第四十七話 『狂犬対聖獣』
「チクショウッ……!! ブルってんじゃねぇぞ玉無しがアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
恐怖から来る一瞬の硬直の後、樋田は体の震えを無理矢理に抑えつけ、素早く鷲獅子に銃口を突きつける。
怯んでいる暇があるならば一つでも多く行動しろ。この巨大生物相手に先手が打てるとするならば、未だ召喚が完了していない今しかないのだから。
そう判断した樋田は、鷲獅子目掛けて次々と鉛玉を撃ち込んでいく。しかし、それらは頑健な肉の鎧に弾かれてしまい、とてもダメージらしいダメージは与えられそうにない。
――――やっぱこんな豆鉄砲じゃ刺さらねぇか……ならッ!!
彼はそこで標的を即座に天使の方へと切り替えた。召喚術式の発動に集中し、無防備を晒している二つの額を続けざまに撃ち抜く。
しかし、会敵からの速攻が通用するのはそこまでであった。
樋田に天使体を破壊された二人の天使であるが、彼女達はその散り際ギリギリに何とか召喚の術式を成立させていた。それまで不安定な状態であった前鷲後獅の怪物が、遂にこの異界の中へと完全に顕現する。
咆哮。それは大地を揺るがさんばかりの咆哮であった。
天使達が元の少女の姿に戻るとほぼ同時に、グリフォースなる怪物はすぐさまこちら目掛けて突っ込んでくる。
その巨大な体と強靭な脚力から生み出される凄まじい速度は、まるで十トントラックが意志を持って襲いかかって来ているかのようであった。
――――その図体でそのスピードは反則だろッ……!!
こんなふざけた突進をまともに喰らえば即死は確実。そうして樋田は咄嗟に松下の体を抱え込むと、渾身の力で横へ向けて跳躍した。
直後、鷲獅子は二人のすぐそばを通り過ぎ、そのままの勢いで背後の壁へと激突する。その威力は最早、速度と質量による爆撃とでも言うべき代物だ。
見るからに頑丈そうな西洋建築も、ただの一撃で見るも無残に破壊されてしまった。
「先輩その傷ッ……!!」
「へはっ、大丈夫だっつーの。腕がもげなかっただけ大分マシだわ」
その常識外れな速度と破壊力に、樋田は本気で生きた心地がしない。
実際先程の突進が僅かに引っかかっただけで、彼の左腕はズタズタに引き裂かれてしまった。すぐに『燭陰の瞳』で治療したいところだが、いつ致命傷を受けるか分からないこの状況ではそうもいかないだろう。
「いいぜ、出し惜しみは無しだ」
しかし、それでも樋田はまだ抵抗を諦めてはいなかった。
先程の突進により吹き飛ばされた瓦礫の一部。彼はそのかつて手すりであった棒切れを拾い上げると、そのままゆっくり腰を低く落としていく。
召喚獣の戦闘力は圧倒的だ。流石は連中が切り札として持ち出してきただけのことはある。だがしかし、ならばこちらも己の持つ切り札を以って応えるのみである。
「贖え『黄金の鳥籠』」
最早『天骸』の節約などと言っていられるような状況ではない。
右手に刻まれた人狼の紋章が赤く輝くと共に、その中に溜め込まれた可能性の力が、樋田の身体能力と得物の強度とを爆発的に高めていく。
途端に身を焼くような激痛に襲われたが、そんなものは歯を食い縛って無理矢理に押し殺した。
――――簒奪王とも真正面からやりあえたんだ。デカイっつーだけでビビる必要はねえッ!!
対する鷲獅子はぐるりとこちらに向き直ると、再び無我夢中な突進を敢行する。然して、此度の彼はそれに真正面から堂々と立ち向かった。
「人間様をなめんじゃねえぞ、このクサレ鳥公がァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
上から叩きつけるように迫り来る爪撃に、樋田は得物を横に構えて備える。
そうして双方が頭上でぶつかり合った正にその瞬間、樋田は全身を強く捻り、鷲獅子の馬鹿力を背後へと受け流す――――しかし、途端に腕が引き千切れんばかりの激痛に襲われた。
こちらの身体能力は膨大な『天骸』で強化されているはずなのに、その圧倒的な体格差と重量差の前には焼け石に水。
鷲獅子の一撃はあまりにも早く、そしてあまりにも重すぎる。ただ一度攻撃を受け流しただけで、気力も魂も全て削ぎ落とされてしまったような気分であった。
しかし、それでも鷲獅子の猛攻は更にその激しさを増していく。
左右から次々と振るわれる嵐の如き爪撃に、少年の体は瞬く間にボロ雑巾のように引き裂かれてしまう。
何か言葉を発するどころか、思考に意識を割く余裕すらない極限状態。全筋肉と全神経のうち、どちらかが少しでも気を抜けば、その一瞬で命を持っていかれそうであった。
そうして朱に染まっていく肉体とは対照的に、少年の精神の方は徐々に白くぼやけていった。そのあまりの衝撃とプレッシャーに、樋田は自分の心が磨り減っていくのを確かに感じる。
しかし、それでも彼は何とかギリギリのところで松下の盾となり続けた。自分がここで倒されてしまえば、当然彼女の命運もこの場で尽きることになる。
例え頭の中は真っ白になっていても、その覚悟だけは心に深く染み付いていたのだ。
そうして何とか爪撃を受け流し続けること約十数合。しかし、そんな苦し紛れの悪あがきにも、やがては終わりの時がやってくる。
「チクショウ、こんなときにッ……!!」
樋田はそこで思わず得物を取り落としてしまう。
その理由は突然右腕へ走った電撃的な痛み。かつて簒奪王に腕の皮を剥がされた際の傷が開いたのだ。
彼は慌てて武器を拾い直そうとするが、その頭上では既に次の一撃が脳天めがけて振り下ろされている。
――――あぁ、こりゃ死んだな。
絶命の直前、少年の頭の中にはそんな淡白な感想のみが浮かび上がっていた。
いくら『燭陰の瞳』に時間を遡行する力があっても、怪我を治す間もなく即死してしまっては元も子もない。そうして彼は頭だけはなんとか守り抜こうと、反射的に内臓の詰まった胴の方を犠牲にしようとする。
「――――せっ、――――い」
しかし、そこで脇腹のあたりに突如謎の圧迫感が生じた。樋田はその力に押されるがまま、バランスを崩して横に転がり込んでしまう。
直後、先程まで樋田がいた場所を、鷲獅子の一撃が力任せに押し潰した。
その一撃はまるで複数の地雷がまとめて爆発したかの如く。そこらの床は残らず吹き飛び、嵐のように砂塵と石飛礫とが舞い上がる。
しかし、それでも樋田可成は生きていた。何者かに体を突き飛ばされたことにより、爪撃の軌道から逃れることが出来たのである。
そうして今も脇腹に縋りついている小さな影に目をやると、そこには予想通り見覚えのある少女の姿があった。
「ケガはねぇですか……先輩。ははっ、私だってやるときはやるんですよ」
「――――――何してやがんだテメェッ……!!」
樋田はそこでようやく、松下が自分のことを助けてくれたのだと理解する。しかし、そこに己が死なずに済んだことへの安堵はない。むしろ彼女が今の一撃で死んでしまうこともあり得たのだと思うと、心の底からゾッとする。
今すぐにでもこの馬鹿に説教を食らわせてやりたいところだが、今はとにかく目の前の鷲獅子の方が優先だ。
樋田はひとまず怒りを飲み込み、素早くその場へと立ち上がる。
「とりあえずこっち来やがれ……って、うん?」
そうして舞い上がる砂塵の中に紛れ、怪物から距離を取ろうとしたところで、彼は一つの違和感に気が付いた。
鷲獅子の爆撃じみた一撃により、木っ端微塵に破壊されたはずの床。それが何と独りでに再生しているである。
そこらに撒き散らされた瓦礫や破片。それらはまるで生き物のように蠢き、それぞれが元あった場所へと綺麗に収まっていく。
チラリと背後を振り返ってみると、ただの瓦礫と化していた背後の壁も、既にほとんど修復されかかっていた。
この違和感を感じたのは何も今回が初めてではない。
先週初めてこの学園に来た日、樋田は晴に壊されたはずの花瓶が、いつの間にか復元されていたのを確かに見たことがある。
あのとき疑惑だったものが、ここにきてようやく確信へと変わった。
その理由はここが異界であるからか、それとも綾媛学園自体が特殊な術式の影響下にあるからかは分からない。されど、この空間内の建物が自動再生するということだけは確かであろう。
これを上手く使えば、あの化け物に一矢報いることも可能かもしれない。
――――考えろ、かかってんのは何もテメェの命だけじゃあねぇんだ。
鷲獅子の凄まじい脚力を思えば、逃げ切ることはまず不可能。かといって真正面から立ち向かっても、一撃で挽肉にされるのが関の山だ。
ならば、搦め手に出るしかない。
己の持ちえる手札と、この場における特殊な環境。その全てを活かしに活かして、あの巨大な怪物を殺す以外に、樋田達が生き残る道はないのだから。
やがて頭の中で点と点とが繋がり、鷲獅子を狩るための作戦が形だけは整う。正直可能性は低いと言わざるを得ないが、贅沢を言っていられるような状況ではない。
「こっちだ。ついてこい」
樋田は舞い上がる砂塵に紛れながら、松下を連れて近くの扉の中へと駆け込む。すぐさま鷲獅子は扉と壁を丸ごとブチ抜いて追いかけて来たが、こうして次々に部屋を変えながら逃げ続ければ多少の時間稼ぎにはなるはずである。
それでも一つ懸念があると言えば、松下の体力が既に限界を迎えつつあることであった。
「もういい、乗れ」
「ちょっ、先輩何するんですかッ!!」
そう言って樋田は松下の体を持ち上げると、そのままリュックサック感覚で背中に背負う。いくら小柄な少女とはいえ、重りを背負って走るのは辛いが、中学生の足に合わせてチンタラ走るよりかはいくらかマシだ。
一度も後ろを振り返ってはいないので、今鷲獅子との間にどれだけの余裕があるかは分からない。それでも最初駆け始めた頃よりかは、確実に距離を離せている頃合だろう。
そうして無我夢中に駆け続けること約数分。樋田はそこでようやく目当ての空間を見つけ、素早くその中へと躍り出る。
それは通路であった。
隠れる場所などどこにもなく、ただ真っ直ぐな一本道が続くだけの通路であった。
少年がその中をいくらか駆けたところで、聖獣もまた壁ごと扉をぶち破り、堂々と一本道の中に姿を現す。
「先輩これじゃもう逃げる場所ないですよッ!!」
「ハッ、バァカ言ってんじゃねえよ。誰がいつ逃げるつった。俺ァ逃げる為じゃあなく、殺す為にここまで走って来たんだぜ」
そう言って樋田はくるりと反転すると、背負っていた少女を適当に背後へ放り捨てた。
最早彼は逃げも隠れもしない。むしろその健脚を持って、真正面から鷲獅子の突進に突っ込んでいく。
両者の距離は残り十メートル。
しかし、まだ充分ではない。まだ鷲獅子があの壁をぶち破り、一本道に姿を現してから五秒は経っていない。
怯むな、止まるな、先走るな。
迫り来る怪物のプレッシャーに押し潰されそうになれながらも、樋田はその巨体がギリギリのところまで引き寄せられるのを待つ。
「ここだアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
そして鷲獅子の爪が樋田の額をかすめた正に瞬間、少年の左目に宿る『燭陰の瞳』の力が遂に発動した。
その時を操る神権代行は、鷲獅子の座標時間を五秒前に――――即ちこの怪物がちょうど壁をぶち破った瞬間の地点へと巻き戻す。
結果、八メートルを超える鷲獅子の巨体は、自らが穿った壁の穴の中にぴったりと収まる形となった。更に今もなお再生を続ける内壁が、その胴をキツく締め上げ、動きを縛り付けていく。
「『黄金の鳥籠』」
そして『燭陰の瞳』の発動とほぼ同時に、樋田は紋章内の『天骸』を再び開放した。そのとても人とは思えない凄まじい速度をもって、彼は鷲獅子目掛けて真っ直ぐに吶喊する。
あくまで一時的なものだろうが、とにかくこれで足は封じた。あとはその命の最も脆い箇所に、刃を突き立てるのみである。
そうして樋田が狙いを定めたのは鷲獅子の左目であった。いくら皮膚や筋肉が鉄のような硬さを誇っていても、眼球まで頑丈な生物などこの世界には存在しない。
彼はそのまま渾身の力で跳躍し、鷲獅子の顔面に飛びかかる。しかし、怪物の動きを封じているはずの内壁は、既にその怪力によって崩されかけていた。
「死に晒せえええええええええええええッ!!」
果たして獣が枷から解放されるのが先か、それとも樋田の一撃がその命を刈り取るのが先か。それこそがこの戦いの勝敗を、そして両者の生死を決める天目山となる。
――――畜生、間に合うかッ……!!
そうして樋田が得物を瞳の中に突き入れる直前、内壁は無残にも砕け散り、鷲獅子から間髪入れずに横殴りの爪撃が振るわれた。
しかし、それでも樋田は己が勝利を諦めず、全力をもってその一撃を打ち出す――――するとその一瞬、何故か鷲獅子の動きが不自然に停止した。
樋田はその好機を逃さず、容赦なく左目の中に手すりを突き入れる。眼球を串刺しにした獲物は、そのまま更に奥へと突き刺さり、やがて生命の根幹をなす脳幹にまで到達する。
頭の中身を滅茶苦茶に抉られれば、いくら八メートルの巨獣といえども命はあるまい。然して鷲獅子が崩れ落ちるように膝をつくと、樋田もその巨体から力無く転げ落ちていった。
そうして一度地に倒れると、疲労と痛みでもう起き上がることは出来そうにもない。
「ハァハァ……何だったんだ、今のは……」
なんとか勝つには勝った。しかしその手に勝利の感覚はないし、むしろ今も自分が生きていることが信じられずにいる。
樋田と鷲獅子。両者の生死と勝敗が決まるその直前、どう考えても怪物の爪撃の方が少年の刺突よりも早かった。実際あの場でそのまま爪を振るわれていれば、今頃死んでいたのは樋田の方に違いない。
――――まあいい。分からねぇこと考えたってしょうがねぇ。
あの瞬間、鷲獅子が攻撃を躊躇った理由は分からずじまいだが、兎にも角にもこれで一つ山場を乗り切った。
そうして樋田がボロボロの体でなんとか立とうとしていると、聞き覚えのある声と共に、頭上から小さな手が差し伸べられた。
「凄いですね先輩。まさかあんなバケモノを一人で倒しちゃうなんて……」
そう言いながら、松下希子はこちらの労を労わんばかりににっこりと微笑む。されど――――、
「……テメェ、っざけんじゃねぇぞゴラァアアアアアアアアアッ!!」
対するチンピラ少年は自分でも驚くほどに怒り狂っていた。先程一度飲み込んだはずの怒りが、更なる熱を持って燃え上がる。彼はその激情の赴くがまま、少女の胸倉を力任せに掴み取っていた。
「えっ、ちょっ、なんで怒ってるんですかッ!?」
「なんでもクソもあるかッ!! テメェ下手すりゃさっきので死んでたかもしれねえんだぞッ!! 分かってんのか? こんのクソボケがッ!!」
「だっ、だってあのときは先輩が……」
「そういう問題じゃねぇんだよッ!! いいか、テメェが今もそうして元気に生きていられるのは偶々だ。偶々! 偶然! 運良く上手くいったに過ぎねぇんだよッ!! ッたくよ。殺されるしか能のねぇ雑魚の分際で、生きるか死ぬかの戦いに首突っ込んできやがって……いいか? テメェみたいに無力で無価値なゴミガキはな、黙って俺の後ろでブルブル震えながらバカみてえに小便でも漏らしてりゃあそれでいいんだよッ!! 何の力もねえくせに思い上がってんじゃねえぞボケがッ!!」
「……でっ、でも」
「でもじゃねぇッ!!」
「はっ、はい。すみません……」
普段の小生意気な態度はどこへやら。樋田の本気の剣幕に、松下も思わず下を向いてしょぼくれてしまう。
まだまだコイツには言いたいことが山程あるが、一番伝えたいことは伝えられたはずだ。もうこれ以上声を荒げる必要もないだろう。
「……チッ、分かったらもう余計な真似はすんなよ。お前みたいな戦わない側の人間が、そう簡単に命なんて賭けていいはずはねぇんだ。薄汚え暴力の世界は俺みたいなクズにでも押し付けときゃそれでいいんだよ」
「ちょっ、ちょっと待ってください。分かりましたから一人で勝手に行かないでくださいよッ!!」
樋田はそれだけ言い残すと、松下に背を向けて再び通路の中を歩き出す。全身は泥のように重いし、あまりにも血を流しすぎてしまった。それでも、後ろからちゃんと小さな足音が付いてきているのを確認し、必ずや彼女をこの異界の中から脱出させねばならないと、改めて心に誓いながら――――。
「……へぇ、最初は育ち方間違えたのかと思ったけど、根っこのところは大して変わってないじゃない」
その突如湧いた少女の声に、樋田は反射的に松下の体を背中に隠す。
それはどこか聞き覚えのある声であった。まるで炎のように刺々しく、それでいて諦念が入り混じった退廃的な声色。前の方からゆっくりと近付いてくるその影に、樋田と松下は揃って目を見開く。
「……そんな、なんでここに貴方が」
「……テメェはまさか」
「そうよ。今回はちゃんと覚えていてくれたのね。少し、嬉しいわ……本当に、少しだけだけど」
そのあまりにも異様な外見を忘れるはずがない。
まるでガーネットをそのまま目窪に埋め込んだような紅の瞳に、薔薇ですら恥じらいを覚えるであろう鮮やかな赤髪。肩の辺りで切り揃えられたそのミディアムヘアーの後ろでは、長い中華風の三つ編みが二本揺れている。
確かに最初から変わった女だとは思っていたが、まさかコイツがこちら側に属する人間だとは思いもしなかった。
松下は彼女のことがよっぽど恐ろしいのか、鷲獅子に襲われたとき以上の恐怖をその顔に浮かべている。
そのスラリと背の高い少女は、間違いなく先週校門で樋田に絡んできた唐辛子頭であり、そして松下の言うこの学園の中で絶対に逆らってはいけない四人の一人でもある――――秦漢華その人であった。




