第五十四話 『偏執の彼方に』
この世界のありとあらゆる座標に、爆破の術式を設置することが出来る秦漢華の『神の炎』。
対象の発するありとあらゆる音から、その座標を正確に特定出来る松下希子の『神の歌』。
そして、それら二つの異なる権能を連携させることによって編み出された二人の十八番――――無偏差座標爆撃は正に神の裁きを自称するに相応しい無敵の戦法であった。
こちらは敵に姿を晒す必要もなく、遠距離から一方的に爆撃を叩き込み、しかもその一撃一撃の全てが正確無比なピンポイント攻撃。そんな理不尽極まる鬼畜戦法をもって、二人はこれまでも学園に仇をなす外敵の多くを葬ってきた。
だから、松下は正直今回も直ぐに片がつくと思っていた。
いくらデカい口を叩こうとも、所詮向こうはただの人間と出来損ないの量産天使。自分達のような一流の天使が一流の戦法を用いて、連中を倒せないなんてことは万に一つもない。そう、彼女は高を括っていたのだが――――、
三十八弾目。
目標の座標特定、術式設置――――対象に回避され、命中せず。
三十九弾目。
目標の座標特定、術式設置――――対象に回避され、命中せず。
しかし、その無敵であるはずの戦法をもってしても、秦と松下は既に樋田達を攻めあぐねていた。
確かに松下は樋田達の位置を正確に特定し、秦もまた松下の指定した座標へ正確に術式を設置している。
しかしそれでも何故か、彼等は毎度ギリギリ紙一重のところで爆発の直撃から逃れてしまうのである。
――――つーか初撃は確かに当たったはずなんですが、一体どうなってんですかね……?
そしてそれ以上に不可解なのが、一度は吹き飛ばしたはずの筆坂の左足が知らぬ間に再生していることであった。
別に目で直接確認したわけではないが、今もこの両耳には、あの女が二本の足で通路を駆ける足音が確かに聞こえてくるのである。
しかし、それも二日前のことを思い出してみれば、全く理屈の通らない話ではない。確かあの日起きた塔での戦いの際、樋田可成は心臓を剣で貫かれたにも関わらず、直ぐにその体を元通りに再生していた覚えがある。
それが具体的にどのような異能であるかは分からないが、彼が人体に対する何かしらの回復手段を有していることは確かであろう。
そうなれば、自然と次に狙うべき標的は一つに絞られるはずなのだが――――、
「ああん? 何ジロジロ見てんのよアンタ」
「……いえ、何でもないです」
戦術的には真っ先に衛生兵をブッ殺すのが最善。しかし、秦漢華は決してそれを許してはくれないだろう。
この赤毛の女は如何にも人殺しに特化された権能を有している癖に、人を傷付け、殺すことに明らかに拒否感を持っているのだ。
実際彼女が術式で攻撃してるのは――――例え頭を吹き飛ばされても天使体が崩壊するだけで済む――――筆坂の方ばかりで、生身の人間である樋田の方には一切攻撃を仕掛けていない。
「――――『神の炎』」
そうしているうちにも秦は四十弾目、四十一弾目と次々爆撃を放つが、此度もその攻勢は虚しく無駄打ちと化す。
普段は多くても十発以内には敵を無力化してきただけに、秦の凶相には既に明らかな苛立ちの色が浮かびあがっていた。
「今のも避けられたのかしら?」
「……はい、毎度ギリギリですが見事なものですね。確かに体力はそこそこ削れてきましたが、連中が実質無傷である現状に変わりはないです」
「中々しぶといわね……もしかしたら二人のうちどちらかが『顕理鏡』持ちで、爆破の直前に予兆を見切ってたりするのかしら――――って、ちょっとアンタなんか汗すごいわよ?」
「……いえ、ただ少し緊張してるだけです。座標の正確な観測に問題はありませんから」
そう声色だけはなんとか平静を装うが、正直松下は今現在この上なく焦っていた。掌には嫌な汗が滲み、呼吸も次第に荒くなっていく。
平静を失ってはいけないことは分かっているのだ。このまま集中力を欠けば、『我が主は神なり』による座標観測の精度の方にも支障が出てしまう。
しかしそれでも、彼女は既に胸の底から這い上がる焦燥感を抑えきれる状態ではなかった。
――――なんで、今このタイミングで、紗織がこんなところにいるんですかッ……!!
松下が立てた此度の計画の中で、そのことが一番の大誤算であった。
それと比べれば、別に筆坂に裏切りがバレていたことも、二人を始末する前に秦が乱入してきたことも大した問題ではない。
つい先程まで、ほんのつい先程まで全てが上手くいっていたのだ。
上手く筆坂達に接近し、三文芝居で同情を誘い、その行動を誘導し、何とか彼等に『火の戦車』の反転記号をこの塔から盗み出させるところまでは成功した。
あとは早々に筆坂の頭蓋を叩き割り、その大脳に刻まれた『顕理鏡』の術式を奪い取れば全てが終わる。それでどうにか紗織を天使化から救う目算は立つというのに、何故最後の最後になってこうも邪魔が入るのだろうか。
――――あの女ッ、いつか絶対に殺してやるッ……!!
恐らくこの最悪な状況を作り出したのは学園の尻穴を舐めるしか脳がないクソ女、綾媛百羽第二位の陶南萩乃に違いない。
その証拠に先程秦の乱入によって場が乱れた一瞬、どこからともなく現れた陶南配下の隻翼共によって、紗織は例の実験室へと連れ去られてしまった。
そこにどんな理由があるかは分からないが、このまま紗織が本格的に『Sophia』による術式の調整を受ければ、近いうちに彼女は完全にその存在を人間から天使へと昇華させてしまうだろう。
そして、その体を天使に作り変えられるということは、そのまま紗織がこちら側――――つまり血に塗れた戦いの世界に足を踏み入れることを意味する。
――――そんな残酷なことが、あっていいわけねえじゃないですかッ……!!
紗織はその人生において既に多くのものを奪われている。
三春町のテロで両親を一度に失い、また彼女自身も一生の車椅子生活を余儀なくされた。
確かにそれからの紗織はかなり長い間、深い悲しみと遣り場のない怒りに取り憑かれていた。その頃のことは、今でもあまり思い出したくはない。
しかし、それでも紗織は松下と共に苦悩を乗り越え、今では普通の女の子と変わらない明るい笑顔を浮かべられるようにまでなったのだ。
そんな彼女をもうこれ以上不幸にはしたくはない。否、絶対にしてはならないのである。
だからこそ、紗織がこれから卑劣な人体実験の生贄にされるのかと思うと、今にも胸が張り裂けそうになる。今すぐにでもこんな戦いなんて放り出して、一秒でも早く彼女の元へと駆けつけたい。
しかし、ここで樋田達を殺せなければ、最早松下は裏切り者としての役割を追求から逃れることは出来なくなる。そうなれば自分はこの学園にはいられなくなり、当然これまでのように紗織のことを助けることも出来なくなってしまう。
その事態だけはどうにかして避けなければならない。
――――……結局、さっさとケリをつける以外に道はねえみたいですね。
松下はそうして再び覚悟を決め直すと、樋田達のこれからの動向を探るため、まずはその異常聴覚をもって二人の会話を盗み聞きしようとする。すると――――、
『恐らく、この一方的なアウトレンジ攻撃は、秦と松下の二人が力を合わせねば成立しないのだろう』
彼等の会話に耳をすませてみた瞬間、唐突に飛び込んできた筆坂の鋭い指摘に、松下は思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまう。
まさか彼等がこんな僅かな時間、それもただの思考実験のみで、ここまで無偏差座標爆撃の本質に迫りつつあるなど、松下は今の今まで想像すらもしていなかったのである。
これはマズい。やはり松下達が想像していた以上に、筆坂晴は優れた天使だ。このままでは、こちらの戦法のカラクリが暴かれるのも時間の問題であるかもしれない。
『そうだな。再び奴等の元へと舞い戻り、どちらかというと弱そうな松下の方を速攻で撃破し次第、早々に逃げ出すのが最善だろうが……まあ、正直正気の沙汰とは思えんな』
「弱いとは舐められたもんですね。つーか作戦会議なんてしたところで、こっちには丸聞こえなんですよッ……!!」
しかし、その後に続いた弱気な発言に、松下はひとまずホッと胸をなで下ろす。
そうだ。筆坂の優れた洞察力と分析力にはヒヤリとさせられたが、結局のところ奴等にこの状況を挽回出来るだけの実力はないのだ。
奴等はようやく真正面から秦達に立ち向かう道を選んだようだが、再びこの場所を目指す間にも容赦なく無偏差座標爆撃を浴びせ続けてやればいい。仮に彼等がここに辿り着いたところで、松下も爆撃で体力を削られた死に損ない共に遅れを取るつもりはない――――そのはずであったのに、続いて樋田可成が出した対案に、松下は一瞬でその平静を失うこととなる。
『なあ、晴。今紗織がどこにいんのか『顕理鏡』で探し出すことは出来るか……?』
その瞬間、松下は確かに自分の全身がゾワリと総毛立つのを感じていた。
何故だ。何故そこで紗織の名前が出てくる。今確実に追い詰められている奴等にとって、紗織の居場所を把握することに一体何の意味があると言うのだ。
しかし、そうして必死に自分に言い聞かせながらも、松下は既に彼の目的が何となく分かってしまっていた。
なるほど、実に合理的だ。恐らく松下が向こうの立場であったならば、迷わず同じ手段をとるに違いない。
『――――俺ァ紗織を殺しに行く』
しかしそれとこれとは話が別だ。
紗織を殺す。
明確に言葉として告げられたその一言に、松下の頭の中で何かが致命的にブチ切れる嫌な音がした。
――――あの野郎ふざけやがってええええええッ!! そんなくっだらねえことのために紗織を……殺すッ、殺してやるッ!! お前が紗織を殺す前に、必ずこの私がお前を殺してやるッ!!
殺す。
殺す、殺す。
あの男だけは殺す。
必ず殺してやる。
しかしどうやって殺せばいいだろうか。
結局このままでは紗織を助けることは出来ない。
そんなことは認められない、許容出来ない。
今すぐ殺さねばならないのに。
殺す。
紗織をこれ以上不幸にしてはならない。
だからどうにかして殺すのだ。
樋田可成を殺す、殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――――――――、
「……うっ、ぐぎうううううううううううッ!!」
なんとかその殺意を声に出すのは抑えたが、松下は知らず知らずのうちに親指の爪を深く噛みしめていた。例え皮膚が破け、肉が裂け、その中からドバドバと血が滲み出す事態になっても、彼女はその痛ましい自称行為をやめようとはしない。
「……これはッ!!」
しかし、そこで再び樋田達に動きが生じた。
その足音を聞くに、どうやら奴等は二手に別れたようである。
筆坂晴は凄まじい速度でこちらへと向かい、一方で樋田可成は上階の方に――――いや違う、その先には紗織がいる。あの男、まさか本当に紗織を殺す気なのかッ!?
「先輩、連中二手に分かれましたッ!! チビの方は真っ直ぐこちらに、細目ブスの方は上階に向かっていますッ!!」
「上階に? 不気味ね。この場面は逃げるか挑むかの二択しかないと思うのだけれど、もしかしてアイツらまだ塔の攻略を諦めていないのかしら。ただでさえ弱卒だってのに、態々戦力を二分するだなんて――――」
「……すみません、言葉が足りていませんでした。正確に言うと、あの男は先程上階に連れ去られた少女のもとへと向かっているんですよ」
「余計分からないわね。この危機的な状況で、態々そんなことをする意味はないでしょ」
「いえ、意味ならあります」
秦にそのことを話すべきか、それとも隠し通すべきか。しかし、そんな逡巡の果て、やがて少女は絞り出すように一つの事実を口にした。
「……あの子、実は私の友達なんですよ」
樋田が本当に紗織を殺そうとしているわけではないことは分かる。
恐らく向こうは紗織を助けるために、松下が秦の元を離れることを期待しているのだろう。無偏差座標爆撃が二人の連携によるものだと既に看破されている以上、それ以外の可能性は考えられない。
その作戦の本質には秦もすぐに気付いたのか、彼女はその仏頂面を更に険しく顰めていく。しかし、次に秦が口にした言葉は、松下が欠片も想像していないものであった。
「……助けに行きたいなら助けに行けばいいじゃない」
そうあっさりと吐き捨てた秦漢華に、松下は即座に彼女の方をガバリと振り返る。
しかし、対する秦はこちらに目を合わそうともしない。彼女はまるでどこか遠くに思いを馳せんばかりに、明後日の方向を見つめている。
「いっ、いいんですか……?」
「ハッ、馬鹿ねアンタ。この学園のクソ計画に嫌々従っているのが、まさか本当に自分だけだとでも思っているのかしら?」
「でっ、ですが、それでは私は学園の意向に背いてしまうことに――――」
「ハア? だから? それがなに? 今はそんなこと気にしていられるような状況じゃないでしょ。それよりも、アンタにとってはあの女の子の身の安全よりも、別に何をしてくれるわけでもない上からの命令の方が大切なわけ?」
そう言って秦は再びこちらへくるりと向き直る。そうして松下の肩にポンと手を置くと、最後にまるで脅すようにこう付け加えた。
「それにアンタはまだその子を助けられるんでしょ。なら、四の五の言ってないでさっさと助けに行きなさい。ここで無理に自分の気持ちを抑えつけたりしたら――――アンタ、きっと一生後悔することになるわよ」
一生後悔するかもしれない。
自分でも薄々と考えていたことを、はっきり言葉として伝えられ、松下の胸の中でドクリと心臓が跳ねる。
そうだ。後のことは後で考えればいい。今はとにかく紗織を助けることに全力を注ぐべきだろう。しかし、まさか秦がそんなことを許してくれるとは夢にも思わなかったのだ。
その凶悪な目付きと、今まで事務的な会話しかしてこなかったせいで誤解していたが、この少女はもしかしたらそんなに悪い人間ではないのかもしれない。
「恩に着ますッ……!!」
松下はそれだけ言い残すと、その隻翼を宙に大きく広げ、ジェット機のような勢いで上階の方へと飛び去って行く。
それからすぐに彼女の姿は見えなくなり、今この広い通路の中には秦漢華一人のみが残されることとなった。
「さてと、それじゃあ――――」
その瞬間、死角から唐突に、こちら目掛けて三発の銃弾が撃ち込まれた。しかし、それらが秦の体を傷付けることはない。
第一聖創『盾装不動』。
対する秦は高密度の『天骸』を圧縮させたシールドのようなものを虚空に展開し、斜め後ろからの奇襲を完全に防ぎ切ったのだ。
そして、その鉛玉が撃ち込まれた方向を、彼女はギロリと睨みつける。
「私の相手はアンタってわけね。可哀想に、時間稼ぎの生贄にされるなんて心の底から同情するわ」
秦が睨みつけた通路の向こう側。そこからおもむろに姿を現したのは、その長い髪を青みがかった黒と鮮やかな金髪に二分し、頭上に銀河の如き天輪を浮かべた一羽の量産天使である。
「ハッ、尻の青い小娘風情が随分と大きく出たものだ。勘違いするなよ。ワタシは初めからキサマを殺すつもりでここまで来たのだからな」
量産天使――――アロイゼ=シークレンズは、こちらに黒星の銃口を向けながら、その口元に獰猛で邪悪な微笑みを浮かべていた。
♢
――――見つけた。
晴の言った上階への通路の先、そこに確かに目的の人物はいた。
隼志紗織。今も気を失っている彼女を車椅子に乗せ、その左右を二羽の隻翼が挟む形で、一行はゆっくりと実験室の方へと向かっている。
特別な力もないただの隻翼が、それもたったの二羽だ。恐れる必要はない。そうして樋田は道中に手すりの一部を拝借して作った鉄管を構えると、
「げひゃひゃひゃひゃッ、死ねやゴラァアアアアッ!!」
一向に向かって真っ直ぐに飛びかかった。
隻翼達もすぐに樋田の奇襲に反応するが、そのときには既に彼の一撃が片方の隻翼の頭を盛大に殴り飛ばしていた。
「ギャハハッ!! オラオラどうしたァッ!!」
その隙を突いて、もう一羽の隻翼が片手剣をこちらに向けて突き出してくる。しかし、樋田は咄嗟に先程殴り飛ばした隻翼の体を盾にし、そのまま二羽の体をまとめて勢いよく蹴り飛ばす。
そうして元気に地を転がる二羽の頭を銃弾で追撃すれば、戦いとも言えない一方的な敵の排除は完了。これで最早紗織を守ろうとするものは完全にいなくなった。
「ハハッ、綺麗なもんだな。壊すのが惜しくなるぜ」
未だに目を覚まさない車椅子の少女。樋田はその柔らかな頬に触れ、ニヤリと下卑た笑みを浮かべると、そのまま先端にべっとりと血が付着した鉄管を頭上高くに振り上げる。
「悪く思うなよ。恨むんなら俺にこんなことをさせたテメェのダチを恨むんだな」
そうして樋田は紗織の頭を目掛けてその一撃を振り下ろそうとし――――、
「やめろオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
そこで背後からの怒鳴り声に即座に反応。その場で腰を大きく捻り、振り下ろしかけた一撃をそのまま奇襲への迎撃へと転化する。
直後、ガキンッという甲高い金属音と共に、樋田の鉄管は首元を狙う双剣を何とか受け止めた。
双剣の持ち主は誰かなど考えるまでもない。
癖の強い銀髪がふわりと舞い上がるその向こう側では、ドス黒い殺意に塗れた大きな碧眼がこちらをギロリと睨めつけている。
「ギャハハッ!! チンタラしてんじゃねえぞもじゃもじゃッ!! あともう少しで本当に殺しちまうところだったじゃねえかッ!!」
「――――樋……田ッ、可成ィイイイイイイイイイイッ!!」
最早今の松下希子に、かつて樋田と取り留めのない会話を交わしたときの面影は欠片もない。
しかし、それでも樋田はやはり、彼女のことをただの憎き敵だと割り切ることは出来ない。表面上は分かりやすい悪役を演じながらも、その掌にはどうしようもなく熱い熱がこもっていた。




