第七十八話 『クソヤロウに報いを』
舞台は戻って、東京タワー。
その地上一五〇メートル地点に位置する展望台、通称メインデッキの中でのことであった。
今、そこに人々が賑わう観光地としての面影はどこにも存在しない。
あたり一面のガラスは割れ尽くし、床はどこもかしこもヒビ割れ、全ての形あるものが尽く瓦礫と化している。
そんなどこぞの紛争地のような有様を晒す空間の隅で、幼い少年の体に巨人の腕を生やした悪魔――ムンヘラスは遂に床との接吻を強いられていた。
――――ハッ、入りゃあきっちり刺さるじゃねえか。
瓦礫の上に横たわる怪物をギロリと睨みつつ、樋田可成はその確かな手応えに思わず身を震わせる。
まずは『虚空』で背後を取り、すかさず『白兵』を用いた強烈な蹴撃をたたみこむ。
カセイがたった今しかけた一連の攻勢は、見事成功したと言っていいだろう。当然致命傷を与えられたわけではないが、それでもヤツに一撃入れられたのはかなり大きい。
これまでムンヘラスは完全にこちらを舐め腐っていたが、これで向こうもいくらか慎重になってくれるに違いない。
堅実に追い詰められるのもそれはそれでキツイが、今のカセイの目的はあくまで秦が戻ってくるまでの時間を稼ぐことだ。
その圧倒的な力量に任せ、短期決戦を仕掛けられるよりは余程都合が良い。
――――ヘハッ、こっちはあれだけ体張ったんだ。努力に見合うようきっちり過大評価してくれよ。樋田可成様TUEEEEEEと心に刻め。
しかし、未だ戦況は問題だらけである。
先程のコンビネーションに使った『虚空』と『白兵』はあと一つずつしかストックがないし、そもそも今の樋田の『天骸』は既に万全の三割を切っている。
仮に『燭陰の瞳』をもう一度使えば、その時点で完全に樋田の『天骸』は底を尽いてしまうだろう。
――――まっ、こんなとこでバカみてえに殺される気もねぇがな。
しかし、カセイの闘志は未だ立ち消えてはいなかった。
これは意地の問題である。
そもそも秦はここで樋田が殺されないことを信じ、自分の本意を曲げてまでアジ・ダハーカを追ってくれたのだ。
確かに樋田可成はどうしようもない人間だ。
だが、例え同じクズはクズでも、人に誓った約束すらも守れない男にだけはなりたくない。
――――絶対に負けるわけにゃあいかねえ。もうこれ以上、一人たりとも殺させやしねえさッ……!!
その鉄の如き誓いが、少年の心を奮い立たせる。
だから彼は決して物怖じすることなく、堂々とムンヘラスの額に黒星の銃口を突きつけた。
「オラ、立てよ動物。保健所送りにされるか、それとも地獄で里親でも探すか。この俺様も暇じゃねえんだ。どっちか選んで、とっとと最短ルートで死んじまいな」
煽り口上で己を奮い立たせるのはいつものこと。
だが、その悪意を大いに孕んだ言葉は、これまで倒れ伏していたムンヘラスの導火線に火を灯すこととなった。
「……ふざけるなアアアアアアアアアッ!!」
周囲の瓦礫を滅茶苦茶に吹き飛ばしながら、猛きダエーワは再び両足で地を踏みしめる。
それまで茶であった瞳は黄金に染まり、柔肌の下では太い血管がまるで別の生き物のように脈打っている。
たとえ姿自体は幼い少年のそれであっても、コイツの正体は悪辣極まるダエーワなのだということを改めて思い知らされる。
「猿が舐めたことほざきやがってえええええッ!! 決めた。お前はここで喰い殺す。そんで、明日糞にして便所に流してやるッ……!!」
まるで有言実行と言わんばかり。
そこでムンヘラスはすかさず、再び四本に戻った巨人の腕を雨嵐と繰り出してくる。
残された術式と『天骸』だけで、この猛攻を防ぎきることは不可能。
だが、それでもカセイはメインデッキの中を縦横無尽に飛び回り、何とかギリギリのところで腕の直撃を避け続ける。
「んッ」
しかし、そこで変化があった。
これまで闇雲に突き出され続けた巨人の腕、それがいきなり樋田の近くにあった太い柱を掴み取ったのだ。
そしてそのまま力任せに巨腕を引く。
自然、ムンヘラスの小さな体は腕の力に引っ張られ、一気にこちらの懐まで潜り込んできた。
「ハローお兄さぁあんッ!! ビックリしちゃったかなあああんッ!?」
大喝、そして猛攻。
頭上から叩きつける形で、巨人の腕が四本まとめてカセイの脳天を狙う。されど――――、
「糞ド素人がッ」
そこで、樋田はすかさず頭上に『盾装不動』を展開。
直後、耳を打つような衝撃と共に、巨腕の一撃が『天骸』の壁を力任せに殴りつけた。
無貫無割を誇る秦とは違い、当然樋田の盾は薄く、そして脆い。
ただの一撃で『盾装不動』はヒビ割れ、続く連打によって完全に砕け散ってしまう。
しかし、その一瞬を稼げれば充分であった。
しかも向こうは丁度大振りを放ち、致命的な隙を生じさせたばかり。
カセイは砕け散り始める盾の下からドッと飛び出すと、そのまままカウンターを狙ってムンヘラスの懐へと飛びかかり、
「糞汁ブチまけて死ねええええええええええッ!!」
そして、右手に構えた大振りのナイフで首を薙ぐ。
しかし、その一撃が悪魔の首を見事斬り落とすことはなかった。
ナイフがダエーワの頸動脈に到達する正にその直前、唐突にムンヘラスの頭が消失する――――いや正しくは、まるで亀が甲羅の中に頭を引っ込めるが如く、悪魔の頭部が胴体の中へズブリと沈み込んだのだ。
――――これも『変化』の一環てかッ……!?
しかし、ムンヘラスの曲芸はそれだけに留まらない。
すぐさま距離を取り直そうとするカセイに対し、ダエーワは全体重を乗せた強烈な蹴りをもって追撃する――――が、ここでも紙一重。
されど、なんとか避けられたと思ったその直後、足の側面から生えてきた腕に後頭部を思い切っり殴りつけられた。
脳がグラリと揺れ、冗談抜きで一瞬意識が飛びかける。
殴打の衝撃は凄まじく、流石の樋田もなすすべなく床に叩きつけられ――――、
ヤバい。
そう思った頃にはもう遅かった。
「アハハハハハハハハハッ!! ド素人はどっちだ、このクソイキリ野郎ォオオオオオオオオオッ!!」
そんな明らかな隙をかのムンヘラスが見逃すはずもなかった。
まずは巨腕のうちの一本が、カセイの体を上から力任せに抑えつける。
続いて、残りの三本に変化が生じた。
それはまるで晴が多用する翼を槍と化す技術が如く。
腕の先端より骨を材料とした六〇センチ程の刃が飛び出し、三本の巨腕が一気に鋭利な殺傷性を獲得したのだ。
あとは、これを振り下ろしさえすれば、このクソ生意気な人間は死ぬ。
そう勝利を確信でもしたのか、ムンヘラスはその幼い顔に下卑た笑みを浮かべて吠える。
「……言っておくけど、ここでお前が殺されるだけで済むと思うなよ。お前の友人も親も恋人も、このムンヘラス様が一匹残らずブチ殺してやる。男は肉団子にして低級どもの餌に、女は股穴が裂けて死ぬまで犯し尽くす。アハハハッ!! みんな揃って地獄に行けるのが決まってるなら、ここで殺されるのも怖くはないよねえ? なあ、可成ちゃんよおおおおッ!!」
然して、ムンヘラスは樋田の首元目掛けて刃を振り下ろす。
だがしかし、それでも彼は特に何も抵抗をしなかった。
何故か、それは単純にする必要がないから。
敢えてその理由を言葉にするならば、彼はその瞬間、偶々視線をやった窓の外に、とある天使の姿を認めたのだ。
「『|濡れ湿る水劇波《ワルツァーヘルツ=イグラシア》』」
まず初めに聞こえたのは、キュィイイインッ!! という歯医者のドリルを彷彿させる高音であった。
音の出処など言う態々言う必要もない。
その直後、破れた窓ガラスの外側から、一刃のウォーターカッターがマッハ2で殺到した。
しかもそれが奇襲であるならば、いくらあのムンヘラスといえども避けられる道理はなし。
結果、かのダエーワがその存在を認識するよりも早く、高速水刃は悪魔の胴を腹の辺りで二分した。
まるで二週間前の樋田と同じように、下半身の上から上半身だけがズルリと滑り落ちる。
「ふっふっふ、先輩はこの松下に何か言うことがあるんじゃねぇですかねえ? 松下的には超絶ファインプレー通り越して、先輩の命の恩人まであると思うんですが?」
そんなあまりにも呆気ない決着をもたらした銀髪の天使――――松下希子が、フワリとメインデッキの中へと降り立つ。
目の前には割とグロい光景が広がっているが、そこらへんこのクソ女はどうとも思わないらしい。
それどころか、彼女は如何にも疲れたと言わんばかりに、腕で額の汗を拭う仕草を披露してみせた。
途端に「殴りたい、この笑顔」的な衝動に駆られるが、実際命を救われた手前あまり強くは出られない樋田可成である。
「……へえへえ助かった助かった。あんがとさん」
「はえー、なんか命を救ってもらった割には適当過ぎやしませんかねえ?」
「サンキュー、愛してるぜ希子」
「うわぁ……キモすぎて鳥肌不可避です。なんか穢れた気がするんで祝詞あげてもらいに行ってきて良いですかね?」
「あぁ、それが良いだろうな。そのクソみてえな髪質には絶対なんか取り憑いてる」
「モジャ毛ディすれば口喧嘩無条件勝利みたいな風潮やめてくれねえですかねッ!! 言うて髪以外完璧な松下と比べて、先輩なんかコンプレックスになる要素だらけじゃねえですかッ!!」
「細目だの童貞だの、もう色んなヤツに言われまくったせいでなんとも思わねえよ」
「ヴォルデモ○トみたいな鼻しやがって……」
「テメェ、それ言ったらクルー○オ苦しめだかんな」
命の危険から解放された安堵からか、ついつい無駄話に興じてしまった。
樋田はそこでゴホゴホ咳払いをし、改めて今の状況を確認しようとする。
「で、なんでテメェはこんなとこにいやがんだよ。学園の方でダエーワの発生源について調べてたんじゃねぇのか?」
「いや、実は机と向き合うだけでは限界があるってことで、筆坂さんと一緒にフィールドワークかましに来たんですよ。それで偶々こちらの方に足を運んでみたところ、なんだか空が騒がしい様子だったんで――――っ――――――ッ!!」
と、そこで彼女の言葉は唐突に途切れることとなった。
意外も意外、微かに生まれつつあった安堵の雰囲気は秒で消し飛ぶ。
先程水刃に胴を二分されて死んだはずのムンヘラス。何とその上半身が急にはね飛び、横から松下に斬りかかってきたのだ。
「――――――グッ」
松下は反射的に巨腕の刃を隻翼で受け止めるが、その怪力に耐えきれず、そのままメインデッキの隅の方へと勢い良く吹き飛ばされていった。
「一体何がッ……!?」
アイツは胴体を真っ二つにされて死んだはずではないのか?
そう思って、半ば反射的に残された下半身の方を見やり、そこで樋田はようやく一つの事実に気付いた。
「んだ、こりゃ……?」
ムンヘラスの下半身、なんとその内側に本来あるべき内臓が見当たらないのだ。
まるで胴からワタを抜かれた烏賊の如く、腹の中には不気味な空洞のみが広がっている。
――――まさかッ、重要器官をまるごと上半身に逃したのかッ……!!
ムンヘラスは自らの権能を『変化』であると言っていた。
その『変化』とやらが仮に体の構造すらも変えうる術であるならば、当然中身だけを体の中で自在に動かすことも可能であるに違いない。
然して、更に変化は続く。
恐らくは失った分の肉を余剰から充てがったのだろう。ムンヘラスの背中の巨腕が僅かに収縮し、代わりに上半身から下半身がニュルリと飛び出したのだ。
ムンヘラスは新たに生えた肉体の調子を適当に確かめながら、酷く気怠げな声色でぼやく。
「……ハンッ、たかが真っ二つにされたくらいで死ぬわけないじゃん。首の骨が折れただけで死ぬ、お前ら下等種族の尺度でこのムンヘラス様を測らないで欲しいものだね」
これで五体満足。しかし、いくら再生するとはいえ、やはり下半身を斬り落とされたのは業腹であったのだろう。
「さぁて、それじゃあ殺すか」
そんな短くも、それだけに恐ろしい一言があった。
ムンヘルスはその巨腕で力強く地を蹴り、瓦礫の上を転がる松下に追撃を仕掛けようとする。
「『破滅の枝』ィイイイイイインッ!!」
このままでは松下が殺される。
そう確信したカセイは、ムンヘラスにナイフを向け、そう絶叫する。
それまで松下を襲おうとしていたムンヘラスが一転、凄まじい形相でこちらを振り返る。
『破滅の枝』は樋田が持つ聖創の中でも最大の火力を持つ正に必殺の一撃。いくらムンヘラスといえども、そんなものを全身に浴びれば命はない。
向こうの決断は早かった。
当然『破滅の枝』の発動を阻止しようと、一気に四本の巨腕が雪崩の如く殺到する。
「『盾装不動』。重ねて『鎧装不動』」
しかし、樋田は盾と鎧の合わせ技で、その猛攻を冷静に防ぎ切る。
元々本当に『破滅の枝』を放つつもりはなかったのだ。ただ、一瞬でも松下からこちらに気を逸らせればと、苦し紛れのハッタリをかけたに過ぎない。
「……助かりました先輩。本当にありがとうございます」
しかし、時間稼ぎは充分であったのか。
松下は既に瓦礫の上から立ち上がり、ムンヘラスともある程度距離を取り直していた。
未だ健在な彼女の姿に、止まりかけた心臓がこれまでの鼓動を再開する。
「……そいつの権能は変化だ。変化つってもガワだけじゃねえ。体の構造までまるごと変わる。急所を突けばそれで終わりとは思うなよ」
兎にも角にもこれでに二対一。
しかも都合のいいことに挟撃の状態だ。
ムンヘラスがどちらかに向かえば、自然、もう一人がヤツの背後を襲う形が出来上がっている。
ならば、かの巨大ダエーワをこれからどう打って出るだろうか?
次の瞬間、悪魔が取った手段は至極単純なものであった。
「あんなくだらない小細工にこのボクが……クソッ、たかが女一匹増えた程度で勝った気になってんじゃねえぞォオオオオオオオッ!!」
つまりは二人を同時に相手取る。
ムンヘラスはその巨腕で近くにあった大きな瓦礫を掴み、渾身の力で樋田に投げつけたのだ。そして直後、そのままの足で松下の方へと襲いかかって行く。
敵ながら、巧い。
樋田が飛んできた瓦礫を必死こいて避けている最中、ムンヘラスは身長三メートルを越える本来の姿へと戻り、その巨体をもって一気に松下を攻め殺そうとする。
「うひゃあああああああっ、なして松下狙いなんですかッ!?」
「黙れ、お前は絶対に殺してやるッ!!」
一瞬で松下との距離を詰めたムンヘラスは、その豪腕で少女を叩き潰そうとし――――しかし、その猛撃は虚しく宙を切った。
「ははっ、なーんてね」
それは、松下お得意の無音殺傷法。
彼女は自らの身体が叩き潰されるその寸前、『虚空』で瞬間的にムンヘラスの頭上へと回り込んたのだ。
そのまま彼女がうなじの辺りに双剣を突き立てると、まるで噴水のように悪魔の体から鮮血が噴き出す。
「しまッ……!?」
しかし、ムンヘラスもただ黙って刺されたわけではない。
そこで悪魔は即座に自らの体を微かに収縮。
新たに生み出した巨腕をもって、首元に取り付く銀髪の天使を掴み取ったのだ。
「よぉおし、まずは一匹ッ……!!」
「アアアアアアアアアッ!! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬマジで死ぬぅううううッ!!!! ちょっ、助けてくださいセンパァアアアアアアイッ!!」
「………………松下ァッ!!」
いや、さっさとテレポートして逃げれば? とか思ってしまったせいで対応が遅れた。
もしかしたら全身を鷲掴みにされた激痛のせいで、『虚空』に用いる座標の観測辺りが上手く行えないのかもしれない。
「クッソ……、『踊り狂う音劇波』ゥウウッ!!」
だが、緻密な観測を要とする『虚空』は無理でも、ただ音を操るだけの『我が主は神なり』ならば今の松下にも扱えた。
彼女はそのソニックブームの威力をもって、巨腕の握力を内側から振り解く。されどその直後――――――、
「えっ」
骨の刃を纏い、確実な殺傷力を得たムンヘラスの剛腕。その一撃が銀髪の天使を袈裟懸けに切り落としたのだ。
斜めに二分された少女の体が、ボトリと地に堕ちる。
当然、松下の天使体は瞬く間に崩壊を始めた。その様はまるで蛍の群れが宙を舞うが如く。『天骸』で象られた偽りの体は、無数の小さな光と化し、フワリとどこかへと霧散していく。
「おっ、と」
そうして完全に天使体が崩壊したあと、そこでは生身の松下がペタリと座り込んでいた。
最早ただの女子中学生と化した癖毛の少女、身長三メートルを超える屈強なダエーワと至近距離でバッチリ目が合ってしまう。
松下希子、決断のときであった。
「すいません先輩ッ!! 松下的には先輩が勝つこと信じてますからッ!!」
それだけ早口で言い残して、ヒュンと。
松下は『虚空』の瞬間移動能力をもって、堂々と戦線を離脱してしまった。
無論、樋田を連れて行かず一人で、である。
「何しに来たんだよアイツ……」
これで数の優位は失われた。
こちらに残された手札は随分と寂しくなった術式群に、今にも底を尽きそうなたった二割の『天骸』のみ。
これで秦が来るまで凌ぎ切れるであろうか? 持久戦も長引きに長引き、いよいよ本格的に追い詰められてきた。
そのことは既に勝利を確信しているであろう、ムンヘラスの余裕気な顔色からも伝わってくる。
「ブッッ、アャハハッ!! オイオイどうした? 折角やって来たお仲間も帰っちゃったけど、こりゃもう本格的に見捨てられちゃった感じかな? 哀れだなあ、本当心の底から同情するよ……ほら、ショボくれてないで吠え返してみろよ。このクソ負け犬野郎が――――ァアア――――ッ!!」
しかし、こちらが不利になると思われた戦況は、唐突なアクシデントによって一挙に逆転することと相成った。
ボグウオワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアンッ!!
と、鼓膜が破れるかと思うほどの爆音が窓の外から聞こえてきたのだ。
樋田もムンヘラスも思わずそちらを見やる。
この距離では大爆発が起きた以上のことは確認出来ない。だがしかし、両者ともその場所で何が起きたかを既に何となく悟っていた。
「……ハハッ、マジでやりやがったぜ」
「オイ、嘘だろ」
両者の反応は至極対照的であった。
溢れる喜色を隠し切れない樋田に対し、悪魔はまるで譫言のように呟く。
あの大爆発は間違いなく秦が引き起こしたものであろう。あの唐辛子女はカセイの期待にしっかり応えてくれたのだ。
正直、想像以上であった。
軽くキロ単位で東京の空を覆い尽くす無限爆陣。
あんなものをまともに喰らえば、かのアジ・ダハーカといえども生きているはずがない。
「……ブッ、アハハッ、ギャハハハハハハァッ!!」
今度はカセイが笑い狂う番であった。
ムンヘラスの作戦は、アジ・ダハーカが秦の相手をしているうちに樋田を殺すというもの。
その前提が、今ここで崩れる。
倒すべき敵を倒した秦漢華が、次何を爆殺しに来るかなど態々言うまでもない。
「オラッ、しっかり目に焼き付けろクソ間抜けッ!! テメェのお仲間、ありゃあ間違いなくウチの漢華ちゃんにブッ殺されちまったぜェエエッ!! 可哀想だなあムンヘラスくん……哀れだなあ、惨めだなあ、ひとりぼっちは寂しいモンなあ? ゲヒャヒャ、クッソ嗤えるぜ。ザマァみろォオオオオオッ!!」
そうして樋田は親指で自らの首を刎ねる真似をしながら続ける。
「タイムリミットだ。糞漏らしたガキみてえに泣き喚いて絶望しろ」
「……あぁ、そうかい」
「あぁん?」
しかし、対するムンヘラスは至極冷静であった。
今すぐなりふり構わず逃げ出したりしない限り、これでヤツの敗北と死は運命レベルで決まったにも関わらずである。
「……一つ、お前に教えてやるよ」
山羊の頭に人の体、そして蝙蝠の翼を持つ三メートルの巨大生物は、近くにあった柱を無理矢理へし折り、まるで得物のように肩に担ぐ。
それに呼応して、悪魔の瞳は赤く染まり、ただでさえ恐ろしい怪物の顔に更なる深い皺が刻まれていく。
そして、そこには思わず吐き気を催すほどの殺気があった。
瞬間、樋田の顔から余裕ぶった笑みがサッと消える。
「なあにイキってやがんだこのクソヒモ野郎ッ!! 他人の強さ笠に着て、それで自分まで強くなった気にでもなってるのかッ!? 畜生がッ、マジでムカつくッ。その女がいくら強かろうと、今ここにいるのは殺されるしか能のねえ糞雑魚のお前だけだろうがアァアッ!! 」
喉が裂けそうな絶叫と共に、ムンヘラスの巨体が殺到する。
彼が選んだ選択は至極単純だ。
例えこのあと秦に殺されようとも、お前だけはここで殺してやる。
そのことを証明するかのように、怪力に振り回された柱が、横薙ぎの軌道でブゥウウンと襲いかかってくる!
「――――三聖創多重展開」
対する樋田は『白兵』『盾装不動』『鎧装不動』、三つの聖創を一度に発動した。
盾が砕けることで僅かに柱の威力を殺し、続けて強化に硬化を重ねた全身でこれを受け止めにかかる。
「チ、クショウッ……!!」
だが、どうしようもなく重い。
当然だ。たかが身長一七〇ちょっとの小兵が、三メートルの巨体から放たれるフルスイングをまともに食らえばどうなるか?
当然、受け切ることなど出来るはずもなく、体ごと独楽のように振り回された。
パキリと骨にヒビが入る音がし、グジュリと脇腹の古傷が血を滲ませる。
「アハハハハッ、やっぱコレだねッ、これこそが生きている証ってもんだ。お前らみたいな雑魚殺すのに技術なんざ要らない。こうして圧倒的な暴力で蹂躙してやれば、ただそれだけでお前達は死ぬんだもなッ!!」
万事休す。
全身を襲う殴打の猛攻を、無駄に防御力が上がった体で耐えることしか出来ない。
いや、正確には耐えることすら出来ず、気付けばタワーの外淵ギリギリまで追い詰められていた。
この辺りの壁は既に破壊されており、地上への落下を妨げてくれるような障害物は何もない。
事実、樋田の足元ではパラリと床の一部が砕け、真っ直ぐ遥か下方の地上まで落ちていった。
「……クソッタレが」
瞬間、シュゥウウという気の抜けた音と共に、盾と鎧の術式が崩壊する。『白兵』の方ももう長く保たなそうである。
しかし、それで樋田の敗北が決定したわけではない。
「馬鹿が。俺ァ何度も言ったはずだぜ」
ムンヘラスの一撃が振り下ろされる正にその瞬間、樋田は最後に残った『虚空』を発動させたのだ。
地を割る極大の破壊音と共に、ムンヘラスと立ち位置を入れ替わる形で、その背後へと回り込む。
されど――――そこで上手くいかないのが、樋田可成が樋田可成たる所以であった。
「ヤベッ、ちょっとズレたッ……!!」
樋田はこの日はじめてこの術式を使うようになったのだ。当然、松下のように自分の思う通りの場所へ正確に飛べるわけがない。
カセイ的にはムンヘルスの真後ろに飛んだつもりであったが、意図せず少し離れた地点へと出現してしまったのだ。
「締まらねえなァ本当ッ……!!」
だが、それがどうしたと樋田は獰猛に笑う。
これまでクールにスマートに済ませられたことなど、一度も無かったではないかと。
所詮樋田可成は凡人。
そんな自分に許されているのは、選ばれた人間なら簡単に出来るようなことにも命を賭け、ギリギリのところで何とか奇跡を掴み取る。そんなクソダサい泥臭さだけだ。
だから、樋田は無我夢中で地を蹴った。
そして、ムンヘラスが振り返るよりも早く、その背中に全身全霊を込めた渾身のブチかましをお見舞いする。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
「クソッ、オマエエエエエエエエエエエエッ!?」
秦が来るまでの時間稼ぎ。
そんなのはコイツの頭に血を登らせるためのブラフでしかない。
当たり前だ。
他人になど任せられるはずがない。
樋田は初めに宣言した。
俺がお前を殺してやると。
この胸に抱いた熱い怒りも、この心を焦がす黒い憎しみも全部自分のものだ。
なら、そのケリはテメェでつける。
樋田可成が心の底から殺そうと思ったこのクソヤロウは、樋田可成自身の力で殺さなければ意味がないッ!!
「最後に、もう一度だけ言ってやらあ……ッ!!」
そこが決め手となった。
三メートルを超えるダエーワの巨体が、床がない方へとグラリと揺らぐ。
そして、カセイはそこで更に駄目押しの蹴撃を追加し、
「テメェを殺すのは、この俺だってな」
この緊迫した場にそぐわない、やけに爽やかな笑みを浮かべてみせる。
然して、遂にムンヘラスの両足が地を離れた。
このままこのダエーワは真っ逆さまに落ちていき、全身が潰れたトマトのようになって死ぬのだろう。
されど――――、
「ふざけるなッ!! このボクがッ、こんなくだらないところでッ、こんなつまらない方法でッ、殺されていいはずがないだろオオオオッ!?」
足場を失い、重力に絡め取られる。
それと同時に少年の姿に戻ったムンヘラスは、その背より巨人の腕を伸ばし、なんとかメインデッキの淵を掴むことに成功したのである。
一度色を失いかけたムンヘラスの顔に、再び残虐な笑みが浮かび上がる。
あんな小細工に二度はかからない。
そもそも今のアイツは死に損ないなのだ。
今ここでムンヘラスを落としきれなかった時点で、樋田可成の勝算は尽きた。
結局、最終的に勝利の女神が微笑んだのは悪魔の方。
ここからメインデッキに復帰さえ出来れば、あとはクソ生意気なクソガキを磨り潰してやるだけ――――――、
「はあ?」
と、ムンヘラスは随分と甘いことを考えていた。
されど、そんな希望的観測を否定するかのように、悪魔の顔に一本のナイフが突き付けられる。
否、ただのナイフなどではない。
直後、その刃の切っ先は赤黒く変色し、触れるだけで肌が溶けるほどの高温を帯び始める。
「あっ、あっ、あァアアッ……!?」
魂が消し飛ぶ。
冗談抜きで心臓が止まる。
それは、これまでどんな手を使ってでも避けようとしてきた最悪の構図であった。
回避不能、防御不可。ほぼ接射、互いの瞳孔すら見える距離からの――――『破滅の枝』。
「やっ、やめてくれええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええッ!! たっ、頼むボクが悪かッ――――た――――――――」
「死ね」
そんな犬の糞にも劣る命乞いなど、最後まで聴く価値すらない。
樋田の右手に構えられた大振りのナイフ。
その切っ先より炎竜の咆哮が濁流の如く噴き出し、ムンヘラスの肌を、肉を、そして骨すらも、その全てを余すことなく焼き尽くした。




