第一話 対角線の救い手 三節
番屋は、わたしたちが倒れていた場所から程近い船着き場にあった。木造の平屋がちらほらと並ぶ石造りのここは、明るい時間であるのにも関わらず人けがない。ウルバノさんが言っていたことだが、早朝や夕方近くになれば今とは違った様子が見れるのだろう。今は、波の音と古めかしい船が軋む音、海鳥の鳴き声が響き渡るだけで、人間の気配はしなかった。
ウルバノさんはとある小屋の扉まで歩を進めると、慣れた様子で蹴り開けた。蝶番の悲鳴が聞こえる。酷い振動で全身が引き攣り、思わず唇を噛み締めた。不貞腐れた様子のアスタルテちゃんのことも、必死にしがみつくわたしのことも、全く気に留めた様子は無かった。そもそも、彼はわたしの状態をわかっていないのだから、当然とも思える。
「さて、おめえは……」
「椅子にしてくれ」
呻くように言った彼女に、ウルバノさんは苦笑をしながら従った。わたしは、椅子を蹴り出す彼のシャツから手を離す。わたしの触れた場所には、悉く血痕が付いていた。
アスタルテちゃんは、疲れたようにため息を吐くと、小屋の奥を手で示した。
「血を洗い流して来い。さっきも言ったが、その格好だと家には入れられない」
わたしは、それに首を横へと振る。わたしよりも、わたしのせいで汚れてしまった人が優先されるべきだ。
「わたしは、後で良いよ。それより、アスタルテちゃんが先の方が……」
「アスタルテちゃん?」
その時、成り行きを見守っていたウルバノさんが、突然素っ頓狂な声を上げた。アスタルテちゃんは、それに頭を抱える。
「ア、アスタルテちゃん?」
ウルバノさんは、口を戦慄かせながら、もう一度尋ねた。
……もしかして、名前を聞き取り間違えていたのだろうか。不安が過ぎる。
「……ごめんなさい、シスター様。お名前間違えたかな?」
「シスター!」
とうとう、ウルバノさんが大声を上げて笑い出す。白い妖精は、苛立たしげに唸り声を上げた。……シスターでもなかったのだろうか。では、本当は医者だったのか?
混乱するわたしを余所に、手を叩いて大笑いするウルバノさんの脇腹へ金色のゴブレットがぶつけられた。
「黙れ!」
可憐な顔を鬼の形相へと変えた彼女が、椅子を倒しながら立ち上がる。再び振り上げられた杯を前にしたウルバノさんは、両手でそれを防ぐ仕草をした。笑いの発作は、まだ収まっていないようだ。
「ア、アスタルテちゃん、お転婆が過ぎるぞ……! ぶふっ」
「黙っていろ!」
「シスター様、お口がわりいな!」
「まだ言うか!」
振り下ろされたゴブレットは、軽い音と共に弾き返る。目に涙を浮かべるウルバノさんは、防ぐ形を取ってはいるが、されるがままになっている。幾度となく殴られている彼よりも、殴っている本人の方がダメージを受けているように見えるのは気のせいだろうか。
「……おい、お前!」
「うん?」
諦めたのだろう。疲れた様子の妖精は、椅子を立て直すと、わたしを鋭く睨み付けた。未だ混乱していたわたしは、気の抜けた返事をしてしまった。更に、眦がつり上がった。
「先に名乗っておく。僕はアスタルテ・ミュレックス。ミュレックス男爵領主の嫡男だ。断じて、シスターではないからな!」
やはり、名前はアスタルテで合っていた。そして彼女はシスターではなく、嫡男のようだ。……嫡男? 嫡女、ではなく?
改めて、わたしは彼女……彼? とにかく、麗しい妖精を観察する。白皙の肌。ローブを着ていても分かる、華奢な体躯。ショートカットの白い髪。柳眉。宝石のような紫の目。それを縁取る長い睫毛。愛らしい顔のパーツに、ふっくらとした唇。……これは、本当に男なのだろうか。貴族なら、深窓の令嬢と言われた方がしっくりと来る。それに、名前などまるっきり女性のものではないか。
「えっと……アスタルテ卿? でも、名前……」
混乱したまま口を開くと、妖精はどっかりと椅子に腰を下ろし、頬杖をついた。仕草は、確かに男らしい。それに、よく見れば喉仏が出ていた。アスタルテ卿を起こした時に気が付かなかったのは、着ているローブの首元が詰まっており、丁度それの影になっていたからだろう。
「占い師が、母のお腹にいる胎児を女だと判断した。僕が産まれる前に亡くなった祖父が、女の名前を胎児に付けた。産まれてみたら、実は性別が男だった。よくある話だろう」
「性別と性格だけがついてかなかったんだなぁ、勿体ねえ」
ウルバノさんは、腕を組んでアスタルテ卿を見つめた。惜しいものを見るような目だった。それを受けた……彼、はウルバノさんに鋭く尖らせた視線を送る。
「おい、何が言いたい? その目、治してやろうか?」
「おう、村中の人間を治さねえとな!」
「……もういい。お前も、さっさと風呂に入って来い」
視線を逸らしたアスタルテ卿は、面倒そうに手を払う仕草をする。
貴族より先に身を清めても良いものか。迷ったわたしだったが、少し考えて思い直す。きっと、これ以上ごねても彼の機嫌が降下していくだけだろう。思い至ったわたしは、彼の厚意を有り難く賜ることにした。
四苦八苦して脱いだ革の胸甲やブーツは、歪に変形してしまっており、既に装着出来るものではなくなっていた。凹みや裂傷で損傷が酷く、また繋ぎ目の金具が幾らか足りていない。大きく磨耗している箇所は薄く、指先で容易に曲げられるほど劣化してしまっていた。例え苦労して再びこれらを着た所で、その防護能力に不安しか覚えないだろう。直しようもないため、捨ててしまった方が良さそうだ。
続いて、ぼろぼろの服を脱ぎ始める。乾いた血で皮膚と生地がくっ付いており、引っ張ると肌に痛みが走った。隙間に指を差し入れ、無理やり剥がす。軽やかに血が割れる音に反して、駆け抜ける痛みは加減を知らないようだ。じんわりと視界が滲んでいくのを感じながら、今度は慎重に服を脱いでいく。そこで漸く、わたしは腰にポーチを付けていることに気が付いた。馴染んだ重さのそれは、艶のある飴色だ。使い込まれた革のポーチは、薄く血を浴びていたものの、わたしが所持しているものの中では一番まともな見てくれだった。
蛇口から出した水で全身を濡らし、石鹸を泡立てる。その泡を身体中に擦り付けると、それはみるみるうちに薄紅へと染まっていった。何度か洗い流すと、やがて薄く焼けた白い肌が見えてきた。これが本来の色のようだ。頭にも馴染ませるように泡を付け濯ぐと、ベタついていた髪の毛から徐々に赤黒い血が落ちていった。それと共に清涼感も覚えていく。――が。
わたしは、鏡を見つめた。裸の女が、こちらを見つめ返している。深紅の長い髪が顔や背中に張り付いており、隙間から碧眼が覗いていた。真っ青な顔色。落ち切らなかった血の跡が残る頰。髪の隙間から覗く目。水の冷たさによって紫色に変色している唇。一瞬、心臓が嫌な音を立てた。前髪を搔き上げると、目の前の女も口を軽く引きつらせながら同じように動く。漸く晒された顔は、暢気そうな冴えないものだった。
改めて、肩越しに髪を触る。違和感があるのは、まだ洗いきれていないからだろうか。蛇口を捻って、水を頭から浴びた。もう一度全身を泡まみれにした後、洗い流す。そのうち、違和感が徐々に消えていった。もう一度鏡を見ると、相変わらず薄ぼんやりとした女が真っ青な顔を向けて来たが、引っ掛かりは随分と和らいでいた。
違和感は、きっと血の跡が残っていたからだ。まだ顔色が悪いから、多少それが残っても仕方がない。わたしはそう結論付けると、指輪と服を洗うことに専念するため意識を向けた。
洗い終えた服は、当然しとどに濡れている。染み付いた血は落ち切らなかったが、それでも酷く傷んでいることを除けば見れる服にはなっている。指輪をはめ直しながら、わたしは洗い終えた満足感が萎んで行くのを感じていた。一先ず髪を握って含んでいる水を絞り落とし、置いてあったタオルで身体中の水滴を拭き取る。そして手持ち無沙汰になると、再び問題に直面した。
……着る服が無い。浴室中を見回しても、タオル以外の布を探し出すことはできなかった。濡れていないのはポーチくらいだ。先ほどまで活躍していた石鹸も、その隣に置いてある身嗜み用の剃刀も、全く解決の糸口を見つけるものではない。唯一あったのは、植物の茎を編んで作られたトングサンダルだ。
このままでは凍えてしまうのだが、どうしたものか。一先ず身体にタオルを巻き付け、サンダルに足を通す。それでも下がった体温は戻ろうとはしなかった。蹲って、服を見やる。水を絞りはしたが、乾くのにどれほど掛かるのだろうか。
寒さに震えながら暫く経った後、浴室の扉が叩かれた。
「どうした? 何かあったか?」
アスタルテ卿だ。先ほどよりしっかりとした声だった。どうやら、玉を転がしたような声とは遠い男声のようだ。それでも、落ち着いた女声のようにも聞こえるのは、きっと彼の容姿を知っているからだろう。
わたしは、歯の根の合わない口を必死に動かした。
「ふ、服を、洗ってしまって……着る、物が、あ、ありません」
「お前、何で震えて……」
そこで一瞬言葉が途切れる。次の瞬間、扉が強く叩かれた。
「水で洗ったのか?! 馬鹿だろう!」
「おいおい、嘘だろ?」
「一度ここを開けろ!」
「そんな時期じゃねえだろうに……」
アスタルテ卿に続いたウルバノさんの呟きには、呆れが多分に含まれていた。もしかして、と思う間も無く、わたしは常識外れなことをしてしまったのだろう。
鍵を開け、そっとドアノブを捻る。するとノブがわたしの手を離れ、扉が強引に開かれた。外側へと投げ出されたわたしの身体は、次の瞬間柔らかいものに包まれる。視界は全て白に染まった。爽やかなハーブの香りが、鼻腔を擽った。
「暖炉を使え」
被さっていた真っ白なそれが、顔から退けられる。温もりが残るこれは、どうやらアスタルテ卿のローブのようだ。煌めく紫色と視線が交わったが、間も無くそれは横へとずらされた。彼はローブの首元のボタンを留めると、そっと両肩に触れて距離を取るように一歩引いた。わたしと凡そ同じ高さにあるアスタルテ卿の目は、今肩越しに振り返った先にいるウルバノさんの背中へと向けられた。
「ウルバノ、点けてやってくれ」
「もう点けた」
「ありがとう」
彼は片足を引いてわたしの腰に手を回す。そのまま軽く押されると、自然と足が動き出した。アスタルテ卿が着ている上物そうなシャツやすらりとしたズボンと相まって、慣れた様子のエスコートは育ちの良さが浮き彫りとなっていた。惜しいのは、アスタルテ卿の美貌が女性的な方面へ行ってしまっていることと、華奢な体躯でわたしよりほんの少しだけ背が低いことだ。それでもそれを忘れさせるくらいの余裕を見て取れるから、彼は正に洗練された紳士なのだろう。
内側からローブの合わせ目を握り、露出を抑えると、温かさがより伝わってきた。滑らかな布を見下ろすと、汚れが一切付いていない純白が広がっていた。ふと気掛かりな点に思い至り、身体を緩く捻ってローブを見下ろす。砂もわたしの手形も、どこにも付いていない。ということは、これは先ほどまで彼が着用していたものではなさそうだ。わたしが身を清めている間に、着替えを用意したのだろう。
ウルバノさんは、わたしたちがやって来ると面倒くさそうに立ち上がった。その向こうには、赤々と燃える炎を抱える暖炉があった。
「ったく、信じらんねえな」
ウルバノさんは頭を掻きながらこちらを振り返ると、暖炉の前を空ける。その瞬間、温かな空気がふんわりとこちらまで流れてきた。思わず息を吐くと、わたしの腰から手が離れた。
「お前の服、乾かすから触るぞ」
思わずアスタルテ卿を振り返ると、彼は既に浴室へと足を向けていた。わたしが拒否する可能性は微塵も考えていない様子である。
「はい。お願いします」
わたしも、彼の機嫌を損ねたくはない。一瞬過ぎった、貴族にそんなことをさせて良いのか、という疑問を自分の中で押し潰し、なんとか頷いた。
ちらりと、アスタルテ卿がわたしを振り返る。何か言いたげに唇が開かれたが、結局それは緩く噛まれ、間も無く再び歩を進めていった。
「ほら、お嬢さん。風邪引くぞ」
ウルバノさんから、声をかけられる。わたしも暖炉の前へと足を進めた。
勧められた椅子に座って、暖炉の炎を見つめる。薪木が炎に舐められ、爆ぜていた。冷え切った身体に温もりが浸透し、腹の底から熱が湧き上がる。揺れる炎に、漂う温風に、木が割れる軽快な音に、わたしは全身から力が抜けていくのを感じた。
――ここは、きっと安全な場所だ。
そう実感したその時、密やかな足音が真後ろからわたしのもとへと忍び寄る。心臓が、嫌な音を立てた。靄がかかっていた頭が冴え渡る。
「……寝たのか?」
アスタルテ卿の声だ。耳に届いた声の角度からすると、ウルバノさんへと向けられたものだろう。尋ねている内容は、十中八九わたしのことだ。
わたしは首だけで振り返る。そこには、椅子に座り頬杖をついているウルバノさんと、わたしの服とポーチを抱えたアスタルテ卿がいた。
彼に抱えられているそれらは相変わらずぼろぼろだったが、先ほどより汚れが落ちている上に、天日干ししたように乾いてふっくらとしているように見えた。うとうとしていたとはいえ、眠った記憶はない。どうやってこの短時間で乾かしたのだろうか。
「起きてんな」
「なら、服を着てくれ。悪いが、僕も寒い」
よく見れば、アスタルテ卿の顔色は少し悪くなっている。裸で水を被ったわたしはともかく、何故服を着ているアスタルテ卿まで凍えているのだろうか。……この温かいローブを、わたしが借りているからか。
わたしはローブの中でタオルが外れないように巻き直すと、慌てて立ち上がる。
「ご、ごめんなさい。すぐに返します」
そしてボタンを外そうとした。しかしアスタルテ卿はわたしの胸元へ服を押し付け、それを阻んだ。
「女が易々と肌を晒すな。向こうで着替えて来い」
彼が紳士であると、つくづく感じた。それに関してウルバノさんがからかわないのも、普段と変わらない振る舞いであることが伺えた。やはり少しだけ惜しいのが、顔色が悪いところである。
わたしはローブ越しに服を受け取ると、そっと腰を折り曲げた。
「お気遣い感謝致します、アスタルテ卿」
慣れ親しんだ礼を取ると、腰から背中へと激痛が走った。気を付けてはいたが、皮膚を引きつらせるような動作は、まだできないようだ。再三となる痛みを耐えるために唇を噛み、やがて去った後に顔を上げた。
するとそこには、呆気にとられたような表情のアスタルテ卿と、難しい表情を浮かべるウルバノさんがいた。