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名もなき愚者たちの放浪記  作者: ひるもじ
第一章 ナダ国
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第一話 対角線の救い手 四節

「……話は後だ。とにかく、服を着ろ」

 間も無く我に返ったアスタルテ卿は、わたしやウルバノさんを見やった後、そう促した。

 わたしは指し示された小部屋に入り、戸を閉める。左右に棚が取り付けられたここは、倉庫のようだ。網や縄、浮標が押し込まれている。それらの隙間を見つけて着替えを置いたわたしは、ローブのボタンを外した。

 乾いた服に袖を通し、改めてそれを見下ろす。裂かれた跡や、磨り減っている跡、焦げた跡など様々な傷を負った服は、どう見ても無事ではなかった。今は見えないが、背中の裂傷も酷いものだ。胸甲やブーツと合わせれば、きっと考え付く限りの傷跡を網羅(もうら)していただろう。流石のアスタルテ卿も、胸甲やブーツの終末感を察したのか、服と一緒に持って来ることを断念したようだ。

 ポーチまで装着したところで、その重みに安心感が生まれる。そうして気が抜けると、再び寒気に襲われた。肌が覗いているこの服は、既にほとんどの機能が失われていた。

 わたしは先ほどまで巻いていたタオルを服の上から羽織った。相変わらず酷い格好ではあるが、何も羽織らないより幾らか良いだろう。特に、背中が隠れることで外気に晒されずに済んでいるため、いくらか寒気が引いた。

 ローブを畳み、部屋を出る。するとウルバノさんと目が合った。彼は、わたしの頭の天辺から爪先までじろじろと見回し、頷く。

「うん、何べん見てもひっでえカッコだな」

「お目汚しすみません」

「まあ、服がそれしかねえんじゃ、しょうがねんだろうよ。タオルは持ってきな」

「はい。お借りします」

 頭を掻いた彼は、くるりと暖炉を振り返る。わたしもその視線を辿ると、先ほどまでわたしが座っていた暖炉の前の椅子に、白い何かが丸まっていた。

「ほら、アスタルテ。お嬢さんがローブ返しに来たぞ」

「……寒い」

 白い塊――アスタルテ卿は、蹲ったまま呟いた。……そこまで、寒いだろうか。確かにこのローブの保温性は高かった。しかし、酷いと言われた今のわたしの格好でも、この空間は暖炉のおかげで暖かく感じた。決して暖炉の前で丸まってしまう程の室内温度ではないはずなのだが。

 困惑しながらも、ローブを返すべく傍に寄る。アスタルテ卿は、肩を強張らせながら暖炉の炎へと身を乗り出していた。小さな背中が小刻みに震えている。少し迷ったが、わたしは畳んだそれを広げた。そして彼の背中へそっと被せる。

「……悪いな」

 細く長い指先が、純白の布を握り込む。彼は、ゆるゆると息を吐いた。

「お加減が優れませんか?」

 つい尋ねてしまうと、アスタルテ卿は首を横へと振った。

「いや、いつも通りだ」

 これが、いつも通りなのだろうか。わたしは少し離れた椅子に座るウルバノさんを振り返る。

「いつもと変わんねえよ。女子供含めても、村で一番貧弱だ」

 彼の言葉に、アスタルテ卿は渋々といった様子で頷いた。

「……否定はしない」

 ウルバノさんは呆れたように軽く笑う。

「飯食ってそれだもんなぁ」

「体質だから、仕方ないだろう」

 わたしは、もう一度アスタルテ卿を見た。白い顔を青色へと変えている彼は、それでもローブに袖を通しながら表情を和らげていた。

 わたしの視線を感じたのか、アスタルテ卿はちらりとわたしを見上げると、眉根を寄せた。彼の目が、足から(すね)(もも)、脇腹へと向かう。その辺りがどのようになっているのか、触れている空気の感覚でよくわかっていた。

「僕のことはいい。それよりも、お前だ。少しは落ち着いたか? その格好は落ち着かないだろうが……」

 気遣わしげな視線を寄越すアスタルテ卿に、わたしは身体へ痛みが走らない程度に会釈をした。

「お陰様で、傷一つございません。お気遣いや様々な施しを頂きましたこと、身に余る光栄に存じます」

 身体が覚える感覚通りに顔を上げる。すると、先ほどとは打って変わり不機嫌そうに口を引き結んだ彼の姿があった。……何か、作法を間違っただろうか。それとも、痛みを堪えてもう少し頭を下げた方が良かったのか。

 アスタルテ卿は曲げていた身体を持ち上げると、首元のボタンを留めながらわたしを見据えた。

「畏まる必要はない。先ほどのように気楽に話せ。お前は僕の臣下でも何でもないだろう」

 きっぱりと言い切った彼は、立ち上がりながらローブの折り目を正すと、わたしの肩にそっと触れた。そして、やんわりと身体を引き、今し方自分が座っていたところへとわたしの身体を導く。促されるまま、わたしは椅子へと座ってしまった。

 アスタルテ卿はウルバノさんへ目配せをする。ウルバノさんは面倒臭そうに頭を掻くと、席を立った。そしてわたしと程近い椅子へと腰を下ろしたアスタルテ卿に倣い、すぐ傍にある椅子に身を預けた。それを見計らったアスタルテ卿は、再びわたしへと向き直った。

「分かっていることだろうが、始めに言っておく。お前の怪我は、完治していない」

 それに、わたしは頷いた。これだけ身を裂かれるような激痛が走っているのだ。完治していないことは、嫌でも自覚してしまう。

 ウルバノさんは、珍しげに片眉を上げた。それを気にもとめず、彼は続けた。

「傷口を強引にくっつけているだけだ。そうだな……縫合(ほうごう)しているだけだと考えて良い。無理に動けば、傷が開いてまた出血する」

「ちょっくら待ってくれ、アスタルテ」

 ウルバノさんが声を上げる。そして、訝しげにわたしを見た。

「治せなかったのか?」

 アスタルテ卿は、重々しく頷いた。

「足りなかった。あの血の量を見ただろう。全身、それも頭からの出血が特に酷かったんだ。早急に血を止める必要があった上に、錯乱状態にも陥っていたから、高ぶった神経を抑えなければならなかった。流石に魔力も尽きて、治しきれなかった。……そういえば、お前は一度目を覚ましたことを憶えているか?」

 彼に問われたわたしは、思考を巡らせる。落ち着いた今思い返すと、現在に至るまでの最初の出来事が曖昧になっていた。アスタルテ卿を起こそうとして、ローブを汚してしまったのは鮮明に憶えている。その前の記憶は、何だっただろうか。磯の香りや波の音は、あまりあてにならない。暖かな空気に触れた記憶は、どこの出来事だったのだろうか。咳き込んだ拍子に走った痛みを堪えたのは、いつだ? 何かが落ちる音は、どこの記憶だ? それとも、これらは全て夢の中の出来事だったのだろうか。

 考えても、明確な答えは出そうにない。わたしは左右に首を振った。

「わかりません。はっきりと憶えているのは、倒れていたあなたを起こそうとしていたところからです」

「……そうか」

 アスタルテ卿は、するりと目を逸らすと、片手でその白い髪を引っ張った。間も無く、彼の目が再びわたしを捉える。

「先ほども言ったが、頭の損傷が少なからずあった。あれだけの傷があったということは、頭部への衝撃も相当のものだったろう。だから……生活能力に欠損が生じていても、何らおかしなことではない」

 そこまで聞いたわたしは、身を清めた時の事を思い出した。そして、次に来るアスタルテ卿の言葉も察してしまう。

「確認したが、そこの風呂の湯の出し方は一般的なものと変わらなかった。見れば誰でもすぐにわかるものだろう。それに、服の乾かし方もわからないようだな」

 ウルバノさんのわたしを見る目が、痛ましげなものへと変わる。それから逃れるように、わたしは紫色の目をじっと見つめた。アスタルテ卿は、表情を変えずに続けた。

「結論を述べてしまうが、お前は記憶障害だろう」

「記憶障害……」

 思わず、復唱をする。それに彼は頷いた。

「少なくとも手続き型で、生活に影響を及ぼす類のものだ」

 どうやらわたしは、致命的な障害を抱えているらしい。心当たりはあったが、それでもどこか他人事のように聞いてしまうのは自覚が全くないからだ。

「目先の問題は、どこが欠けていてどこが足りているかが不明瞭なところだな」

 アスタルテ卿は再び髪を引っ張ると、小さくため息を吐いた。

「幸い重度な症状ではなさそうだ。呼吸、歩行も異常はないし、会話も成り立っている。身体も服も洗えている。着ている物自体に問題はあるが、服の着脱も出来ている。行き過ぎの面はあるが、礼儀作法も弁えている」

 彼の評価に、わたしは安堵する。作法は身体に任せていれば良さそうだ。

「……なあ、今んとこ他の問題はわかんねえんだろ?」

 アスタルテ卿が一つ息を吐いたところで、ウルバノさんが割り込んだ。彼は、頭を軽く振ると改めてわたしを見据えた。

「それよりも、だ。俺としちゃ、あんたの正体が気になるわけだ」

 無遠慮にわたしを眺めるその視線は、わたしの行動一つ一つに集中している証だろう。

 わたしは、彼の視線を真正面から受け止めた。するとウルバノさんは、狼狽えたように視線をうろつかせる。

「あー、くそ……」

 しかし、間も無く立て直したのか、わたしの首元に目を固定した。

「俺が気になってんのは、あんたが何者か、連れはどこか、ストレイディに来た理由、怪我の理由だ。落ち着いた今なら、答えられんだろ」

 焦ったような問いに、わたしは一度瞬きをする。何故、突然彼が焦りだしたのか、わからなかったからだ。言っていることは分かるのだが……。……否、『ストレイディ』だけがわからない。

「少し待て。ウルバノ、構わないな?」

 それを察したのか、アスタルテ卿がウルバノさんを止めた。ウルバノさんははっとしたようにアスタルテ卿を振り返る。そして目を閉じこめかみを抑えると、彼の問いに頷いた。

 アスタルテ卿はそれを見た後、わたしへ向き直り頭を下げた。

不躾(ぶしつけ)な態度だった。不快な思いをしたなら、済まない。許してやって欲しい」

 不快な思い、とは。わたしは首を傾げる。もしかすると、先ほどのウルバノさんの態度のことだろうか。ただ驚いて、咄嗟に返事を返せなかったわたしを、アスタルテ卿はどう見たのだろう。

 ともかく、頭を下げさせたままなのは良くない。慌ててわたしは口を開いた。

「お顔をお上げください。不快な思いはしていません。ただ、驚いただけです。お気になさらないでください」

「……寛容な配慮、感謝する」

 アスタルテ卿は顔を上げると、続いてウルバノさんに向き直った。彼は、居心地悪そうに目を逸らしている。アスタルテ卿は逃さないとばかりに、その目で自分より大きな男を射抜いた。

「きちんと名乗りもせずに問い詰めるのは、どうかと思うぞ。それに、頭に怪我を負った者へ矢継ぎ早に質問をして、まともに答えられると思うか? 礼儀を尽くしているこいつに対する態度として、正しくないだろう」

 アスタルテ卿は、静かに彼を批難した。その堂々とした態度や言葉から、彼の威厳や貴族としての器が垣間見える。初めからアスタルテ卿の口調や態度は尊大なものであったが、中身はそれに伴っているようだった。華奢な身体が大きく見えた。

「……悪かったよ。こういうの、やったことねえんだ」

 ウルバノさんは、ばつが悪そうにわたしへ頭を下げた。わたしはそれに首を振って応えた。

「大丈夫です。気にしてませんので、顔を上げてください」

 それにアスタルテ卿はまた眉を寄せる。何か言いたげにわたしを向いたが、ウルバノさんが顔を上げたことにより、言葉になることはなかった。

「あんたのそれ(・・)は、魔法かなんかか?」

 ウルバノさんは、わたしから目を逸らしたまま問いを投げて来た。

 それとは何を示しているのだろう。考える間も無く、アスタルテ卿が再び会話に割り込んだ。

「それこそ、今は置いておけ」

「……だなぁ」

 ウルバノさんは頭を掻くと、とうとうわたしから顔を背けてしまった。

「すまねえが、アスタルテが進めてくれや。調子狂う」

 それを聞いたアスタルテ卿は、肩を竦める。そして、再度わたしと向き直ると、背筋を伸ばした。つられたわたしも背筋を伸ばす。腰から上へと激痛が走ったが、その痛みにも段々と慣れて来た。

「先ほども名乗ったが、僕はアスタルテ。こいつはウルバノ・コンタディーノ。察したろうが、見ての通り漁師だ。お前の名前は?」

 問われたわたしは、右手を持ち上げた。光を反射し鈍く光った中指の指輪を外す。ペンタクルを刻まれた平たい石が嵌め込まれたそれを手のひらの上に乗せると、少しだけ回して二人へと差し出した。

「これに『Philo』と刻まれています。恐らく、わたしの名前です」

 顔を背けていたウルバノさんが、わたしを振り返る。振り返った彼と目の前のアスタルテ卿は、揃って似たような表情を浮かべていた。考えていることは、はっきりと伝わって来る。

 アスタルテ卿は指輪を手に取り、内側を覗き込んだ。そしてため息を吐くと、それをわたしへと返しながら呟いた。

「つまり、憶えていなかったのか」

「はい」

 彼の独り言とも取れる問いに頷く。アスタルテ卿は眉間を抑えながら、更に問いを寄越した。

「……何か、憶えていることは?」

 駄目でもともとのような彼の問いに、わたしは先ほど思考の海から拾った記憶を取り出した。

「アスタルテ卿のローブを血で汚してしまいました。そこからは、はっきりと憶えています。申し訳ございません。他は、ええと……咳き込んで全身が痛んだり……暖かい空気と、何か落ちる音が、あったような……」

 アスタルテ卿はわたしの答えに頷いた。

「僕を揺り動かす直前に咳をしていたな。空気と音は、恐らくお前が錯乱状態になった時の記憶だろう。全身の傷を塞いでいる時に、一気に力を持っていかれて、杯を落とした。それが以前にもあったのなら、別の記憶かもしれないが」

 彼の言葉を聞いたわたしは、改めて不安定に浮いている記憶をできるだけ手繰り寄せた。……言われてみれば、咳によって引き起こされた二次災害を堪えきった後に、アスタルテ卿を起こしたような気がする。暖かい空気も、先ほど喉と足に施された癒しの力のものに似ているような気もするし、音も軽い物が砂に落ちた音のようにも思える。

 しかしそれらは、あくまでも言われてみれば(・・・・・・・)といった感覚だ。しっかりと記憶同士が繋がっているわけではないため、アスタルテ卿の言う通り彼の認知していない記憶なのかもしれない。本当に、夢の中の出来事だったのかもしれない。記憶違いである可能性だってあるのだ。それを考えていくと、ほとんど霧に包まれすり抜けていく記憶の欠片たちに、全く自信を持てなくなってきた。

「……申し訳ありません。明確な記憶ではありませんので、その感覚も真贋は定かではありません」

「それは構わない。それより、憶えている記憶はそれだけか?」

 アスタルテ卿の問いに、迷いながら頷いた。

「……はい。他は、よくわかりません」

 散らばっている欠片たちは、手を伸ばせば届きそうではある。だが実際に思考の海に沈み手を伸ばすと、まるで宙を漂う埃のように指先を掠めながら巧みにすり抜け離れてしまうのだ。もどかしい感覚で別のものをつかもうとすれば、同じように他の欠片も逃げていく。

 その欠片は、本当にわたしの記憶なのか。記憶が欲しいだけのわたしが作る、まやかしで出来た記憶のようなもの(・・・・・・・・)なのではないか。その不安を抱きながら追っていくと、やがてわたしの周囲には何もなくなってしまうような気がして、手を伸ばすことも躊躇してしまいたくなった。その中には、自分の名前や家族、知人の記憶の情報もあるはずなのに、手繰り寄せようとする行為が酷く恐ろしく思えた。

 ーー本当は、『わたし』という人間は存在しないのではないか。そんな馬鹿げた考えまで浮かんでくる始末だ。無理に思い出そうとしない方が良いのかもしれない。例え本当に存在しない人間だとしても、思い出さなければわからないから。

 アスタルテ卿は少しの間口を閉ざしていたが、やがて静かに唇を動かした。

「フィロ」

「はい」

 即座に返事をする。返事をした後に、気が付いた。

「反射的に返事をするようであれば、これはほほ確実にお前の名前だな」

 何もないはずのわたしの周囲に、しっかりと地面ができたような感覚が生まれた。

 それを知ってか知らでか。アスタルテ卿は考え込むように指を組む。

「しかし、『(フィロ)』か……。鎧にその服装、なにより女のお前に(やいば)の名。傭兵の家系か何かだったのか……?」

 彼の問いに応えられる者はいない。わたしもアスタルテ卿の問いの答えを探し記憶を辿ったが、それらは逃げていくばかりだった。

 それでも、過去を見つけられなくても、先ほどまでの不安は薄れていた。『フィロ』という染み付いた名前を、アスタルテ卿がはっきりと陽の下に出して、わたしに返してくれたからだ。彼は確認の為に呼んだだけで、わたしの不安を除くつもりなど無かっただろう。だが、アスタルテ卿は文字に纏わりついていた霧を音で振り払ってくれた。自分の名前を思い出す。それはわたしの中の確かな世界が蘇ったことと同義だった。

 安心すると、視界が開ける。その開けた視界で、うっかりと見落としていたことに気が付けた。

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