第一話 対角線の救い手 二節
触れた真っ白なそれは、わたしの指を容易に飲み込んだ。滑らかな手触りの布は柔らかく、しっとりとした感触を手のひら全体に広げていた。そっと押し込むと、鼻に抜けるような爽やかな香りが立ち上る。清涼感のあるそれは、医者が纏う消毒用のハーブの香りを連想させた。
……本当に、人なのかな、これ。先程聞こえた呻き声は、実は空耳だったのではないか。そんな疑問が湧き上がるほど、この布は清潔過ぎた。陽の光を遮らない晴天の下、布に包まれた人間の体臭が全く漂わないのも不可思議な点だった。一大事のように見えたから、この綺麗な布を汚してまで安否を確かめようと思ったのに。この布にくっきりと残ったわたしの手形は、恐らく洗濯をしても完全には落ちなくなってしまっただろう。余計なことをしてしまったのだろうか。
不安になったわたしは、手が痛むことを覚悟して、もう一度布を押してみた。浅く沈んだ手は、意気込んだわたしの思いを受けてか、呆気なく硬い何かへ到達した。布越しに円柱型の何かをつかんだわたしは、走る痛みに唇を噛み締めながら揺すった。
「……う……」
再び、呻き声が聞こえた。今度ははっきりと耳に届いた。空耳ではなかったのだ。わたしは飛び跳ねた心臓をそのままに、手に余るそれをつかみ直して揺さぶる。すると、されるがままに揺れていた布の塊がころんと転がった。しまった、と思ったのは、その布がわたしの方――血みどろの砂場に落ち着いた後だった。今度こそ、手遅れだ。罪は認めよう。
転がった布は、一度空気を含んで膨らむと、衣擦れの音を立てながら萎れていった。空気を吐き出した布は、中途半端に折れ曲がる。その曲がった隙間から、何かが覗いていた。そこで、わたしは漸くこの布の構造へと意識を向けた。長く広がった袖。それよりも長い裾。大きなフード。
ふんだんに布が使われているこれは、ローブだ。その布の隙間から覗いているのは、人の首だった。良くも悪くも、布に覆われているのは人間であるようだ。雪のように白くほっそりとした首筋は、フードの影に隠れて細かく動いている。浅い呼吸を繰り返しているのだろう。……苦しんでいる?
暑いのだろうか。それとも、別の理由か。ともあれ、大きなフードが顔を覆っていたら満足に呼吸は出来ないだろう。わたしはフードの淵に指をかけると、それをつまんで引っ張り上げた。そしてわたしは、暴いたものに目を奪われる。
陽の下で煌めきを放ったのは、絹糸のような白い髪だった。傷みのないそれは、光の加減でブロンドにも見える。ショートカットに整えられた髪は、少女の顔をはっきりと見せていた。長く飛んだ睫毛に、柳眉。薄く開いた唇は、小さいながらもふっくらと柔らかそうで、ほんのりと薄紅に染まっていた。白皙の肌は陶人形のように滑らかで、そこに並べられたパーツは最高級品のようだった。眩いキューティクルとも相まって、まるで天の御使いか幸運を呼ぶ光の妖精が、描かれていた名画から実体を持って飛び出してきたようである。均衡の取れた完璧な美しさではないものの、見る者を惹きつける儚げな麗しさが彼女にはあった。息切れを起こしたように、細く静かな呼吸を延々と行っている今、より一層庇護欲を掻き立てられた。
あまりにも可憐な顔立ちのその人間は、陽の光に当てられたからか、睫毛を震わせながら眉間にしわを寄せた。そして、伏せた瞼をゆっくりと持ち上げる。そこから現れたのは、数多の煌めきを閉じ込めた、幻想的な紫色の目だった。
「起き、れた……な……」
宝石のような紫色は、わたしの姿を写し込むと、やんわりと歪んだ。眉間にあった薄い谷が引き伸ばされる。繊細そうな唇から漏れる声は、吐息に紛れて酷く聞き取り辛いものだった。普段は、きっと玉を転がしたような音を奏でるのだろう。しかし、今はそれが失われていた。それでも、その表情や囁きは達成感と安堵の色で満ちていた。
わたしは、慈悲深い妖精の言葉に頷いた。まだ、声は出そうになかったからだ。それに気が付いたのか、少女は再び眉を潜めると、重たそうに腕を上げた。
「喉、も……やられて、いた……のか……。もっと、こっちに来い……」
ゆったりと伸びた彼女の腕は、わたしの首へと向けられた。その手には、金色のゴブレットがあった。重力に従って捲れ上がった袖からは、シャツが覗いていた。多少縒れているが、先ほどまでのローブに負けず劣らず白かった。
そうやって観察をしていると、突然肌に痛みとは違った感覚が走った。暖かな空気で喉を優しく撫でられたような、不思議な感触だ。反射的にゴブレットを見つめると、それは淡い白の光の輪を纏っていた。その光は、まるで呼吸をするように明滅する。
「……やっぱり、落ちるな……。……早くしろ……」
彼女は、招くようにつまんでいる杯をくいっと傾けた。控えめな模様が陽光を反射してきらきらと輝く。血に染まった砂すらも含められて、一つの絵が完成していた。
わたしは、弱々しい命令の言葉に従った。座ったまま手を付き身体を引きずると、足に痛みが走る。そういえばと身体を見下ろすと、着ている革の胸甲も服もぼろぼろで、血に染まっていないところが見つからなかった。思わず顔を歪めてしまいながら、ゴブレットの前まで無理やり身体を移動した。
それを見計らったのだろう。ゴブレットの光は、穏やかに膨張した。それは次第に輝きを増していくと、突如急速に収束し、今度はゴブレットそのものが眩く輝く。しかしそれも、間も無くゴブレットが光を吐き出した事により、すぐに失われてしまった。吐き出された光は、わたしの足と喉にぶつかると、空気で優しく撫でたような感触を残して溶け込むように消えていった。杯は、再び光の輪を纏い始めた。
「喋れ、る、か……?」
先ほどよりも、ぐったりとした様子の少女に問い掛けられる。顔は白皙を通り越して、青白くなってしまっていた。
わたしは喉の様子を確認すると、口を開いた。
「あー……。うん、咳出なくなった。足も痛くない」
「……そうか」
少女はわたしの言葉を聞くと、再び弱々しく口角を上げた。
「ありがとう。えっと……シスター様? お医者様?」
医者ではないかもしれないな。口に出しておいて、わたしは思い直した。ローブに覆われているものの、医者にしては華奢過ぎるように見える。となると、やはりシスターだろう。女神様が描かれたステンドグラスの下で祈りを捧げる儚げな妖精を想像して、違和感の無さに納得した。シスターだ。
わたしの言葉を聞いた妖精のようなシスターは、途端に顔を歪めてしまった。お医者様と勘違いされたのが嫌だったのだろうか。そして、億劫そうに口を開く。
「おーい、大丈夫かー?!」
丁度その時、遠くから叫び声が聞こえた。彼女の声は、言葉になる前にかき消されてしまった。
砂を蹴る音があっという間に近付いて来る。わたしは首に痛みが走らないよう気を付けながら、そっと振り返った。
「アスタルテ!」
右手側からやって来たのは、頭にタオルを巻いた大柄な男だった。無精髭が生えた顔は、その表情と相まって近寄り難い程厳つくなっている。服が小さいのか彼が大き過ぎるのか、着ているシャツの模様が可哀想な程引き伸ばされていた。
男は血みどろで全身真っ赤なわたしと、血を吸った砂に転がる白い彼女を見比べると、頭を掻きながら大きくため息を吐いた。そして、わたしの方へと向き直る。
「あー……お嬢さん。アスタルテに治して貰ったんだな」
「はい、たぶん」
わたしの曖昧な答えに、男は片眉を上げた。
……そういえば、どうしてわたしはこんなに血みどろなのだろう。今更ながら、わたしは今のわたしの状態に意識を向けた。この血は、ほぼ確実にわたしの物だろう。これだけの血をわたしが浴びていた、となればどこかにこれの持ち主がいるはずなのだが、見渡す限りではそれらしき痕跡は残されていない。緻密に隠された可能性はある。しかし急な動きをすると痛む身体や粗末な格好をしていることから、大怪我を負って倒れていたわたしをアスタルテと呼ばれたシスターが治してくれた――そして彼女は消耗して倒れた――と考える方がしっくりときた。
それでは、どうしてわたしはそんな大怪我を負っていたのか。違和感を覚えながら思考の海に半分沈み込んでいたわたしは、男の声で引き上げられた。
「お嬢さん、連れはどこだ? それとも居ねえのか?」
連れ。仲間。ぼんやりと反芻する。……居る、はずなのだが……。
再び沈みかけたわたしは、膝を軽く小突かれて我に返った。ゴブレットは、わたしに触れた部分だけ赤く染まっていた。
「ウルバノ、待て。……混乱、している。恐らく、怪我で……飛んでいる、のだろう……」
「それは……わりぃな」
ウルバノと呼ばれた男は再び乱暴に頭を掻く。それからアスタルテちゃんに向き直った。
「とりあえず、おめえはそこにぶっ倒れてたら、また風邪ひいて死にかけんだろ。アスタルテは家に連れてくとして……お嬢さんは、どうする? こいつに治して貰ったんなら全く問題無さそうだが、一応病院行っとくか?」
アスタルテちゃんは、通いのシスターらしい。わたしは首を傾げるウルバノさんに答えるべく口を開いた。
「わたしは……」
暫くここに居ます。そう続けるつもりだったが、再び膝を小突かれた。アスタルテちゃんの方へと視線を向けると、彼女はウルバノさんを見つめていた。
「家は、後で帰る……。悪いが……番屋を、借りたい。出来れば、タオルも。作業は、終わっている、のだろう?」
番屋、作業。それを聞いたわたしは、改めてウルバノさんへと目を向けた。頭のタオル、筋肉の盛り上がった体、ぱさぱさとした様子の短髪。言われてみれば、漁師の出で立ちだ。
「まぁ、夕方までは空いてるな。タオルも、返してくれりゃ構わんが……」
ウルバノさんは訝しげに腕を組む。アスタルテちゃんはこくんと頷いた。
「きちんと返す。夕方までには、帰る」
彼女はそこで息を吐くと、再び整い始めた呼吸の合間に続けた。
「血を洗い流さないと、アナトが怖がる。それに、こいつも。女に、そんな格好で歩かせる訳には、いかない。タオルを羽織れば、まだ増しだろう。アナトかクレッサさんの服を、借りるか貰うつもりだ」
言い切ったアスタルテちゃんの言葉に、わたしは疑問を持つ。紳士の鑑の心持ちのようだが、なぜそこまでわたしを気にかけるのだろう。
ウルバノさんは、呆れたように空を仰いだ。それから彼はわたしへと目を落とす。
「わかったが、俺も付いとくぞ。お嬢さんには悪いが、流石に訳ありそうなあんたと貧弱なアスタルテを二人にしとけないからな」
「はい。お願いします」
わたしは迷わず頷いた。言われている意味はわかっている。何かするのではないかと、疑われても当然の状況だ。それには何の不満も嫌悪感も無かった。
「あー……悪意の欠片も無さそうだなぁ……」
ウルバノさんはそんなわたしの様子を見て、困ったように頭を掻く。それから仏頂面になったアスタルテちゃんに手を伸ばした。彼女の表情がぎょっとしたものに変わったことを知ってか知らずか、ウルバノさんは膝と背中に手を差し入れて、いとも容易く抱き上げる。彼女は顔いっぱいで嫌悪を表現すると、足をばたつかせだした。
「やめろ、下ろせ……!」
しかし、ウルバノさんはびくともしない。彼はそのままくるりと背中を向けてしまった。
「起き抜けかも知んねえが、お嬢さんは歩いてくれや」
「聞け、馬鹿! せめて、俵担ぎにしろ!」
「一回それで吐いたろ」
「未遂だ!」
彼女との関係は、普段こんなものなのかな。わたしは納得して、ウルバノさんに返事をした。
「わかりました。たぶん、歩けます」
未だ弱々しい声で騒ぐ彼女を尻目に、ゆっくりと膝を立てる。なんとか立てそうだ。少し息を吐き、それから力を入れて立ち上がった。その瞬間、視界が大きく曲がる。掻き混ぜられた世界に、わたしの貧弱な平衡感覚が崩された。反射的に手を伸ばす。指先が、硬く温い布に触れた。必死で握り込みしがみつくと、それはウルバノさんの声と共に振動した。
「危ねえな。もうつかまってろ」
漸く晴れた視界は、引き伸ばされた模様でいっぱいだった。見上げた先にあるのは、案の定アスタルテちゃんの後頭部とウルバノさんの横顔だ。しがみついたのは、彼のシャツで間違いないようだった。
「ごめんなさい。つかまります」
歩けると思ったのにな。思わず項垂れたわたしの頭頂部に、ウルバノさんの溜め息が掛かった。
「……ほんと、悪意の欠片も感じねえよ」
明らかに怪しいのに、ちゃんと疑わないのかな。彼の呟きに疑問を持つ。するとアスタルテちゃんは、ウルバノさんへ得意げに返した。
「助けてやろうという気持ちが湧くのは、わかるだろう?」
「あーあー……じゃあつかまらせてやんねえとだから、慈愛に満ちたアスタルテなら、暴れねえよな?」
「……卑怯だぞ」
麗しい妖精の顔が再び不機嫌に歪んだのを、わたしはぼんやりと見つめていた。