第八十二話 『教え導く者』
私立綾媛女子学園の中心に聳え立ち、その内部に広大な異界を内包する巨大建造物――――通称『叡智の塔』。
具体的には塔の頂上付近に位置するとある書斎でのことである。背面一杯に広がる窓から月明かりのみが薄っすらと差し込み、そこにいる二つの人影をぼんやりと浮かび上がらせる。
そのうちの一つは、この学園の主である銀髪赤眼の紳士の姿を、そしてもう一つは、彼の腹心であるルーズサイトテールの少女の姿を映し出すものであった。
「そうだね。それでは一度状況を整理してみようか」
紳士の名は人類王。
天界の支配者たる十三王の一角でありながら、天に対する抑止力として人間界に残ったその天使は、机上のチェス駒を手の中で弄びながら、目の前の少女に問い掛ける。
余談であるが、人類王はチェスのルールなど知らない。つまり、そのチェスはただそれっぽい雰囲気を演出するためだけに置かれているのである。
「は」
椅子に座す人類王と向かい合う形で、この学園を実質的に支配する冷徹宰相――陶南萩乃が抑揚のない声で相槌を打つ。
人類王とその腹心たる陶南萩乃。
彼等二人が今日こうして顔をつき合わせている理由は他でもない。
それは当然目下における最大の危機、此度東京の街を襲ったダエーワ発生事件について話し合うためであった。
「この街にゾロアスターの悪魔達が姿を現してから既に早八日。正直、僕もここまで事態が深刻なものになるとは思っていなかった。だからこそ普段はいがみ合っている僕達四勢力も、今だけはダエーワを撃滅するための暗黙的な共闘状態にある。されど――――」
「いくら殺しても蛆のように次が湧いてくる……これが奴等との戦いにおける一番の問題でしょう。確かに四勢力連合は多くの戦場でダエーワを圧倒しているにも関わらず、戦えば戦うほど全体的な趨勢はむしろゆっくりと劣勢に傾きつつある。それが当方の現状なのですから」
劣勢、と。本来誰もが口にしたがらないその事実を、陶南萩乃は呆気なく言葉にした。これには冷静沈着な人類王も思わず苦笑してしまう。
「遅かれ早かれこうなることは分かっていました。そもそも有限の軍隊が無限の群体に勝てる道理はありません。いくら一戦一戦における消耗が少なくとも、それらは微かに、されど確かに積み重なっていき、いつしか我々の戦線を必ず決壊させるでしょう」
「あぁ、うん。そうだな」
しかし、珍しく声色に焦りを滲ませる陶南とは対照的に、人類王の方は随分と気軽な調子であった。
四勢力連合が劣勢であることの意味、そしてその先に起こるかもしれない惨劇を予想出来て尚、それでも王はその端正な眉をピクリとも動かなさい。
「そもそもこちらの勝利条件はダエーワを掃討することよりも、彼等の発生源を突き止めることにこそある。戦力の供給さえ絶ってしまえば、君が言うところの無限の群体も、狩ればそれだけ数の減る烏合の衆と成り果ててくれるだろうからね」
「しかし、未だその発生源は特定出来ていません。それどころか具体的な手掛かりなど一つとして……このままでは四勢力とも延々に戦果なき消耗戦を強いられ、無意味な血を流し続けることとなりましょう」
「だからと言って、今すぐこの状況を綺麗さっぱりひっくり返せる手段があるわけでもない。それとも何だ。君の頭の中では何か妙案でも思い浮かんでいるのかい? 君が本気でその選択を信じるのならば、僕も教師として協力は惜しまないが」
王の試すような視線に、陶南は思わず一度やんわりと唇を噛む。
言うべきか、それとも言わざるべきか。数秒をそんな逡巡に費やした後、それでも少女は結局その考えを口にした。
「お言葉ながら……」
「んっ、なんだい?」
「お言葉ながら、先生御自身が御出馬なさるというのはいかがでしょうか?」
「ほぅ」
それがよほど意外な提案だったのか。
人類王は今日はじめてその顔に具体的な表情を浮かべて問う。
「それはどういう?」
「そのままの意味です。いくらダエーワの数が無尽蔵といえども、先生ならばこれをまるごと殲滅することも可能でしょう。そうすれば各勢力の戦闘員が無意味に傷つくこともなくなります。そのうちに解析班の方に発生源の方を突き止めて頂ければ――――」
「ダメだ。それでは根本的な解決にはならんだろう」
珍しく。いや珍しいどころか、陶南萩乃は今まで彼のそんな顔を見たことがなかった。
あの冷静沈着な人類王が、はじめて人前で不快感を露わにしたことに、少女は思わず動揺を覚えずにはいられない。
だがしかし、陶南がもう一度彼の方を向くと、己の慕う師は既に元の柔和な顔色に戻っていた。
王はつとめて諭すように続ける。
「残念だけど僕はあくまで教師なんだ。僕は税金と引き換えに問題を解決してくれる為政者でも、お祈りさえすればなんでも願いを叶えてくれる神様でもない。僕の役目はあくまで君達人間を教え導くことだからね。此度の一件を人類が乗り越えるにしろ、或いはこのまま破滅を迎えるにしろ、それは君たちの意思でなされたことでなくてはならない」
そうして、かの教師は最後にこう付け加えた。
「よく考えてみなさい。仮に天使である僕が君達人類の問題を救世主的に解決していいならば――――君達人間は一体なんのために存在しているんだ?」
陶南の背中に悪寒が走る。そして、それに少し遅れて後悔が押し寄せた。
「……申し訳ありません。先生のおっしゃるとおり、今の発言は我々の憎むべき魚座的思考に属するものでした。私もまだまだですね。先生の高尚極まる思考回路と、私のそれとの間には未だ大きな齟齬が存在します」
「君は嫌味とかは言えない性格だから多分本気で言ってるんだろうが……ならば尚更、高尚極まるはやめてくれ。むず痒くて仕方がない」
「……?」
「うん。まあ、確かに僕も意地悪なことを言ってしまったしな。君のその隣人を……いかん、うっかり隣人などと口にしてしまった。ともかく君のように他人の痛みを我が事のように思える心が、人として美しいものであることに違いはないからね」
そこで、人類王はやんわりと椅子から立ち上がった。そして背後の壁に貼られた東京の地図に触れながら、致し方ないとでも言わんばかりに続ける。
「まあ、確かに少し手を打つぐらいのことはしてもいいかもしれない。君達は未だ魚座時代から水瓶座時代へと移行する過渡期にあるというのに、いきなり神に縋ることを全て禁じてしまうのも酷な話だからね」
「ありがとうございます。して、その手とは?」
「なに、大きな問題は君達に任せる分、小さな問題の方は僕が手を貸しても良いというだけのことだ。今僕達四勢力連合を悩ませてる頭痛の種は、なにも一つだけではないだろう?」
人類王はそうしておもむろにチェスの駒を手に持った。右手で山程のポーンを握りしめ、一方左手の指は一つしかないキングをヒョイと摘む。
「態々口に出すまでもない前提の話をするが、この街において自然発生するダエーワには当然強弱の差がある。それこそ銃さえあれば殺せるような雑魚から、ゾロアスターの枠組みにおいて魔王と称されるような高位の悪魔まで千差万別だ」
人類王はそう言い切り、握った右手をバッと開いた。彼の手中にあったポーンの山は机の上にバラバラと落ちていく。
「しかし現状、連合によるダエーワの掃討作戦は、俗に言う雑魚狩りの状態に終始してしまっている」
そこでようやく人類王の言いたいことが分かったのか、陶南萩乃はやんわりと首肯すると、
「然りです。恐らくはリソースの問題でしょう。そもそも四勢力とも数の多い雑魚を駆逐するだけでも手一杯なのですから、更に手間のかかる上位種の討伐はどうしても後回しになってしまいます」
「美徳ではあるが、君は人を疑うことを知らなすぎる。四〇点だ。実際は共闘関係上における問題が一番大きい。そもそも現状、僕達は必要に駆られて仕方なく手を結んでいるにすぎないからね。悲しいことだが、同盟など所詮は口約束だ。下手に高位の悪魔へ手を出せば、それだけ自前の戦力を大きく消耗する危険がある――――ひいては、この戦いが終わったあと、他の三勢力に付け入られる大きな隙を作ることになるからね」
だからこそ、四勢力はどこも揃って雑魚ばかりを狙い、魔王クラスのダエーワに関しては、他の勢力に倒されることを期待して放置し続けた。
しかし、脅威から目を逸らし続けたところで、それで奴等が勝手に戦いの盤面上から消え去ってくれるわけではない。
後回し、棚上げ。そんな消極的な解決で、問題をなかったことに出来る期間はとうに過ぎた。遂に彼等四勢力連合も、本気で上位のダエーワと相対しなくてはならない場面を迎えつつある。
「うん、確かにそろそろ頃合いだな。悲蒼天はその存在理由上、損害度外視で魔王を潰しにかかるだろうし、後藤機関としてもこれ以上首都が戦場と化すことは避けたいはずだ。三勢力が平等に衰退するならば全体のバランスに大きな変化は生じない。一応碧軍だけがネックではあるが……まあ、どうせ事が収まったら三勢力で寄ってたかって、自分達と同じだけの損害を与えてやろうという流れになるだろう」
人類王は改めて椅子に座り直す。
そして目の前の少女を温かな瞳で眺めながら、まるで子供にお使いでも頼むような口調で宣言した。
「よし、それでは僕達も魔王狩りを始めよう。先ほど言ったように彼等の半分はこの僕が盤面上から消す。だから残りの半分は君達でどうにかしてみなさい。この学園以下、人類王勢力に属する全ての戦力は、陶南くんの一存で自由に使ってもらって構わない」
それで王の命令は終わり。
だがしかし、彼の言葉を命令と呼ぶには、あまりにも多くの事柄が陶南の判断に一任されている。
されど、綾媛百羽の第二位はそのことに不満を抱くどころか、むしろ彼女にしては珍しく一種の高揚感のようなものを覚えていた。
先生が自分のことを信じてくれている。
それは当然、陶南萩乃ならば自らの意向に沿った行動をとってくれると、人類王が陶南のことを認めているからに違いない。
正直自分に心などいらないと思っていた。ただ先生の抱く理想がために、この力を振るい続けることが出来れば、自分はそれで充分なのだと――――しかし、陶南萩乃は彼女が自分で思っているよりもずっと人間であったのだ。
「はっ。必ずや先生の命を果たして参ります」
だから普段はまるでロボットのような彼女も、今だけは少しばかり声のトーンが高かった。しかし、対する人類王は冗談めかしてフッと笑うと、
「僕は命令なんてしたつもりなんてないけどね」
「はっ。必ずや先生の期待に応えてみせます」
「あぁ、それでいい。それでは期待して待ってるよ。陶南くん」
然して、緩やかに行き詰まりかけていた袋小路に向け、四勢力の一角である人類王勢力は一石を投じることとなった。
果たしてダエーワ達は一体どこから、或いはどうやって、そして何より何故発生するのだろうか?
仮に今回の事態を引き起こした黒幕のような者がいるならば、一体その者の胸中にはどのような目的があるのか?
ダエーワ発生開始から早八日。
しかし、未だそれをまともに説明出来る解はなし。
それでも、人とダエーワによる異種間絶滅戦争は、その内に多くの謎を抱えながら、新たな局面を迎えようとしている。




