閑話 『周音と漢華 其の二』
シャワーを浴びてきた。
それでも頭の中は未だにモヤが立ち込めたままであった。
最早髪を乾かす気さえも起こらない。
適当に水分を拭き取っただけの頭にタオルを巻き付け、秦漢華はまるで崩れ落ちるように自室のベッドへと寝転ぶ。
「……本当、何やってんだろ。私」
部屋の隅に見える一本のハンガー。
そこにかけられた茶色のブレザーと灰色のプリーツスカートとを一瞥しながら、少女は物憂げに呟く。
確かに彼女の学園生活は順風満帆そのものだ。
容姿は人並みであるし、コミュ力に至っては壊滅的なれど、成績優秀にてスポーツ万能、そもそも何をしても人並み以上にこなせるものだから、周囲から淡い尊敬の念で見られることも少なくはない。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。
そもそも秦は、普通の学生生活を謳歌したいがために、あの学園と転入してきたわけではないのだから。
「あれだけ御大層なことほざいたくせに、結局誰一人救えていないじゃない……」
秦は悔しそうに独り言つ。
元来、彼女は正義感の強い女の子であった。
昔から困った人には迷いなく手を差し伸べてきたし、なにより悪だとかズルだとか、そんな曲がったことをどうしても許せない性格であった。
だから、記憶限りでは二年前。
人の尊厳を平気で踏みにじる、人類王という巨悪の存在を知ってしまったとき、少女は迷わずこれに立ち向かう修羅の道を選択した。
父は反対した。当然母も反対した。
けれども、最後の最後に父は折れてくれた。
人類王なる悪を打ち倒すための力になりたい。
そんな子供じみた義憤を胸に、あの私立綾媛女子学園へと入学してから、もうすぐで一年が経過しようとしていた。
「無意味……だとは、流石に思いたくはないのだけどね」
今も自分なりに出来ることはしている。
学園内で気になった事柄はどんな些細なものでも念入りに調べ、少しでも人類王に関する情報を手に入れようと、こっそり危ない橋を渡ったのも一度や二度のことではない。
だがそれでも、結局成果と呼べるようなものは未だに一つもあげられていなかった。
あの学園の闇は深い。
ただ他の人間と比べ、多少なりとも優れていようとも関係ない。
そもそも個人で組織に対抗しようと考えた時点でナンセンスであったのだ。例え秦のような異物が多少混入したところで、綾媛学園という巨大なシステムは今日も変わらずに稼働し続ける。
初めは随分と威勢の良いことを言っていた。
それでもすぐに己の無力を思い知らされ、今では学園に蔓延る悪を見て見ぬ振りすらしている始末であった。
情けない。あまりに情けない。
かつての憧れとは酷くかけ離れてしまった自らの姿に、秦漢華はどうしようもなく失望せずにはいられなかった。
「……もう、どうにもならないことなのかしら」
そう、秦が虚ろに天井を見上げたときのことであった。
トントンという、誰かが自室を尋ねるノックの音が響き、続いて聞き慣れた姉の声がドア越しに聞こえてくる。
「漢華、ちょっと中入ってもいい?」
「……もう寝るから明日にしてちょうだい」
八つ当たりをしたいわけではないが、心なしか言い方が刺々しくなってしまったかもしれない。
しかし、そもそもかのマイペース女はこっちの意見などガン無視であった。
ガチャリとドアが開かれ、姉が部屋の中に入って来る。その両手にはこれ見よがしにブラシとドライヤーとが握られていた。
「あっ」
漢華が思わず髪を隠すように頭を抱えると、対する姉の周音は呆れたように溜息をついた。
「ははっ、やっぱり」
「いや、これちゃんと乾いてるから……」
「残念、そういうこといきなり言い出した時点で湿ってんの確定だから。ほらほら、ちょっとそこ座りなさいなって」
「いや、別に要らないから……」
しかし、今日の周音はやけに強引であった。
彼女の細腕に引っ張られるがまま、漢華はベッドの淵にチョコンと座らされてしまう。
――――なんなのよッ、もう……。
生まれつき根が素直ではない漢華も、今日は不思議となされるがままであった。
今の姉の言葉には不思議な強制力がある。
だが、別に強制といっても嫌なものではない。
どちらかといえば、自然と身を預けたくなる奇妙な力とでも言った方が正しいだろうか。
漢華の真後ろに回った彼女は、片手にブラシ、もう片手にドライヤーを持った状態で膝立ちになると、
「うーん、こりゃ激戦になりそうだね」
そう言ってクスリと笑った。
釣られて思わず苦笑してしまう。
漢華は基本のメディアムヘアーに加え、襟足だけを腰まで伸ばしたダブルウルフという髪型をしているのだが、正直これの手入れがかなり面倒臭い。
そのためか、後頭部の髪にブラシを通し始めた途端、姉は可笑しそうにケラケラと笑い始めた。
「あっはっは、想像より大分ゴワゴワしてるねコレ。もー普段からもっとちゃんと手入れしなきゃダメだよ。髪は女の命なんだからさあ、知らんけど」
「……あとでするつもりだったのよ。ただ今はちょっと気が向かなかったってだけ」
「いやいや、それだけの問題じゃないから。そもそもアンタ化粧もしないし、服とかもスッゴイ適当じゃん。もー、花のJKでいられるのは今のうちだけなんだから、少しぐらい女の子らしくお洒落とかしたっていいのに。折角アンタ顔は中の中の中の中の上くらいなのにもったいないって」
「……なんか一見褒めてるようで、響きが悪口にしか聞こえないのだけど」
抗議を封殺するかの如く、ボババババババと温風を浴びせかけられる。
そうして、しばらくされるがままになっていると、姉が突如思い付いたような口調で言い出した。
「そうだ。今度一緒に服でも買いに行こうぜ」
「……興味ないわ。服なんて隠すもの隠せて、あとは寒暖に不都合がなければ、それで充分でしょよ」
「うわぁ、イカンですよ。その発想はイカンですよ漢華ちゃん。そんなんじゃ好きな男の子に振り向いてもらえなくなっちゃうぞ☆」
「……アホ臭。何が悲しくてオスに媚びなんか売らなきゃいけないのかしら」
「それが、可成くんでも?」
「ブオバッ!?」
むせた。盛大にむせた。
ちょうどそのとき飲み込もうとした唾が、なんか色々あって全部気管に導かれていった。
そのままゴホゴホ咳き込みまくること約三十秒、髪も瞳も顔も真っ赤な秦漢華は、微かに涙目になりながら反論する。
「いっ、いつまでその話引っ張るんだバカ姉ッ!! もう十年前よ十年前。そんなのとっくの昔に無効に決まってるじゃないッ!!」
「えぇ、お姉様的にはまだ絶賛引きずり中だと思ってたんだけどなあ。ほら、アンタって割とメンヘラ臭いとこあるじゃん」
「よく面向かってそんなこと言えるわね……」
「それだけ思い詰めやすいタチしてるってこと」
「……てか、そもそも私はもうアイツがどこに住んでるかも知らないくらいなんだけど」
「んー、パパに聞けばいいじゃん」
「いくら聞いても教えてくんないのよ。あんのクソ親父ッ」
「ぷっ、あははっ。何それ、やっぱり聞いたんだ。ちょっと待ってよ、それじゃあやっぱりそういうことになっちゃうじゃんッ!!」
「……もう相手しないわよ」
「ごめんって。でも残念だなあ。ほら、ウチって三姉妹だし、弟とか欲しいなあとか思わないこともなきにしもあらずだったからさ」
「もう相手はしないと言ったのだけどッ……?」
「あっ、ヤバい。そろそろ殺されそう」
賢い姉は引き際を誤らない。
これ以上は殴られるギリギリのラインを的確に見切り、彼女はそれからめっきり静かになった。
――――もう、今日は一人にして欲しいのに……。
やんややんやとくだらないことを言っていた間も含め、姉は休まず妹の髪を乾かし続けている。
先程は随分と向こうのペースを乗せられてしまったが、それからはしばらくゆったりとした時間が過ぎていった。
人に頭をいじられるというのは確かにむず痒いが、それとは別に心地よくもある。
自身の武骨なそれとは違う、姉の滑らかな指が優しく肌に触れる。ただそれだけのことが、少女のささくれた心をいつのまにか落ち着かせていた。
思えばこうして姉と二人きりで話すのも、随分と久しぶりのことかもしれない。
「ねぇ、漢華ちゃん」
そこで周音は再び声をあげた。
その声色は、普段の彼女よりもどこか柔らかく、そして幾らか声のトーンが落ちていた。
「何かしら」
「……アンタさ、無理してない?」
「はあ?」
そんな脈絡のない言葉に、漢華は思わず後ろを振り返ろうとし――――けれども結局は振り向かなかった。
いつのまにかドライヤーの音は止んでいた。
部屋の中がしんと静まり返り、胸中に微かな緊張感が走るなか、やがて姉はポツリと口にする。
「ごめんね、漢華」
「だからなんの話よ。アンタには謝って欲しいことが多すぎて、どれだか分からないのだけど」
「だから、そういうのじゃなくてさ」
そこで周音は一度黙り込んでしまう。
言い出しづらいのが、それとも何か言葉を選んででもいるのか。
何はともあれ、姉はようやく意を決したように話し始めてくれた。
「漢華ッ、アンタって本当にスゴイよね。頭良くて、スポーツ万能で。確かにコミュ力だけはゴミレベルだけど、正直一人で出来ないことの方が少ないくらいでしょ。出来のいい妹を持てて幸せだなあて、私は素直にそう思ってる」
「なっ、なんなのよいきなり……ふっ、ふんっ。まあ私は控えめに言っても優れすぎているからね。アンタみたいなグータラ女の妹にはもったいないくらいだわ」
いきなり褒められたのがむず痒くて、ついくだらない軽口を叩いてしまう。
しかし、続く姉の言葉は至って真剣なものであった。
「それもあるけどさ。私だって知ってるんだよ。アンタが他の誰よりも努力していること」
「そうね。だって必要なことだもの」
「……でも、それって本当に必要なことなのかな。さっきもっと女の子っぽいことしたら? って言ったのも本音だよ。私はね、アンタにはもっと普通の女の子として生きて欲しいんだよ。それこそ戦うための術を学んだり、異能に関する知識を覚えたりする必要なんてない……そんなどこにでもいるようなごく普通の女の子としてね」
「……周音」
そこでようやく周音の言いたいことを何となく悟ることが出来た。彼女にしては珍しく、自分のことを心配でもしてくれているのだろうか。
いや、きっとそれだけではない。
それでもどう言葉を返していいか分からずにいると、彼女は再び口を開いた。
「私は、アンタのお姉ちゃんだよ」
「知ってるわ」
「でも、私が本来『秦』の人間として背負うべきだったものを、アンタは私の代わりに全部一人で背負いこんでいる。ただ……そう、ただアンタの方が私よりも『秦』に相応しかったというだけでね」
「……そんなのもう十年も昔の話じゃない。今はもう関係ないでしょ」
本当はその後ろにまだ続く言葉があった。
されど、いきなり姉が肩を掴んできたせいで、半ば無理矢理に黙らされてしまう。
その手が熱く、そして震えているように感じたのは、きっと気のせいではないだろう。
「いいや、アンタはまだ『秦』に囚われている。今だってそうでしょ。人類王を倒すだとか、少しでも人類のために闘いたいだとか、なんでアンタが態々そんなことしなくちゃいけないの」
「……」
「もし仮に、私や明希が同じことを言っても、パパは絶対に認めてくれなかったと思う。でも、アンタは許された。何故だか分かる? 単純にアンタにはそれだけの力があるからだよ。だから、誰かにやって欲しいこと、あるいは誰かがやらなければいけないこと、そんな無責任な義務が全部アンタに押し付けられることになる。表面上は心配してるフリをしていても、結局みんなアンタに甘えてるんだよ……この私も含めてね」
肩を掴む手の力が一層強くなる。
背後にいる姉が今どんな顔をしてるかは分からないが、その彼女らしくない弱々しい声と、時折混ざる微かな歯軋りとが全てを教えてくれる。
周音がまさかそんなことを考えているとは思いもよらなかった。
だから、漢華もしばらく彼女の言葉を黙って聞いていたのだが、
「私が、ちゃんと『秦』の後継としてふさわしい人間だったら、アンタがこんな大変な思いをする必要はなかったのに……」
「……ちょっと待って。周音、アンタ一つ勘違いしてるわよ」
だが、もう黙っていられなかった。
心配してくれるのは嬉しい。けれども、そのせいで姉さんが責任を感じることだけは間違っている。
これまで口を噤んでいたこともあり、胸の中で溜め込んでいた言葉が雪崩のように溢れ出てきた。
「別に、私はアンタの代わりに『秦』を背負ってるだなんて思ったことは一度もないわ。それで辛いと思ったことも、理不尽だと思ったこともない。当然よ。アンタのいう無責任な義務とやらは、みんな私が好き好んでやっていることなんだからね」
周音の抱く不安を払拭しようと、漢華はことさら力強く言い放つ。しかし、それでも姉はまだ疑り深かった。
「……本当に、そうなのかな」
「そうよ。私のことだもの。私のことは私自身が一番良く知っているに決まってるじゃない」
だから漢華は迷わず断言し、そのままガタリと立ち上がった。
そうして少女は姉の方を振り返ると、その頬を微かに赤らめながら続ける。
「子供っぽいって思われるかもしれないけれど……私、昔からこういうことには憧れてたのよ。自分の正しいと思ったことのために戦えて、自分が間違っていると思ったものには絶対に屈しない。そんな、昔私を助けてくれたアイツみたいなヒーローにね」
「……」
「だから、重みだなんて思うことはないの。困っている人を助けたい。苦しんでいる人達に手を差し伸べたい。むしろ、自分にそのための力があることを、私は幸せに思っているくらいなんだから」
姉は何か言葉を挟むこともなく、黙って妹の本音に耳を傾けていた。
だからこそ、漢華の方も胸の内を正直に打ち明けられたのかもしれない。
そして最後に、少女は少し呆れたような笑顔をもって付け加える。
「それが私、秦漢華よ。きっとアンタの頭の中にいる私よりも、本当の私の方がよっぽどバカなんだと思う……まあ、今まで十七年も一緒に生きてきたんだから、それぐらい分かってくれてるものだと思っていたのだけど」
漢華がそう言い切ると、しばらく姉は顔を伏せて固まっていた。
しかし、やがて彼女はハアと長い溜息をつき――――何故かいきなり漢華の肩甲骨辺りを叩いてきた。
そんな不意の一撃に、緊張でこり固まってた体が僅かに弛緩する。
「いったッ。ちょっと何すんのよ」
「うるさーい、別に全身ゴリラなんだから痛くないでしょこんぐらい。もぉ……、なんか一人で色々考えてたこっちがバカみたいじゃん」
周音は不貞腐れでもしているのか、そのままゴロリとベッドの上で横になる。
しかし、すぐにフッとどこか納得したような笑みを浮かべると、
「まぁ、私はアンタのお姉様だし、これからも心配はするよ。でも、それは応援しないってことじゃない。アンタが正しいって思ったことは、私も正しいことだと思いたいからね」
けれども、姉はすぐにベッドから身を起こした。
漢華が少し苦手とする――まるで全てを見抜くような流し目が、真っ直ぐにこちらを覗き込んでいる。
「最後にもう一度だけ聞くけど、アンタはそれで幸せなんだよね?」
「えぇ、例え一万回同じことを聞かれても、私が首を横に振ることはないでしょうね」
だから、漢華は笑ってそう言い切った。
一つ上の姉は、そんな妹の顔を疑ぐり深そうにジーと見つめ――――それでも、最後には再び納得したような笑みを浮かべてくれた。
「うん、なるほどね。アンタの気持ちはよく分かった……頑張れば自分のなりたいものになれるだなんて、そんな無責任なことは言えないけど、アンタならきっとなれるって、私はそう信じてるよ」
それで満足したのか、姉はそのまますぐに自分の部屋へと帰っていってしまった。
再び部屋の中がシンと静かになる。
漢華がなんとなく自身の髪に触れると、先程までびしょ濡れだったそれは驚くほど綺麗に乾き切っていた。
「……全く、なに姉らしいことしてくれちゃってんのよ」
漢華は思わず苦笑する。
別に姉から何か具体的な解決策が提示されたわけではない。
けれども、不思議と頭の中のモヤモヤはスッキリした。
それは改めて初志を思い返すことが出来たからであろうか。いや、もしかしたらただ単に、周音からの無邪気な信頼が嬉しかっただけなのかもしれない。
「本当、ズルいのよ。アイツは」
秦周音は変わった人であった。
よく笑い、よくはしゃぎ、一見何も考えてなさそうで、その癖たまに酷く遠くをみるような目をする。
普段は人をおちょくるような戯言ばかりほざいている癖に、人が本気で悩んでいるときには、一番欲しいタイミングで一番欲しい言葉を与えてくれる――――秦漢華にとっての姉とはそういう人であった。
「結局、どう転がってもアイツが長女で、私が次女だってことに変わりはないのよね」
昔から姉さんにだけは敵わなかった。
学力だとか運動能力だとか、いくらそんな表面的なところで優れていても、秦周音はもっと根本的なところで秦漢華の上に立っている。
だが、嫉妬などするはずもない。
むしろ、自分が持っていないものを持っている姉のことを、漢華は素直に凄いと認めていたし、もしかしたら――――憧れに近い感情すら抱いていたのかもしれなかったのだから。
♢
次女の通う綾媛学園よりも、長女の通う公立高校の方が遥かに家から近い。
そのため漢華が学校から帰ってくると、そこにはいつも当たり前のように姉の姿があった。
相変わらずグータラ寛いでる周音に、漢華が口やかましく小言を言い、対する姉は適当なことを言ってこれをはぐらかす。
それが毎日何度も繰り返されてきたいつもの流れ。大袈裟なことを言えば、秦家における日常の一部であるとも言える。
だから、今日も周音と似たようなやりとりをすることになるのだろうなあと、秦漢華は何となく姉にするであろう説教の文言を考えていた。
「ただいま」
時刻はそろそろ西の果てに太陽が沈みきる頃。
そこそこ離れた学園からようやく帰ってきた漢華は、その日も何の気なしに家のドアを開く。
しかし、そこで少女はすぐに一つの違和感に気付いた。
「……ん?」
家の中が暗いのだ。
比喩ではなく、単純に光量的な意味で暗い。
もう夜も近いというのに、何故か一つも電気が付いていなかった。
おかしい。予定では母の清美に周音と明希、父を除いた家族全員が我が家には揃っているはずなのに。
ベタなサプライズ? と一瞬発想が飛躍したが、何か特に祝うようなことがあった覚えもない。
「どうしたの? 誰かブレーカーでも落としちゃった?」
しかし、分からないことを考えていても仕方がないと、漢華は足速にリビングへと向かう。
ドアを開くと、そこも真っ暗であった。
いつも周音が寝転んでるソファーの上に、母と明希の姿を認め、少し安心する。
けれども、やはりそこに秦周音の姿はなかった。
「ちょっと、母さんも明希もなにしてんのよ。てか、今日周音いない感じ? アイツ朝そんなこと言ってたっけ――――」
漢華はそんな呑気なことを言いかけ、しかしすぐに口を噤んだ。いや、正確には噤まされたのだ。
暗闇の中に見える二人の家族。何故かその顔付きは、まるで死人のように弱り切っていた。
そんな母と妹の姿に、漢華は何かろくでもないことが起きたのだと何となく悟る。
「……なに、なんかあったの?」
「漢華」
おっかなびっくりに問いかけると、そこで母はようやく口を開いた。
まるで喉の奥から絞り出すような声であった。
続いて目頭からドッと涙が溢れる。
呻きと嘆き、そして嗚咽とが入り混ざり、とても母はまともに言葉を話せるような状態ではない。
しかし、それでも母はなんとか、自分の娘に一つの残酷な事実を伝える。
「周音がッ……、周音が死んじゃったよ」
頭の中が真っ白になった。
思いもよらぬ青天の霹靂であった。
そのあと、自分が母にどんな言葉を返したかは覚えていない。
一つだけ確かなのは、その日以降、秦漢華は人間らしい自然な笑い方を忘れてしまったということだけであった。




