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名もなき愚者たちの放浪記  作者: ひるもじ
第一章 ナダ国
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第一話 対角線の救い手 一節

 ――誰かの声が聴こえた。聞き覚えのある声だった。何かが崩れるような、何もかもが終わってしまうような破壊の音の中で、それらは朗々と応答を繰り返した。全てを受け止めたような声だった。

 ああ、駄目。駄目だよ。

 何を言っているのか、内容まで耳には届いていない。それでも彼らは、わたしの望んでいないことを実行するのだと直感的に察していた。

 お願い、止めて。

 地に伏せたままのわたしは、口を動かす。しかし、必死に震わせようとした声帯は微かに動いただけで、音を漏らすことはなかった。それどころか、唇すらも別の生物であるかのように、わたしの意志に従わなかった。今、わたしが満足に制御出来ている身体の部分は、目だけだった――。


 わたしは、詰めていた息をそっと吐き出した。そうしなければならないような気がしたからだ。それに対する疑問は緩やかに湧き上がるが、そういうものだと考えることを放棄した。気怠い身体は、心地良い暖かさに包まれている。閉じたままの瞼は開きそうにない。頭の中には、(もや)がかかっているようだ。考えが定まらない。まとわりつくような、こもった潮と鉄の匂いが鼻についた。

 その時、何かが落ちたような音が耳に届いた。同時に、身体を包んでいた暖かな空気が霧散する。何事かと考える間もなくやって来たのは、激痛だった。

 全身を引き裂くような感覚は、瞬く間にわたしの思考を飲み込んだ。まるで数センチごとに肌を切りつけられているような、その上でそっくり同じ場所を何度も殴られているような、形容しがたい感覚だ。反射的に目を見開いたが、あまりの衝撃に周りの景色は一切頭の中へ残らなかった。

 声が、出ない。身体のどこかから、おかしな音が鳴り響いている。視界から取り入れる光は明滅を繰り返し、耳は打ち付ける脈の音をはっきりと拾っていた。空気を吸い込み肺を膨らませるたび、一層全身に深く切り刻まれる感覚が走り抜ける。それでも、呼吸を止めることはできなかった。

 動くこともできず、ただ目を見開いて悶え苦しむ。地獄のようなその感覚は、一体どれほど続いたのだろう。

「絶、対に……助ける、から……」

 弱々しい囁きが、耳に届く。それが頭の彼方へと飛ばされそうになったその瞬間、わたしを襲っていた激痛がぴたりと止んだ。一瞬にして止まった警笛。漸く晴れた視界。何事も無かったかのように消え去った痛覚。わたしは、いよいよ感覚がおかしくなってしまったことを確信した。

 歪んだ世界が、徐々に遠退いていく。言うことを聞かないわたしの身体は、浮かんでいる涙を拭うことすらしてくれない。そして思考さえも、次第に霧で覆われていった。

 沈んでいく意識の中で、真っ白な何かが崩れ落ちたのが見えた。


 鼻につく、磯と生臭い匂い。ねっとりと肺に入り込んだその悪臭で、わたしは思わず噎せた。

 しかし、それは別の弊害を呼び寄せてしまう。脇腹へと走る激痛で、意図せず身体を折り曲げた。すると、連鎖して全身へと痛みが走っていった。左手を握りしめると、細かな何かが指の間をすり抜けていく。その手の指にも、一本ずつ鋭い痛みが駆け抜ける。

 あ、これは駄目なやつだ。更に曲がろうとしていた身体を無理やり押しとどめ、瞼に力を入れた。そして喉から飛び出そうとしていた咳を、強引に止める。ひくつく胸を抑えつければ、居座っていた全身の痛みがのろのろと退散していった。安堵の息を吐いたわたしは全身から力を抜いた。もう、変に力を入れたり急に動いたりしなければ、痛みが走ることはないだろう。目の前の大きな問題を解決した今、視界が開けたような感覚に陥った。実際には開いていないけれど、そこは大した問題ではない。それよりも別のことだ。

 慎重に、手を動かす。ざらっとした手触りのこれは砂だろうか。右の頬や手の甲、腕に感じるこれも、同じものであるはずだ。磯の匂いと砂のような何かとくれば、ここは海岸なのだろう。水が砕ける音も耳に届いている。わたしは、重い瞼を持ち上げることにした。

 最初に視界に入ったのは、手だった。ゆっくりと動かして、それが自分の右手であることを確認する。上を向いた手のひらは、赤茶に染まっていた。曲げると、滑りのある液体が窪みを伝って僅かに流れた。血だ。生臭さは、これが原因のようだ。しかし、この色は乾きかけのものではないだろうか。ちくちくとした痛みは感じるものの、皮膚が裂けるものとは違う。今わたしが流しているものではなさそうだ。血で汚れた中指の指輪が、鈍い光を反射させていた。左手も持ち上げてみる。装飾のない左手は、右手同様丸みを帯びた女のものだった。砂にまみれたそれは、同じようにグロデスクに染まっている。少なくとも、起き抜けに見るものではない光景だろう。

 よく見れば、血糊で覆われた両手には傷一つ見当たらない。両手に繋がる剥き出しの腕は緩い曲線を描いており、不自然な窪みも鮮明な紅も見つからなかった。あれだけの痛みがあったにも関わらず、それらしいものがないなんて。わたしの感覚がおかしくなったのだろうか。……先程も同じことを考えていた気がする。少々引っかかるものがあったが、思考をすり抜けていくそれを深追いするのは止めておいた。

 腕の向こうには、打ち寄せる波と水平線がある。晴れ渡る空の下、透明な海水が押し寄せる美しい渚が広がっていた。……海だけ見ても、ここがどこかなど分かる訳がない。とにかく、身体を起こさなければ。わたしは腕を垂直に立て、力を込めた。

 その時、すぐ傍から呻き声が聞こえた。誰か、居る。跳ね起きたところで、全身へと激痛が駆け抜けた。不意のそれに、一瞬息が詰まってしまう。忘れていた訳ではないが、目眩と相まって酷く衝撃を受けた。この目眩は、貧血から来るものだろうか。現時点では判断が難しいところである。暫く停止して痛みをやり過ごしたわたしは、ぐらつく視界をそのままに、そっと首を巡らせた。

 それは、真後ろにあった。純白の布の塊が、乾いた砂上に転がっていた。手を伸ばせば、届いてしまう程度の距離だ。盛り上がったその形は、まるで人が中にいるように見える。わたしが座り込んでいる真っ赤な砂に触れたのだろう。裾が、赤く染まっていた。砂浜の黄土色と、血糊の染みた砂の赤黒さ、快晴の青色に、汚れた純白。視界に入る鮮やかな色の暴力で、すべてがちぐはぐに見えた。

 わたしは口の中を(まさぐ)る。しかし、からからの口内から唾液が漏れることはなかった。緊張を落ち着ける為に、唾を飲み込もうとしたが、失敗した。

 ……この布の塊、人だよね。返って来ない問いを自分の中に投げかける。未だ揺れる頭を抑えつつじっと観察すると、それは僅かに膨張と収縮を繰り返していることに気が付けた。人だ。少なくとも、生き物だ。

 声を出そうとして、失敗する。貧弱な音が、喉で潰れたような空気に変わった。身体に響かない程度に咳払いをしたわたしは、改めて声を出してみた。

「だ、い、じょう……っ」

 そこで再び、込み上がる咳に邪魔をされる。なんとか(こら)えたわたしは、声を掛けることを諦めた。代わりに、そっと手を伸ばす。

 真っ白なそれに触れる直前、わたしは右手を止めた。裾は汚れているものの、それは洗いたての服のように清潔なものに見えた。(けが)れを知らないようなその布に、血まみれの手で触れることが戸惑われたのだ。乾ききっていないこの手で触れれば、あっという間に禍々しい手形が付くことだろう。自分のものではないそれに、安易に触れて汚してしまって良いものか。

 逡巡したのは僅かな時間だった。わたしが言えた義理ではないけれど、きっとこの状態は普通ではない。だからわたしは、躊躇(ためら)いながらもその純白の塊へと手を伸ばした。

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