第五十二話 『哀れなマリオネット達』
「ふっ、他愛もない」
晴の鮮やかな翼が横殴りに一閃され、ボトリと二つの首級が地に落ちる。
呆気ない。それはあまりにも呆気なく、そしてあまりにも圧倒的な勝利であった。
いくら一羽一羽の質は劣るといえ、向こうの数はこちらの四倍以上。樋田としてはそれなりの苦戦も覚悟していたのだが、どうやら晴にとってはこの程度肩慣らしにもならないようであった。
「さて、それでは先を急ぐぞ」
「おっ、おう……」
そうして晴は最後の二羽の天使体が崩壊したのを確かめ次第、元来た道を足早に引き返していく。
この程度の戦いを制することなど当然。
そう言わんばかりに無言で先を行く小さな背中に、樋田は無責任な頼もしさを覚えずにはいられなかった。
晴自身は決して優れた天使ではないというのに、あれだけの数の敵をよくもまあこうも簡単に葬れるものだ。先日似たようなシチュエーションで死ぬほど苦戦していた樋田とは正に大違いである。
「チッ……、面倒な」
しかし、無駄に迂回させられた道をようやく引き返し終わった矢先、先を進んでいた晴が唐突に立ち止まった。
樋田もそんな彼女につられて前方を凝視し――――直後、再び全身に緊張が走る。
塔の中心部分へと続く長い通路の先、その一番奥に新手と思われる二羽の天使が突如として現れたのだ。そうして樋田が反射的に黒星を取り出すと同時に、晴もその体を瞬時に天使化させる。
「ここを越えれば目的の場所はすぐそこだ。寡兵といえど侮るなよ」
「ああ、分かってる」
しかし、こちらと向こうとの距離はおよそ三十メートル。先程と比べれば数も少ないし、ここから一方的に銃弾をお見舞いするだけでも、問題なく一蹴する事が出来るだろう。
そうして心のどこかで少なからず油断していた樋田であるが、直後、彼は晴が気を引き締めろと言った理由を理解することとなった。
「確かに我等のみで侵入者を排除することは不可能でしょう。しかし、それでも第五位以上の方がいらっしゃるまでの間、この場を凌ぎ切る事くらいは可能です」
「天骸抽出完了。隷従召喚術式展開――――出でよ迷宮に巣食いし希国の怪物『牛王の道』」
そうして二羽の天使は樋田達の存在に気付くと、美しく滑らかな詠唱をもって何かの術式を発動させようとする。
隷従召喚術式。当然樋田がその言葉を聞いたのは何も今回が初めてではない。
――――よく見たらこいつら武器持ってねぇじゃねえかッ……!!
そうして彼の頭に嫌な想像がよぎったその直後、天使達は二人同時に床へ勢いよく両手を叩きつけた。途端に紫の雷光が嵐のようにほとばしり、その足元に見覚えのある巨大な魔法陣が出現する。
「ふざけんじゃねえッ、またあんな化け物の相手をさせられんのかよッ……!!」
間違いない。それは先日樋田と戦った天使が、鷲獅子を呼び出す際に用いたものとほとんど同じタイプの術式であった。
事実魔法陣から溢れる不気味な光の中には、まるで蜃気楼のようにおぞましい怪物の影が揺らめいている。
「あー、召喚術式か。なるほど、確かにこれは面倒臭いな」
「うるせえよハゲッ!! 達観してねえでさっさと撃ち殺せやッ!!」
幸いまだ召喚の術式は発動したばかり。これが完成する前に術者を殺してしまえば、術式と一緒に呼び出されかかっている怪物も消えるはずだ。
樋田はそうして素早く黒星を天使達に向け――――しかし、すぐに発砲を諦める。
銃撃で召喚の儀式を邪魔されるのは向こうも想定しているのか、彼女達は頭と心臓を隻翼でかばうように覆い隠していたのだ。
――――畜生、こんなとこで消耗してる余裕はねえってのにッ……!!
前回は『黄金の鳥籠』のゴリ押しでどうにかなったが、秦漢華や陶南萩乃と戦うこともあり得る以上、ここで貴重な『天骸』を使い切るわけにはいかない。
しかし、頼みの晴もあのデカブツと対等に渡り合うのは難しいだろう。彼女は策を用いた騙し討ちを得意とする一方、天使としてはそれほど優れた個体ではないのだ。
こういう純粋なパワータイプは、晴が最も苦手とする敵であるに違いない。
「……仕方ねぇ、こんなところで早々にブッ殺されるよりかはマシだ」
そうした逡巡の果てに、樋田はとにかくこの場を生き残ることを選択する。
彼はそうして右手の甲に刻まれた紋章の中から、かつて簒奪王より奪い取った膨大な『天骸』を引き出そうとする。しかし――――、
「オイ、そんなもったいないことをするな」
「あああああんッ!? じゃあ他にどうしろってんだよオオオオオオッ!!」
晴に突然手首を掴み取られ、樋田はすんでのところで術式の発動を思い留まる。されど、今回も鷲獅子クラスの霊獣が召喚されたならば、やはり樋田の『黄金の鳥籠』以外に抗う術はないはずだ。
それとも何か彼女には考えがあるというのだろうか。
「考えならある」
そんな樋田の思考を知ってか知らでか、晴は自信満々に断言する。
「考えってそんな都合のいいことがそう簡単に思いつくわけ――――」
「あぁクドイクドイ。いいから黙ってワタシに投げられろ」
そうして彼女は腕をブンブン回して準備運動をすると、それが終わり次第樋田の胸倉を乱暴に掴み取る。
聞き間違いであろうか。何故か今彼女の口から投げるという不穏な単語が聞こえたような気がする。
「さて、それではオマエにはこれまでの役立たずを挽回する機会をくれてやろう。当然覚悟は出来ておろうな?」
「オイ、ちょっ待ッ。せめて何するかぐらい説明しろッ!! 俺たち国民には知る権利があr――――」
「チェストオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
そんなものはなかった。
そうして晴はまるで野球選手のように大きく体を捻ると――――なんと、樋田の体を遠投感覚で天使達に向けて投げつけたのである。
「嘘だろおおおおおおおおおっ、オオオオオオオオオオオオオオオオいいいいいいいいいいッ!!!!!!!!!」
人類はその長い歴史の中で、常に空を飛ぶことを夢見続けてきた。
鳥のように自由に宙を滑空したい。そんな欲望がこの哺乳類の本能に太古の昔から根付いていたことは、かの有名なイカロスの逸話を引用するまでもなく確かなことである。
そして、少年は今確かに空を飛んでいた。
その体は地面とほぼ平行に、前から吹き付ける風の中を凄まじい速度で切り裂いていく。
しかし、そこに爽快感は皆無であった。
まず顔面が風に煽られまくってるせいで碌に息が出来ないし、そもそもこれ着地したら死ぬのでは? という恐怖に縛られ、この不愉快な空中滑空を楽しんでいる余裕などどこにもない。
そうして軽く三十メートルほど宙を舞ったあと、樋田はゴッという鈍い音と共に顔から床へと着地する。
幸い、生来の頑丈さが幸いしてかそれで死ぬことはなかったし、生来の顔の薄さが幸いしてか顔のパーツが醜く歪むこともなかったのだが、
「……あんのヤロオオオオ、ぜってええあとでブッ殺オォすッ!!」
しかし、それでも痛いものは当然クソ痛い。
そのまるで人を人とも思わない悪魔の所業に、樋田は我を忘れてブチ切れそうになる――――が、よく見てみると樋田が投げ飛ばされたのは天使達のすぐ近く、しかも彼女達が生み出した魔法陣にギリギリで手が届く距離であった。
そこで彼はようやく晴のやろうとしていることを理解する。
「晴の野郎ふざけやがってッ……!! 畜生ッ、やればいんだろやればアァアアアアアアアッ!!」
そうして樋田は魔法陣の上に手を叩きつけると、そこに己が『天骸』を一気に流し込んだ。
ただそれだけで『統天指標』による術式の上書きは完了し、召喚術式の制御権は完全に樋田へと移行する――――そして術式を乗っ取ったということは、当然そこから召喚される化物の自由も彼の手に落ちたことを意味する。
「げひゃッ、借りパク完了ッ!! オラさっさと出て来やがれ『牛王の道』ァアアアアアアアアッ!!」
直後、そこで最後の歯車がはまったかのように、召喚術式の全体が怪しく光り輝き始める。それはこれまで蜃気楼のようであった怪物の体が、確かな実体となってこの現世に顕現された証拠であった。
「オイオイ……マジかよコイツはアアアアッ!!」
そうして魔法陣の中から現れたのは、身長が軽く五メートルを超え、牛の頭に人の体を持つ正真正銘の化け物であった。その体の表面は岩山を彷彿とさせる頑健な筋肉に覆われ、右手には如何にも禍々しい赤錆だらけのポール・アックスが握られている。
ここで樋田に多少の教養があれば、この怪物がギリシア神話に登場するミノタウロスを擬似的に模したものなのだと直ぐに気付くのだろうが、残念ながら彼はその手のオカルトに関する知識をほとんど持ち合わせてはいない。
しかし、そんな彼でもこの怪物が出鱈目に強いであろうことは一目で理解出来た。最早形勢逆転は確実なものとなり、自然と嗜虐的な笑みが口元から溢れ出してくる。
「げひゃひゃひゃひゃひゃひゃッ!! すっげえオイッ、まるで虐殺と略奪と陵辱の具現化みてえじゃねぇかッ!! あははっ、いいぜ、気に入った。殺せ……殺せ殺せブチ殺せッ!! その薄汚え売女共の尊厳を、完璧にそして徹底的に蹂躙しろオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
そして、その最悪にも程がある命令は滞りなく実行された。
牛王が動き出したのは、樋田が叫んだのとほぼ同時。怪物はその強靭な肉体を用いて大きく跳躍すると――――まずより近くにいた天使を背後の壁ごと力任せに蹴りつけた。
その爆撃じみた凄まじい一撃に、背後の壁は瞬時に瓦礫となって崩れ去り、天使の体は元の形も分からないただの赤い塊と成り果てる。
「V6541戦闘不能、一個体で侵入者を足止めできる時間――――およそ三秒。当初の目的を変更、速やかな戦場からの退避が最善と判断する」
それを見たもう一方の天使は慌てて逃走を図るが、身長五メートルの膨大なリーチから逃れられるはずもない。
牛王はすぐさま天使の体を鷲掴みにすると、そのまま右手で上半身を、左手で下半身をそれぞれ掴み直す。そうして全身が一回り肥大する程に筋肉へ力を込めると、左右の腕を一気に開き、天使の体を真っ二つに引き裂いた。
「アハハッ、ざまあみろッ!! 愉快爽快痛快極まれりイイイイイイイイイイイイッ!!」
しかし、そんなモザイク不可避な光景を目の当たりにしても、樋田は欠片の罪悪感すらも抱かない。
そうして頭上から生臭い血雨を浴びながら、楽しそうに高笑いを続ける畜生に流石の晴もドン引き気味である。
「……オマエそれで正義の味方ぶるとか冗談は顔だけにしとけよ。ワタシでも流石にそいつらが可哀想になってきたんだが」
「ああん? 別に本体が死んでねえならどうだっていいだろ。つーか、んなことよりさっさと先を急ごうぜ。こんだけデケェ音立てりゃあ、また糞虫共がすぐにワラワラ湧いてくっぞ」
「まあ、確かにそれもそうなんだが、それよりオマエその牛は一体どうするつもりなんだ?」
「ああん、そうだな。まだ役には立ちそうだが、こんなバカデケえ化物を引き連れ回すわけにもいかねえ。とりあえずカルビはここに待機させて置いて、また戦闘になったら呼びつければいいんじゃねえさ」
「オイ、こんなのに名前をつけるなこんなのに。欠片も可愛くないのにちょっぴり愛着が湧いてしまうだろう……まぁ、とりあえず現状はそれがベストか。そうと決まればオマエの言う通り先を急ごう。この通路を抜ければ目的の場所はすぐそこであるしな」
そうして二人は互いに頷きあうと、最後の通路の中を一気に駆け抜ける。すると、その先には高さ十メートルほどの巨大な扉が悠然とそびえ立っていた。
その如何にも厳重そうな雰囲気に、晴は我が意を得たりと得意げに笑う。樋田もまた彼女の言うメインシステムがあるのはここに違いないと、確かな手応えを感じていた。
「ははッ、いいねえ。こうしてきっちり守られてる方が期待出来るってもんだ」
そうして二人が扉の目の前まで近付いていく毎に、遠くからは見えなかった扉の細部が徐々に明らかになっていく。
どうやら扉自体は金属でもプラスチックでもない特殊な素材で作られているようで、その表面には金や白で象られた数多の術式が刻み込まれている。
恐らくこの扉には何か異能の力を用いたセキュリティがかけられているのだろう。
「なんかヤバそうだから頼むわ」
「ああ任せろ」
出来ればすぐに中へと入りたいところだが、やはりこの手のことはその道のプロに任せるのがいいだろう。晴はそんな樋田の気持ちを知ってか知らでか、扉の表面を間近でジッと観察したり、淵を手でなぞったりを何度か繰り返し――――やがてニヤリと不敵に微笑む。
「フッ、下手に電子ロックやら生体認証やらの科学技術が使われていたら詰んでいたが、どうやらこの扉はただ術式によって封じられているだけのようだな。よし、然らばサクサクッと開けてくれ」
「オーケー、それではご開帳」
樋田が扉にドンと手を突き、そこへ己の『天骸』を流し込むと、此度も簡単に術式の乗っ取りは完了した。彼が「開けろ」と一言命じれば、巨大な扉はズゴゴゴゴゴゴゴという凄まじい音を立てながらゆっくりと開いていく。
やがて人一人が通れるだけのスペースが確保されると、二人は間髪入れずに扉の中へと体を滑り込ませた。
「……オイオイ、これまたスゲえなこりゃ」
「くははっ、ビンゴ。やはりワタシの目に狂いはなかったようだな」
目の前の光景を視界に捉えた途端、晴は満足そうにフィンガースナップをキメる。
そうして扉を潜り抜けた先には、先程最初に見た大広間に、勝るとも劣らない巨大な空間が広がっていた。しかし、その内装はこれまでのような西洋建築とは打って変わり、まるで軍事施設や何かの研究室を彷彿とさせる現代的な様相を呈している。
四方の壁はほぼ全てが電子モニターと化しており、その画面上では今も何か数字や記号のようなものが凄まじい勢いで表示されては消えていく。
「大体予想通りだな。ここが学園の中枢機関であることは最早間違いあるまい」
「……オマエ本当にスゲえな。つまりはあそこに見えるデケえのが、お前の言うメインシステム――――ひいては、あそこに目的のモンがあるってわけだな」
そう言いながら樋田が指差したのは、部屋の中心で宙に浮かんでいる謎の巨大な球体である。
その表面には、先程の扉など比べ物にならない数の術式が刻み込まれており、如何にこの球体が多くの術式を司っているかが一目で伺える。
「ああ、そうだ。この学園を統べる誰かがよっぽど捻くれた野郎でない限り、『火の戦車』の反転記号は必ずあの中に含まれているに違いない」
そうして晴はその球体の真下にある――――恐らくはこのメインシステムに干渉するためのものと思われる――――円卓状の設備の前に立つと、早速『顕理鏡』の電子モニターを展開し、サンプルの採取作業に取り掛かろうとする。
「先に言っておくが作業中に話しかけたら殺すからな」
「んなことぐらい分かってるわ。終わったらお前の方から声をかけてくれ」
『顕理鏡』の扱いに長けているであろう晴にそこまで言わずとは、恐らくあの球体にはかなり堅牢なセキュリティが施されているのだろう。
当然そんな緻密な作業を手伝えるはずもないし、せめて敵が来るのを見張るぐらいはしようかと、樋田は扉の入り口あたりでしばらく晴を待つことにした。
そうして神経を尖らせながら周囲を警戒すること約十分。やがて部屋の中から晴が出てくると、樋田はお疲れと言わんばかりにその肩をポンポン叩く。
「もう終わったのか。思ってたより随分早えじゃねえか」
「うむ。どうやらここまでネズミに入り込まれるとは思ってもいないのか、メインシステムへのアクセス自体はそこまで難しくはなかった。まあ、そんなことよりもほれ、目的のサンプルはこれでしっかり採取出来たぞ」
そう言って晴は見慣れない文字列がしこたま刻まれた電子モニターをドヤ顔でこちらに見せてくる。
そんな小難しいものを見せつけられても樋田には何が何だかサッパリなのだが、晴が出来たと言うからには出来たのだろう。
「ああ、上出来だ。なら、もうここに長居をする理由もねえし、さっさと次を目指そうとしようぜ」
何はともあれこれで、『火の戦車』の反転記号のサンプル入手という第一の目的は達成した。
あとは例の実験室で女生徒達を解放し、学園に『天骸』と洗脳術式をばらまいている頂上付近をどうにか出来れば全ての決着はつく。
いつ学園が本格的な攻勢を仕掛けてくるかは分からない以上、行動は出来る限り迅速に行った方がいい――――が、そこで樋田は晴が未だその場に立ち止まっていることに気が付いた。
折角事が順調に進んでいるというのに、彼女の顔に喜びの色はない。むしろそこには深く思いつめているような灰色の表情が浮かんでいた。
「オイ、どうしたんだよ」
「いや、それにしても順調すぎると思ってな」
そう、晴は呆気なく違和感の正体を口にした。
正直樋田もうっすらと同じ事を考えていただけに、なんと返答を返せばいいのか分からなくなってしまう。
そんな彼を尻目に、晴は懐から例のレポートを引っ張り出すと、気味が悪いと言わんばかりにそれを床に投げ捨てる。
「……やはり、オマエも同じ口か。正直こんな都合の良いモノが見つかった時点で違和感はあったのだ。本来ならばどんな手を使ってでも隠蔽すべき事柄の数々を、こんななんのセキュリティもかかってない紙束の中に全てまとめているなど狂気の沙汰でしかない。これではまるで自分達の秘密を好きに暴いてくれと言っているようなものだ」
「……いや確かにそれはお前の言う通りだが、じゃあなんで綾媛は態々そんな訳のわからねえモン作ったんだよ?」
「それが分かれば苦労はせん。正直このレポートの存在がなければ、ここまで学園の真相に迫ることはまず不可能であったに違いない。つまりワタシ達は真実に辿り着いたのではなく、誰かの意思によって辿り着かせられた可能性の方が高いと言える――――」
しかし、晴はそこで唐突に言葉を切ると、頭を雑にかき毟りながら、ハアと重い溜息をついた。
「……って、今分からんことを考えても仕方がないか。まあこの展開が胡散臭いことは確かだが、ここまで来て今更尻尾を巻いて逃げ出すわけにも行くまい。次は予定通り実験室で女生徒達を解放しに行くが、そのことは一応頭の隅にいれておいてくれ。どんな信じられないことが起きてもすぐに反応出来るようにな」
「まあ、そうするっきゃねえか。畜生、敵の考えがハッキリしねえってのは、思った以上に面倒クセェモンだな」
そうして二人はこれからの方針を確認し合うと、再び次の実験室へと続く道のりを進もうとする――――が、先を行く晴はすぐに立ち止まってしまった。
また先程のように複数の隻翼達が行く先を塞いででもいるのだろうか。最初はそんな呑気なことを考えていた樋田であるが、晴のやけに深刻な表情を見て即座に否と悟る。
「忙しいな、今度はどうした――――」
「説明は後だ。いいから黙ってついてこいッ!!」
晴はそう切羽詰まった様子で怒鳴りつけると、急に元来た道を全速力で引き返し始める。樋田も慌ててその後ろを追いかけるが、晴が天使化して通路の中を飛び始めると、もう完全に追いつくことは出来なくなる。
「畜生、いきなりなんだってんだよッ!!」
それでも樋田は未だ怪我が治りきっていない体に鞭を打ち、何とかギリギリのところで彼女の姿を視界に捉え続ける。
何が起きたのかは全くもって分からないが、晴があれほどまでに慌てているということは、きっと何かとてつもなくマズい事態が生じたのだろう。そうして樋田が嫌な想像に肝を冷やしていると、晴はやがてゆっくりと通路の中に降り立つ。
――――なんだありゃ、人間か……?
距離があるせいでまだよく分からないが、どうやら晴の足元には誰か一人の人間が倒れているようであった。
そうして樋田もようやく晴の背中に追いつくと、その人間が一体誰なのか顔を覗き込もうとし――――、
「は?」
直後、驚愕に全ての言葉を失ってしまう。
隣を見れば晴も大体樋田と同じような反応をしていた。その群青の瞳は上下に大きく見開かれ、形の良い口元も赤子のように開きっぱなしになっている。
――――オイ、なんでお前がこんなところにいるんだ……?
あの普段は冷静な晴が驚いているのも無理はない。
樋田も今この『叡智の塔』の中に囚われているのは、先日見た三人の女生徒だけであると思っていた。
まさかあの日から今日までの間に、再び新たな女生徒が主に召されており、しかもそれが自分達の見知った人物であるとは想像すらもしてなかったのだ。
「――――紗織」
肩の辺りで切りそろえられた茶髪に、ダークレッドのカチューシャが特徴的な女の子。樋田達の足元にまるで死体のように倒れているのは、間違いなく二人のよく知る隼志紗織の姿である。
そして彼女が体が既に天使化の悪影響に晒されているのは、最早火を見るよりも明らかなことであった。
顔を伏せているため肌や瞳の色は分からないが、その茶髪は既にかなりの量が金髪と化している。そして何より、未だ大きさは不十分なれど、その肩からは下の肉を食い破る形で鮮やかな隻翼が飛び出していた。
そこでようやく二人は、紗織がこれまで異常なまでに厚着をしていたのは、この生えかけの翼を隠すためのものであったのだと確信する。
「……オイ、大丈夫なのかお前」
「どけカセイ、オマエはすっこんでろッ!!」
樋田は咄嗟に隼志の元へ駆け寄ろうとするが、すぐに晴に後ろから肩を掴まれてしまう。
確かによく考えてみれば、そもそも隼志は樋田のことを知らないのだし、こんな凶相の男がいきなり近付いてきては彼女を怖がらせてしまうかもしれない。
ならば、ここはやはり彼女と顔見知りである晴に任せた方がいいだろう。
「あれ、晴ちゃん。どうしてここに……?」
「大丈夫かサオリッ!? 一体何があったッ!?」
どうやら彼女にはまだ薄らぼんやりと意識が残っているようであった。
予想通りその肌は病的なまでに白く、左眼もほとんど天使の象徴たる碧眼と化しているが、幸い首に微かな切り傷が見える他に外傷は見当たらない。
隼志もいきなり晴が現れたことに困惑しているようであったが、やがて訥々とそれまでの経緯を話し始めてくれた。
「えっと、ごめんね……。あんまり覚えてないかな。でも確か、朝にいきなり、陶南さん達がッ、私の部屋に押し入ってきて……」
大分体力を消耗しているためか、隼志の語る言葉は少ない。しかし、それで大体の事情は把握出来た。
何故それを誰にも相談しなかったかは分からないが、とにかく彼女は自分の体が徐々に天使化していることをずっと隠していたのだろう。
しかし、それが遂に最近学園側に露顕してしまい、彼女はあえなく陶南萩乃率いる一団にこの塔の中へ連行されることとなった――――そう考えれば一応全ての理屈は通る。
「……晴ちゃん。お願い、助けて」
去年までランドセルを背負っていたような女の子が、いきなり大勢に寄ってたかって拉致されるなど、下手をすれば一生ものの心の傷になったっておかしくはない。
恐らくはそんな心細いところに、いきなり見知った人間が現れたせいで感情が高ぶってしまったのだろう。
隼志はまるで母親を求める幼子のような声で、助けて助けてと何度も晴に縋りつく。そんな彼女の弱り切った姿に、晴は悔しそうに唇を噛み締め――――そしてその小さな体を力強くひしと抱き締める。
「ああ、任せてくれ。もう何も心配する必要はない。サオリのことは必ずこのワタシが助けてやる」
そう囁きかける晴の声色はこれまで聞いたことがないほどに優しく温かいものだ。しかし、その瞳からは最早隠し切れないほどに明らかな殺意が滲み出ている。
当然、樋田もそんな彼女達の後ろで今にも拳が砕けんばかりに両の手を握り締めていた。
確かにこれまでも二人はこの綾媛学園の悪行に憤ってはいた。しかし、自分達が互いに言葉を交わし、一人の友人として付き合ってきた人間を、実際に傷付けられ一気に怒りにボルテージが跳ね上がった。
何故だ。何故、紗織のような優しい女の子が、こんな理不尽な目に遭わされねばならないのだ。
そう思えば思うほどに、未だ顔も知らぬこの事件の首謀者に対する殺意が煮えたぎっていく。
これまで一度も人を殺めたことがない樋田ですらこれなのだ。相手が外道ならば問答無用でブチ殺すことが出来る晴に至っては、最早どれほどの怒りと憎しみを抱えているか分かったものではない。
「助けて、助けてよ、晴ちゃん……」
「ああ、分かってる」
晴が優しく慰めているうちに、ようやく心が落ち着いてきたのか、隼志が繰り返す「助けて」の声は段々と小さくなっていく。
しかし、そうして彼女が再び気を失うその寸前、微かに囁かれたとある名前に、樋田達は自らの耳を疑うこととなる。
「助けて晴ちゃん。お願いだから、希子を助けてあげてッ……」
それだけ最後に言い残し、遂に隼志は完全に眠ってしまう。
しかし、樋田も晴も一体彼女が何を言い出したのか上手く理解することが出来なかった。
「オイ、なんでここであいつの名前が出てくんだ?」
「そんなことワタシが知るか――――」
もしかして隼志は初めから自分ではなく、松下のことを助けて欲しいと訴えていたのだろうか。
確かに松下も学園に『天骸』の適性があることが露見すればマズい立場にある。しかし、今実際学園の脅威の前に晒されているのは隼志の方なのである。
考え得る可能性としては、まさか松下も樋田達の知らないうちに、この塔の中へと連れ去られてしまったのだろうか――――、
「オイ、カセイッ!! 後ろだッ!!」
しかし、そんな思考は突如、晴の爆撃じみた大声に掻き消されることとなった。戦闘時でも基本的に落ち着いている彼女が、これほどまでに声を張り上げるのは、簒奪王との戦い以来のことである。
樋田はそのことが意味する重大性を認識し、最少の動作と最短の時間で背後を振り返る。
――――やべッ、死ぬッ……!!
そうして樋田が後ろを向いたときは、既に謎の襲撃者が両手の双剣を振り抜いたところであった。
顔はうまく見えないが今そんなことはどうでもいい。このまま何も対応を取らねば、瞬きをするよりも早く首を落とされるだろう。しかし、そう簡単に殺されてやるほど樋田も甘い人間ではない。
彼はその一瞬で、咄嗟に右腕を双剣の軌道上に滑り込ませた。
当然腕は肘の辺りで綺麗にぶった切られたが、余計に肉と骨を切った分、首に双剣が届くまでの時間に僅かなタイムロスが生まれる。
そのまま樋田が生来の勘を活かして後ろに仰け反ると、双剣はギリギリのところで彼の首をかすめるにとどまった。
――――あっぶねぇ、あとコンマ何秒かで死んでたぞッ……!!
『燭陰の瞳』を使ったあとのクールタイムを突かれなければ、樋田には基本的に即死以外の攻撃は通用しない。
彼は此度もまた即座にその時を操る力で右腕を繋ぎ合わせると、隙だらけになっている何者かの胸のあたりを力強く蹴りつける。
「ン痛えッ……!! 死ねやゴラアアアアアァッ!!」
幸いそのカウンターは見事に刺さり、大きく吹き飛ばされた何者かの体は、そのままゴロゴロと床の上を転がっていく。
その肩から隻翼が生えているところを見るに、恐らくはこの襲撃者も学園に従う天使の一人なのだろう。
近くに隼志がいる以上、出来るだけ速攻で仕留めてしまいたい。そうして樋田は即座に黒星で追撃をかけようとするが、天使はまた即座に跳ね起きると、素早いバックステップで一度こちらと距離を取る。
「なんだよッ、これまでの雑魚と比べたら随分動けるようじゃ――――――――なっ」
そうしてようやくマジマジと襲撃者の姿を視界に捉えたその直後、樋田は再び驚愕のあまりに言葉を失ってしまう。
「あ〜、なんで今のに反応出来るんですかねえ。これでも無音殺傷法には結構自信があったんですが」
天使が両手に構えるは小回りの効きそうな短めの双剣。その衣装はこれまでの隻翼達のように綾媛の制服を着ているわけではなく、どこかピアノの鍵盤をイメージしたような変わったデザインのドレスを身にまとっている。
そして髪型はまるで雪のように白い癖毛の長髪を、頭の異様に高い位置でポニーテールにしており、他の天使と比べるとやけにダウナーな双眸が真っ直ぐこちらを睨めつけている。
しかし、なにも樋田が驚いたのは彼女の奇特な容姿に対してではない。
その純白の髪を持つ天使の顔が、自分のよく見知ったのものであったからだ。
「……ふん、やはりキサマはそちら側の人間であったか――――松下希子」
未だ目の前の現実をうまく整理出来ない樋田とは対照的に、晴は呆気なくその名前を口にする。
そうだ、やはりそこにいるのはあの松下希子であった。
髪も肌も瞳も色が変わってしまっているが、その程度で見間違うはずもない。それでも樋田がそのことをすぐに認められなかったのは、それだけ今まで自分が見てきた友達想いの松下と、今目の前にいる非情な松下があまりにもかけ離れたものであったからだ。
「なんだ、やっぱ筆坂さんにはバレてたんすね。本当勘弁してくださいよ。折角頑張ってクッサイ演技してた努力が全部水の泡じゃねえですか……つーかマジでいつから気付いてたんですか?」
「初めから胡散臭いガキだとは思っていた。だが疑惑が確信に変わったのは、キサマがあの不自然極まるレポートをご親切に持ってきてくれたときだったな」
「あー、やっぱあのレポートダメでしたか。まあ、あれが無かったら色々松下の都合のいい方向には進まなかったんで、結果オーライですよ」
そうして晴は殺意の篭ったドス黒い瞳で松下を睨むと、続いて黒星の銃口をかつての友の額に向ける。
「一応は形だけでも友人であったよしみで聞いてやる……何故裏切った?」
しかし、そんな真剣な様子の晴に対し、松下は二人を小馬鹿にするような態度を崩そうとしない。
「あ〜あ、裏切っただなんて人聞きの悪い言い方はやめてくれませんかねぇ? 松下的には最初からそちらさんのことを仲間だなんて思ったことはねえんですから」
「戯言をほざくな。何が理由があったならば聞いてやる。それともワタシに友を殺させる気か?」
「……はあ、さっさと答えろって言われても、そんなの利用価値がなくなったからに決まってるじゃないですか。御二方とも松下のために態々一つしかない命危険に晒してまで頑張って下さってありがとうございました。もう、貴方達不要なんでさっさと松下に殺されてください。あっ、でも自殺とかしょうもないことするのはやめてくださいね。松下が貴方達を殺すことに意味があるんですから」
殺す。
まさかあの松下の口からそのような言葉が出ることに、樋田は当然として晴もそれなりに驚いているようであった。
彼女の目的が見えず、思わず黙り込む二人に、松下は更にいけしゃあしゃあとその醜い本性を見せつける。
「はあ、仕方ないですね。じゃあ、ヒントをあげましょう。松下的にはですね、貴方達にはとにかく『火の戦車』の反転記号のサンプルを回収して欲しかったんですよ。そして筆坂さん達は松下の言うとおり、見事お使いを果たしてくれました。さて、ここで問題です。筆坂さんも使う『顕理鏡』はありとあらゆる霊的な情報を保存することが出来ますが、その元となる術式の刻印は一体どこに刻まれているのでしょ〜か?」
「キサマまさかッ……!?」
「はーい、正解……で、分かったならそのスッカスカの脳味噌だけ残して、さっさとブッ殺されろつってんだよ便利なマリオネット共がッ!! ――――――――へっ?」
そうして松下がまるで別人のような罵声を発したその直後、彼女の立つ遥か後方で唐突に大爆発が生じた。
まるで地震でも起きたかのような地響きと、爆発から生じた灼熱の熱風が、一気に通路の中を席巻する。ガラスは砕け、壁はヒビ割れ、今ここに立っている全員の体は今にも発火せんばかりに炙られる。
樋田はその熱から隼志を守ろうと、咄嗟にその上に覆い被さった。残念ながら晴や松下にまで気を回している余裕はない。
そうしてやがて揺れと熱風とが収まると、通路の横に飾られた装飾品の影から晴が顔を出す。特に大きな怪我はないようだが、彼女にしては珍しくその瞳は明らかに動揺していた。
「ふざけるなクソッタレ、何が今のはいきなりッ!?」
そう大きな声で喚く晴とは異なり、樋田はなんとなく今何が起きたかを悟っていた。
火薬で作られた爆弾とはまた違い、突如宙に爆撃が出現するような、この爆発の正体を樋田はよく知っている。そして何よりその威力と凄まじい熱とは、この肉体に確かな恐怖として刻み込まれている。
「……本当に救いようのない馬鹿ね。いい加減にして欲しいわ。次はないって言ったのに、もう二度と会いたくないって言ったのに、どうしてアンタはそうすぐに何でもかんでも忘れちゃうのかしら?」
予想通りの退廃的な声が、突如通路の中に響き渡る。
それから少し遅れて、燃え盛る炎の中から現れたのは、やはりまるでガーネットをそのまま目窪に埋め込んだような紅の瞳に、薔薇ですら恥じらいを覚えるであろう鮮やかな赤髪が特徴的な一人の少女――――秦漢華であった。
その天輪はまるで業火のようで、肩から生える隻翼も明らかに炎を象った形をしている。
そして何よりも驚くべきはその無尽蔵と言えるまでに膨大な『天骸』だ。炎天使から放たれるプレッシャーは凄まじく、秦漢華と同じ空間にいるだけで息苦しさを感じてしまうほどである。
一度は秦の力を間近で見た樋田でもこれなのだ。特に今日初めて本気の秦と遭遇した晴は、頭を鉄球で殴られたような衝撃を受けたに違いない。
「なんだこのふざけた『天骸』はッ!! コイツ、天界の天使ならば少なくとも卿天使の二位以上――――いや、下手をすれば王クラスの天使にも匹敵するぞッ……!?」
しかし、それでも晴はやはり百五十年近い人生の中で、数々の苦難を乗り切ってきた老傑である。彼女は取り乱しかけた心を、すぐに深呼吸で落ち着けると、やけに冷静な声色でそっと樋田に呟いた。
「悪いなカセイ、作戦変更だ」
そこで晴は一度言葉を切り、心の底から悔しそうに最後の一言を捻り出す。
「奴等に勝とうなどとは夢にも思うな。今はただ、死なずにここから出ることだけを考えろ」
松下希子に、秦漢華。
樋田と晴は図らずも、高位の天使二柱を同時に相手取ることになってしまった。




