の目がウルバノさんへ逸れている隙に、ペンダントをポーチの中へ放り込んだ。ペンダントは、真っ黒な空間に触れると瞬く間に沈んでいった。テーブルから滑り落ちた時の動きと、なんら変わらない。軽く傾けると、その闇の中からペンダントの頭がひょっこりと顔を出す。そこから下は、切り取られたように黒に沈んでいた。試しに手を差し入れて取り出してみると、その黒はするりと皮が剥けるようにペンダントから離れていった。張った水の底にある物を引き上げる時の様子に似ているが、決定的に異なるのは、この黒の空間には触れた感覚が一切ないことだろう。手を突っ込んで、チェーンを指に引っ掛けペンダントを落とす。軽い抵抗があったのは、チェーンが伸びきる直前だった。やはり、ポーチの深さを無視している。底に穴は空いていないし、下から腕やペンダントトップが見えたりはしなかった。
あるべきところに、あるべき物が存在しないというのは、どうやら思っていた以上に堪えるらしい。脳と視覚のギャップで気持ち悪さを実感したわたしは、早々に手を引き抜きポーチを閉じた。そして、こちらを振り返ったアスタルテ卿へ頭を下げる。
「魔力漬けは、最終手段でお願い致します。ご提案を頂きましたところ、申し訳ありませんが……」
「悪い事は言わねえ。こいつに渡すくれえなら、さっさと思い出すか、魔道具屋がある町に行きな」
ウルバノさんの言葉に、アスタルテ卿はむっとした様子で顔を歪めた。
その時だった。ざわっと、肌が粟立つ。強く脈打った心音で、身体中に緊張が走った。胸から何か大きな塊が落ちたようなこの感覚は、虫の知らせというものだろうか。髪を乾かしていないこととは比べ物にならない程、頭が冷えていく。それに反して、四肢は熱を持ち出した。肌に張り付いたままの濡れた髪の感覚も、感じていた痛みも引いていく。
何か、悪い事が起こる。それが悪寒となって駆け上った瞬間、外で金属同士がぶつかり合う音が鳴り響いた。弾かれたように、アスタルテ卿は番屋の入り口を振り返る。ウルバノさんは椅子を蹴倒しながら、断続的に響き渡る音のもとへと駆け出した。
「おめえらは物置に隠れてろ!」
彼は、そばにあるバケツから何本もの銛を鷲掴むと、扉を壊さん勢いで引き開け出て行った。開け放たれた扉から、鮮明な音が流れ込む。耳を劈くようなこれは、鐘の音だった。
たった数秒で起こった出来事だが、不思議とわたしの頭は遅れずに全てを噛み砕いていた。直前に予感として察知していたからかもしれない。そのおかげで、遅れて入り口へと駆け出そうとしたアスタルテ卿の腕をつかむことが出来た。
彼は自分の腕を見下ろした後、わたしに目を移した。
「怪我人が出る。僕は行くが、お前は隠れていろ」
それにわたしは首を振った。
「ウルバノさんは、あなたとわたしに隠れろと仰いました。危険な何かが起こっているのではないでしょうか?」
アスタルテ卿はゆっくり瞬きをすると、髪を引っ張りながら入り口へと顔を向けた。
「あの警鐘は、魔物が村に入り込んだ時のものだ」
魔物? 新たな言葉に意識が逸れる。その隙に、彼はわたしの手を引き剥がしてしまった。わたしは、再びアスタルテ卿の腕を掴み直そうとした。しかし、手は彼に触れる直前で何かに遮られてしまった。
「僕が出たら、扉を閉めて部屋に隠れていろ。終わったら呼びに来る」
アスタルテ卿は、いつの間にか構えていた杯を下ろすと、背を向けた。突如現れた見えない壁に怯んでいたわたしは、ローブを翻しながら表へ飛び出す白い影を見送ることしか出来なかった。