第五十五話 『松下希子』
会敵、そして激突。
互いの得物がガチリとぶつかり合ったその直後、そのままこちらの首を刈り取る勢いで松下は次々と双剣を繰り出してくる。その有無を言わさぬ猛攻に、樋田は思わず仕切り直しのバックステップを余儀なくされた。
「紗織ッ!!」
そうして樋田が一度怯んだ隙を突き、松下は即座に隼志を車椅子ごとその背中に庇う。続いて彼女は再び双剣を体の前に構え、まるで鬼のような形相でこちらをギロリと睨めつけた。
「このクソ野郎ッ、一体紗織に何をしようとしていたッ……!?」
「ハッ、んなもん態々言われなくても分かんだろ。つーか逆ギレはやめろや。先に俺等を裏切ったのはテメェの方なんだぜ……なら、大切なお友達を報復にぶっ殺されたところで、テメェに文句を言う資格はねえよなア?」
そうして如何にも嫌味たらしくニタニタと笑う樋田の顔は正に極悪人のそれである。しかし、彼は次の瞬間ハアと長い溜息をつくと、その顔に浮かべていた邪悪な笑みを呆気なく引っ込めた。
「さて、三文芝居は終めえだ」
「……はあ、やっぱり釣りだったんですね」
「ハッ、ったりめえだろ。俺かて幾ら何でもそこまで人間腐っちゃいねえさ。まあテメェなら例え罠だと分かっていようとも、コイツのピンチには迷わずすっ飛んでくると確信してたしな」
樋田はそう言って紗織にチラリと視線をやると、松下に向けていた鉄管の先をゆっくりと下ろす。
何はともあれこれで話し合いの舞台は整った。もうここに秦漢華の目はない。ならば、彼女も最早くだらない芝居を打つ必要はなくなったはずだ。
「そうだな。これでテメェに聞くのは二度目になるが……オイ、松下ァ。テメェなんで俺等を裏切った?」
だからこそ、改めてそう問い直す。
確かに松下は樋田達を裏切った。しかし、それまでの彼女は確かにこの綾媛女子学園を憎み、そしてその打倒を心の底から願っていたはずなのだ。その人生のほとんどを路地裏という暴力と憎しみの世界で過ごしてきた樋田であるからこそ、あのときの彼女の憎しみは間違いなく本物であったと断言することが出来る。
しかし、実際に現実として松下は樋田達を裏切り、挙げ句の果てには二人のことを殺そうとまでした。ならば、そこに何か致し方ない理由があると考えるのが自然であろう。
しかし、そんな樋田の問いに対し、松下は不愉快そうに眉をしかめる。
「なんで裏切ったって……そんなのさっき筆坂さんに言った通りですよ。私はハナから先輩達のことを仲間だなんて思っちゃいなかった。ただ自分の目的を果たすために貴方達の力を利用しただけ――――」
「っせえッ!! なら、その目的とやらを言えや。テメェがこんなクソみてえなことするからには、何かそれなりの理由ってもんがあんじゃねえのかッ!?」
「ハッ、買い被るのはやめてくださいよ。松下はそんな高尚な人間じゃありません……つーか別に先輩にはそんなこと関係ねえじゃないですか。それともなんですか? 理由話したら松下の言う通り黙って殺されてくれんですかねえ?」
「ンなわけあるかボケ。俺ァただ……そう、俺ァ多分まだ迷ってんだよ。確かにこのままお前をただの悪人だって決めつけちまえば楽かもしれねえ。だけどな……俺ァお前が思っている以上にお前のことを気に入ってんだよ。ダチのためならテメェの命だって賭けられる。あんとき迷いなくそう言い切ったテメェの言葉まで嘘だったとは思いたくねえんだ。だからうるせえんだよ。それじゃダメだろって、お前はそんな結末で納得出来るのかって、俺の中の俺がギャーギャーギャーギャーやかましくてしゃあねえんだよッ!!」
そんな樋田の必死な言葉にどこか感じるところがあったのか、松下は一瞬まるで苦虫を嚙み潰しような顔をする。そうして、彼女はやがて何かを諦めたように溜息をつくと、再びその疲れ切った瞳をどんよりとこちらへ向けてくる。
「……分かりました。先輩には私の都合で死んでもらうのですから、それぐらいの義理は果たしてもいいでしょう」
そこで松下も樋田と同じように一度武器を下ろすと、どこか遠くに想いを馳せるかのように傍の窓の外、その遥か向こうを見つめだす。
そうして、彼女は一度自分の心を整理し終えると、少し躊躇いながらもゆっくりと語り出した。
「……そうですね。話せば長くなりますが、私の家ってクソ親父がすぐ死にやがったせいで結構貧乏だったんですよ。しかもそれから色々諸事情あって、紗織までウチに住むようになってからは、本当に首が回らなくなりましてね……冗談抜きで一日三食食べれる日の方が珍しいくらいでしたよ」
当時のことを思い出して悔しい気分になったのか、松下はそこで一度固く唇を噛みしめる。その間樋田は一度も口を開くことなく、ただ黙って彼女の話に耳を傾けていた。
「そして、そんなときに偶々この学園のことを耳にしたんです。入学金も授業科もかからないってだけでもありがたい話だってのに、大学卒業するまでの生活まで保障してくれるときたからには、本当に神様が私たちに与えてくれたチャンスなんだと思いましたよ。その話を聞いて私と紗織はすぐにここを目指すことに決めました。こんな惨めな生活からはさっさと抜け出したかったし、それに何より、これ以上お母さんに迷惑かけるのは嫌でしたからね……」
語り初めは冷静であった松下であるが、その声は段々と震えていき、握り締められた拳の方にも徐々に力がこもっていく。
「ですから私達、二人で勉強して勉強して本当に死ぬ気で勉強して、ようやく二年前の秋にこの学園の編入試験に合格出来たんですよ。そんときの嬉しさったら今でも覚えています。ああ、これでもうやりたいこと何もかも我慢しながら生きなくてもいいんだって、これからは私達も幸せになれるのかなってッ!! そんな幻想には何の根拠もねえくせに、そんときの私はバカみてえに信じてましたよッ!!」
自らの過去を語るうちに感情が昂ぶってしまったのか、松下はそうヒステリックに叫び散らすと、そのまま弱々しく下を俯いてしまう。そして、やがてこちらの表情を伺うように視線を戻すと、彼女はこれ見よがしに左肩の隻翼をバサリと揺らしてみせた。
「……で、その結果がこれです。やっぱうまい話には必ず裏があるものなんですね。先輩達ももう分かってると思いますが、この学園における学生への異常なまでの高待遇は、全国から隻翼の基となる素体を呼び寄せるための餌だったんですよ」
「なるほどな。つまりテメェも最初は他の女生徒達と同じで、学園の人体実験に無理矢理付き合わされたクチだったってわけか……」
今になって思い出せば、松下はかつても同じようなことを言っていた。
自分達はこの学園に来るまで、どこにでもいる普通の女の子としての生活しか送っていなかったのだと――――しかし、ならば何故、今の彼女はこうして学園の陰謀に加担することになってしまったのだろうか?
しかし、そんな樋田の疑問などはつゆ知らず、松下はなおも悲痛な面持ちで言葉を紡いでいく。
「ええ、そうです。ある日いきなり数人がかりで拉致られて、好き勝手に体弄りまわされて……気付いたときにはこんな訳の分からない体にされていました。しかも私は他の子達とは違って天使化中も自我を保つことが出来ましたから、便利な駒として色々学園のために働かせられましたよ……例えば学生生活の中で『天骸』への適性を持つ者を探し、見付け出し次第上に報告しろ――――とかね」
しかし、樋田はそこで思わず、彼女の話に食ってかからずにはいられなかった。
「オイオイ働かせられたって……、テメェはそれをこの学園が一体何やってるのかちゃんと分かったうえで言ってんだろうな――――」
「はい分かってますッ、分かったうえで協力してましたけど何かッ!? あははっ、つーか正直に言いますとね。松下的には別に名前も顔も知らないヤツらが学園のモルモットにされたところで、クッッッッッッッソどうでもいいんですよッ!! むしろそれでこの学園に媚びれんなら都合が良いって、少しでも『天骸』に適性がある女はバンバン密告してバンバン拉致してバンバン実験室送りにしてやりましたよッ!! 」
そう喉が裂けんばかりに叫び散らす松下であるが、それが終わると彼女は途端にまるで火が消えたかのように大人しくなる。
最初は気のせいかとも思っていたが、やはり先程から気分の浮き沈みがやけに激しいような気がする。例え口では悪人ぶったり、やけに強い言葉を吐いていたりしても、彼女の心が既に後悔と罪悪感でボロボロになっているのは、その焦点の合わない瞳だけを見ても明らかなことであった。
「……でも、それだけなら別に我慢できたんです。あくまで学園が欲しているのは私の才能だけ。私さえ我慢して奴等に尽くせば、代わりに紗織は何の不自由もなくこの学園で平穏な日々を過ごすことが出来ましたからね」
「……だが、そんなテメェの予想に反して、紗織の体にも天使化の影響が現れるようになっちまった。それが全ての始まりってことかよ」
「ははっ、鋭いですね。確かに私もこの二年間で紗織に『天骸』の適正はないものだと思いこんでいたんですが、どうやらこの世界はそこまで私達に都合よく作られてはいなかったみたいです。幸い中等部における適性者探しは私の担当だったんで、学園の目から紗織を隠し続けるのはそう難しいことではありませんでした……けれども、それでは当然紗織の体は徐々に術式に蝕まれるばかり。正直もうどうすることも出来ないのかって、そのときの私はかなり参っていました。彼女の体から天使化の術式を取り除くには、この『叡智の塔』から『火の戦車』の反転記号を奪い出さなくてはいけない。しかし、あくまで学園の所有物である私がそんなことをすれば、当然粛清は免れませんからね」
「……で、そこへ運良く俺たちがやって来たってわけか」
そんな樋田の言葉に松下はニッコリ微笑むと、心の底から嬉しそうにパンと手を合わせて続ける。
「はい、そうです。正直先輩方がいらっしゃったときは僥倖だと思いましたよッ!! お二人方がこの学園に敵愾心を抱いてるのは丸わかりでしたからね。あとはもう本ッ当笑えるぐらいチョロかったですッ!! だって松下がちょっと適当に泣き真似しただけで、先輩も筆坂さんもあっさり協力してくれんですものッ!! そのあとも御二方はちゃんと私の目論見通りに動いて、ちゃんとこの学園の真実に辿り着いて、ちゃんと目的を果たしてくれましたからね。もう本当に感謝感激雨霰ですッ!!」
「目論見どうりって……ハッ、やっぱ晴の言う通り、あのレポートもテメェの仕業だったのかよ」
「ははッ、あったりまえじゃないですか。貴方達がいつまで経っても全然手がかり掴めそうにないから、松下の方でちょこっと手助けしてやったんすよッ!! ……まあ流石に筆坂さんの方には軽く気付かれてたみてえですがね」
そうして松下は最後まで裏切りに気付かなかった樋田を嘲笑うかのように、堂々とここ数日のネタバラシを始めた。
二日前、樋田達が『叡智の塔』の中に閉じ込められたのも、全ては松下の自作自演であったこと。
自身の配下である隻翼を用いた追い込み漁と、音を操る権能によって生み出したモスキート音で、樋田を例の書庫へと誘導し、事前に仕込んでいた例のレポートを入手出来るようにしむけたこと。
そうして、樋田達にあたかも自分達は独力でこの学園の真実に迫ったのだと勘違いさせることで、裏で暗躍している自分の存在を気取られないようにしていたこと。
その全てが樋田にとっては衝撃の事実であったが、確かに今になって思い出してみると所々に思い当たる点が見受けられた気がしないこともない。
「……ハッ、なるほどな。悔しいが、見事に一杯食わされちまったぜ。流石こんな偏差値のイカれた学園に編入出来るだけのことはあるわ」
そう素直に負けを認めながら、樋田はもう笑うしかないと言わんばかりにヘラヘラと間抜けな笑みを浮かべる。
確かに晴は薄々裏切りに気付いていたようだが、結果として松下の目的は最早ほぼ果たされたと言っていい。そのことに関して言えば、確かに彼女の小細工は見事成功したのだと言えるだろう。
「だがな――――」
だがしかし、樋田は松下の言う計画とやらに一つの違和感を感じずにはいられなかった。
「なんで態々そんな回りくどいことをしやがった?」
まさかそのような指摘をされるとは思いもしていなかったのだろう。
まるで豆鉄砲を食らった鳩のようにキョトンとする松下であるが、彼女はそれでもすぐにこれまで通りの仏頂面を取り戻して言う。
「だーから言ったじゃねえですか。他に方法がなかったから――――」
「なわけねえだろ。態々そんなくだらねえ小細工しねえでも、事情を正直に話してくれりゃあ俺も晴も喜んでテメェに協力したさ。まさか、天下の綾媛生様がそんな簡単なことも思いつかねえはずがねえよな?」
「……」
樋田の至極当然な指摘に、松下は黙り込んでしまう。
そうだ、彼女の言うことは一見合理的なようで、実は全く筋が通っていない。確かに『火の戦車』の反転記号を盗み出し、隼志の天使化を阻止するには、樋田達のような外部の人間の協力が欠かせないだろう。
だがしかし、ただ反転記号を盗み出すためならば、態々こちらを騙し討ちにする必要はどこにもない。それなのに実際に松下は樋田達の命に手をかけようとした。ならばその理由はどこにある?
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははッ!!!!!!!!!!!!!!!!」
そう真剣に問いかける樋田に対し、松下が返したのはまるで気でも狂ったかのような高笑いであった。
何がそんなに面白いのかは分からないが、彼女は目元から滲み出る涙を拭い去りつつ、腹の底から沸き起こる笑いをなんとか抑えようとする。
「……ははッ、協力ですか。いい響きですね。そりゃ私も出来れば、そういう穏便な形でことを済ませたかったんですがね」
しかし、そこで松下は一度「ですが」と言葉を切ると、
「この学園の情報網をあんま甘く見ねえ方がいいですよ。学園の敷地内全てが連中の管理下にある以上、私が先輩達に協力していたことまではバレなくても、私達の間に少なからず交友関係があったことまでは隠しきれません。確かに先輩達に協力して貰えば、この塔の中から反転記号を盗み出して、紗織の天使化を食い止めるところまではうまくいくでしょう。ですが、そのあと私が学園側の人間に裏切り者としてブチ殺されちまったんなら何の意味もねえんですよ。私はこれから先もずっと紗織を守り続けたい。そして、そのためには例えどんな卑怯な手を使ってでも生き続けなきゃならない――――なら、もう私に出来ることなんて一つしかねぇじゃねえですか……?」
「オイ、テメェまさかッ……!?」
その瞬間、樋田はそこでようやく、松下が自分達を裏切った真の理由を理解した。
「あははッ、話が早くて助かりますッ!! 先輩のご察しの通り、もう学園は私のことを確実に疑っていますからね。その疑いを晴らして、これからも紗織と一緒に二人で生きていくには、もう私が自分の手で先輩達を殺すしかねぇんですよッ!!」
松下は再び双剣を体の前でガチャリと構える。話し合いはこれでお終い。あとは命のやりとりをもって決着をつけよう。
そう言わんばかりに、彼女の小さな体はすぐさま熱く猛るような殺意に満たされていく。
「ですから先輩。私のために……いや、私が紗織を救うために、ここでさっさと殺されてください――――」
そう言い終えた松下はフワリとまるで跳ねるように後ろへと飛び――――直後、その姿は近くにいた隼志紗織と一緒に、樋田の目の前から何の前触れもなく消失した。
「オッ、オイッ!! 待ちやがれテメェ!」
樋田は慌てて松下の方に駆け寄ろうとするが、二人に向けて伸ばしされた彼の右手は虚しく宙を切る。
本当にまるで映像のフィルムを切り替えるかのように、彼女達は一瞬で姿を眩ませてしまった。その消え方は目にも留まらぬスピードでどこかへと移動したというよりかは、俗に言う瞬間移動のイメージが近い。
例によって詳しい能力などは不明だが、恐らくはこれも松下の有する異能の一つなのだろう。
だが、今はそんなことよりも先に考えねばならないことがある。
――――……全く中途半端な野郎だぜ。テメェは完全なヒールに徹したつもりなんだろうが、俺にはちっさいガキがただ泣いているようにしか見えなかったぞ。
信じていたはずの人間に裏切られ、更にはその少女に殺すとまで宣言され、しかしそれでも樋田可成は笑っていた。それどころか彼の心は今この場において不自然な程に穏やかで、そこにはむしろどこか爽やかな安堵のようなものすら浮かんでいる。
「……なんでもかんでも一人で背負おうとしやがって、あんの馬鹿が」
例えその方法は間違っていたとしても、彼女の目的が自分の親友を救うためであることに変わりはない。それさえ分かれば、もう十分である。
やはり信じてよかった。彼女を短絡的に悪だと決めつけ、一方的に縁を切るようなことをしなくてよかった。
樋田達を殺すと威勢良く息巻いていた松下であるが、その手は明らかに震えていた。その姿を見て樋田はようやく確信に至ったのだ。
松下希子は決して倒すべき敵ではない。やはり彼女もまた、樋田が救うべき被害者の一人なのだと。
「殺しちまうしかねえか……なら、余計殺されるわけにはいかなくなっちまったな」
これで心は一つに定まった。
しかし、口で言って聞かせるにしても、力で無理矢理に分からせるにしても、まずはどこかへと姿を消した松下を、再び見つけ出さないことには何も始まらない。
そうして樋田は早速彼女を探すために通路の中を走り出そうとし――――、
「はっ?」
直後、鳩尾のあたりにズブリと何かが体を貫く気味の悪い感覚が生じた。そして、それに少し遅れてまるで身を焼くような激痛が巻き起こり、口の中は瞬く間に不快な鉄の味でいっぱいになる。
「ふーん、思ってたより呆気なかったですね」
樋田のすぐ後ろから聞こえる少女の声は間違いなく松下希子のもの。
彼はそのままゆっくりと痛みの発生源に視線を下ろす。すると、やはり少年の鳩尾は双剣の鋭い切っ先によって真っ直ぐに貫かれていた。




