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プロローグ 『出逢いと別れは刻々と』


 ――――……アンタなんて、生まれて来なければ良かったのに。


 樋田可成が母親から――いや、正しくは母親だと聞かされた若い女から、生まれて初めて言われた言葉がそれであった。

 そのときの記憶は酷く曖昧で、確かにこの目で見たはずの母の顔も、この耳で聞いたはずの母の声も、何故だかハッキリと思い出すことが出来ない。


 それでも、思わず母に向けて伸ばしかけた自分の手が、強い拒絶と共に弾かれたその瞬間、心臓が締め付けられるように傷んだことは今でも微かに覚えている。


 物心がついた頃から、樋田可成(ひだよしなり)の生きる世界に母という概念は存在しなかった。

 樋田は生まれてからその日まで、母の顔を見たことも、声を聞いたこともなく、そもそもその名前すらほんの数日前に聞かされたばかりだったのだ。


 それでもその日、その小さな男の子は馬鹿みたいに舞い上がっていた。


 嗚呼自分にもちゃんと母親というものがいたのだと、「母さん」と呼んで甘えてもいい人がいたのだと、そしてもうそんな当たり前のことを羨ましがらなくてもいいのだと、幼き頃の彼は確かにそう信じて疑っていなかったのである。



 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()



 樋田が何度「母さん」と呼んでも、喚いても、叫んでも、嘆いても、結局その女は自分の息子に何一つ言葉を返してはくれなかった。


 分からなかった、全くもって訳が分からなかった。

 胸に抱いていた希望は残らず崩れ落ち、「自分は何のために生まれてきたのだろう」と、そんなあまりにも悲しすぎる考えばかりが頭を過る。


 それでも幼子は何とか自分が実の母親に拒絶されていることを理解し、子供心ながらにそれを仕方がないことだと受け入れ、それから二度と母に会いたいとは言い出さなくなった。



 そして、その成れの果てがこのザマである。



 別に自分の性格の悪さを親のせいにするほど、樋田も救えない人間ではない。彼も自分がこんなしょうもない人間に育ってしまったのは、他の誰でもない己の責任であるのだと自覚している。

 今の樋田可成を形作っているのは、間違いなく自分自身がこれまでに選び取ってきた道の積み重ねでしかないのだと。


 だがしかし、それでも彼が「他人に認められること」に対して異常な執着を持つようになったのは、間違いなくあの出来事がきっかけであったように思う。




 ♢



 そうして樋田が母の存在を心の中から抹消し、それから約十年が過ぎた四月の半ば頃。

 彼は樋田可英ひだよしひで――――即ち自分の父親が死んだことを、親戚からの急報などではなく、テレビのニュースの速報で知ることとなった。


 確か退院祝いを口実に晴と細やかな宴を催し、ワイワイガヤガヤとくだらないことを言い合っていたちょうどそんなときだったと思う。

 「興天こうてん重工の代表取締役会長、樋田可英氏変死」。そんな文言を画面上のアナウンサーが澄まし顔で読み上げた瞬間、樋田は冗談抜きで一瞬時が止まったのかと思った。


 あまりの衝撃に真っ白になった頭の中へ、メディアからの情報が次々と乱暴に投げ込まれていく。

 父の遺体が発見された場所は自宅であったこと。

 更には死後から既に二日ほど経過している状態であったこと。

 そして何より、その遺体は首を切り落とされた明らかな他殺体であったこと。


 また葬儀は関係者のみで執り行われる予定とのことだが、残念ながら実の息子はその枠には入れてもらっていないらしい。


 続いてテレビ画面上には、およそ十年ぶりに見る父親の顔写真が大きく表示された。

 どっからどうみても犯罪者としか思えないクソみたいな凶相に、薬でもキメてるのかと思うほどに濃い目の下の隈。その笑えるくらい自分に似ている面構えを見ながら、確か樋田は「ああ、やはりあの男は本当に自分の父親だったんだなあ」と、まるで他人事のように呟いていた。


 ――――カセイ。


 そうして一人呆然としていた自分のことを、晴が酷く悲しそうな顔で見つめてきたのを良く覚えている。

 それから彼女は黙って樋田の手を両手で握った。

 いつの間にか冷たくなってしまったその手を、晴は痛いくらいにぎゅっと握りしめた。


 ワタシはここにいる――――まるでそう優しく言い聞かせるかのように、強く強く握りしめてくれたのだ。


 樋田はそのときくだらない意地を張ってしまい、一度はその手を振り払ってしまったが、それでも晴はまた黙って少年の手を握り続けた。


 月並みな慰めの言葉を口にすることも、興味本位に事情に首を突っ込むこともせず、少年の手の震えが収まるまで、或いは乱れた呼吸が落ち着くまで、或いは焦点の合わない瞳が正気を取り戻るまで、晴は黙って手を握り続けてくれた。

 それがそのときの樋田にとってどれだけ救いになったか、とても言葉でいい尽くせるようなものではない。


 そのあと感極まった己が一体何を言ったのかは正直自分でもよく覚えていない。それなりに恥ずかしいことを口走ったような記憶が微かにあるが、三度の飯と同じくらい人をからかうことが大好きな晴も、以後その日のことを話題に出すことは一度もなかった。



 ♢


 

 それからおよそ二週間。

 親父の死を忘れるには短すぎ、その死を受け入れるには充分なだけの時間が過ぎだ。


 結局実の父親が死んだというのに、樋田可成の生活は特に変わらなかった。唯一変わったことと言えば、毎月振り込まれる生活費の名義が、名前も知らない別の()()に変わったことくらいである。


 少年がこれほど早く現実を受け止められたのは、間違いなく晴のおかげだろう。例え親も友人も恋人もいなくとも、今の彼の隣にはあの少女がいる。


 だがしかし、それでも()()()()の四文字は、思った以上に少年の心を押し潰した。

 十年も会っていない親のことなど気にするなと言う声もあるかもしれないが、この感情はきっと同じ目に遭った人間にしか理解出来ないことであろう。

 もし晴との劇的な出会いが無ければ、樋田可成を真の意味で知っていると言える人間は、この世界から一人もいなくなっていたはずなのだ。

 そんなあったかもしれない最悪な可能性を想像するだけで、堪らなく自分という存在が不安定になっていくのである。


 何も言わねえまま勝手に死にやがって、そんな恨みの言葉が自然と口をつく。

 あの男は実の息子を放逐した理由も、そのくせ未練がましく生活費だけは送り続けた理由も、結局最期まで教えてはくれなかった。


 正直まだまだ先に機会はあると思っていたのだ。

 最悪自分の身を自分で養えるようになったら、一度無理にでも親父と会って、真正面から話し合おうと樋田は密かに考えていたのだ。


 だが、親父は死んでしまった。

 樋田可英が樋田可成の父親になる前に、そして樋田可成が樋田可英の息子になる前に、あの男は勝手に死んでしまったのである。


 何故親父は死んだのだろう。

 何故殺されたのだろう。

 何故、殺されなければならなかったのだろう。


 犯人への手掛かりは全くと言っていいほどに無いらしく、事件から二週間が経った今でもその謎は完全に闇に包まれたままだ。

 しかし、それでも世間の関心の移ろいは驚くほどに早く、既に芸能人のどうでもいい劣情報道に親父の死は覆い隠されてしまっているきらいがある。

 結局最後の手段と電脳世界に頼ってみても、不自然な程に父親に関する情報は存在しなかった。


 だがしかし、それでも樋田は父親の死から目を逸らしたわけではない。今も彼は顔も分からない犯人のことを心の底から恨んでいる。例えどれだけ時間がかかったとしても、いつか必ずソイツを殺してやると激しい憎悪の感情を燃やしている。


 これは後になって気付いたことだが、人生の中でろくに関わることがなかったにも関わらず、やはり自分は己の父親が殺されたことに激しい怒りを覚えていたのだと思う。


 樋田は今だって親父もお袋も子供を作る資格のないクソ野郎だったと思っているし、二人のことを少しも恨んでないと言えば、それは間違いなく嘘になる。

 むしろ「さっさとくたばってしまえ」と思ったことだって、それこそ数え切れないほどもあった。

 だがしかし、例えそんな無責任な人間であっても、やはりあの二人は樋田可成の両親なのだ。自分をこの世界に産み落としてくれた、かけがえのない唯一の存在なのだ。


 親父が実際に死んでから、ようやく気付けたことが一つだけある。

 いくら口汚く恨みの言葉を吐いても、いくらその存在を突き放そうとしても、やはり自分は親父とお袋を愛しており、そして彼等に愛してもらいたかったのだと。




本日より『隻翼ノ天使(エンジェラー)〜堕天系美少女と殺伐同棲〜』連載再開です。一章と比べると遅い更新になりそうですか、出来る限り早く公開できるよう力を尽くします。

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